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  なぞ の女は 宗近 むねちか 家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり 炭団 たどん が水晶と光る。禅家では柳は緑花は くれない と云う。あるいは雀はちゅちゅで からす はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を なべ の中へ入れて、 方寸 ほうすん 杉箸 すぎばし ぜ繰り返す。芋をもって みず からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は 金剛石 ダイヤモンド のようなものである。いやに光る。そしてその光りの 出所 でどころ が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。 神楽 かぐら めん には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。

 真率なる快活なる宗近家の 大和尚 だいおしょう は、かく物騒な女が あめ した に生を けて、しきりに鍋の底を き廻しているとは思いも寄らぬ。 唐木 からき の机に唐刻の 法帖 ほうじょう を乗せて、厚い坐布団の上に、 信濃 しなの の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から はち うた っている。謎の女はしだいに近づいてくる。

 悲劇マクベスの 妖婆 ようば なべ の中に天下の 雑物 ぞうもつ さら い込んだ。石の影に 三十日 みそか の毒を人知れず吹く よる ひき と、燃ゆる腹を黒き かく 蠑※ いもり

[_]
[36]
きも と、蛇の まなこ 蝙蝠 かわほり の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて とが れる爪は、世を のろ 幾代 いくよ さび せ尽くしたる くろがね 火箸 ひばし を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を あわ と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。

 それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは 真昼間 まっぴるま である。鍋の底からは 愛嬌 あいきょう いて出る。 ただよ うは笑の波だと云う。 ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが ひん よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ 能掛 のうがかり である。 大和尚 だいおしょう こわ がらぬのも無理はない。

「いや。だいぶ 御暖 おあったか になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな てのひら を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。

「その のち は……」

「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。

「ちょっと出ますんでございますが、つい 無人 ぶにん だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう 御無沙汰 ごぶさた になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ あと をつける。

「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。

「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。

 黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。

「御宅でも皆様御変りもなく……毎々 欽吾 きんご 藤尾 ふじお が出まして、 御厄介 ごやっかい にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」

 頭はここでようやく上がる。 阿父 おとっさん はほっと 気息 いき をつく。

「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく あった かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが

「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど さかり でしょう」で結んでしまった。

「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日 ぜん がちょうど 観頃 みごろ でございましたが、 一昨日 いっさくじつ の風で、だいぶ いた められまして、もう……」

「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え?  浅葱桜 あさぎざくら 。そうそう。あの色が珍らしい」

「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは すご いような心持が致します」

「そうですか、アハハハハ。 荒川 あらかわ には 緋桜 ひざくら と云うのがあるが、 浅葱桜 あさぎざくら は珍らしい」

「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」

「ないですよ。もっとも桜も 好事家 こうずか に云わせると百幾種とかあるそうだから……」

「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。

「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も はじめ が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは 呑気 のんき なものでアハハハハ。――どうです 粗菓 そか だが一つ 御撮 おつま みなさい。 岐阜 ぎふ 柿羊羹 かきようかん

「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」

「あんまり、 うま いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は はし を上げて皿の中から ぎ取った羊羹の 一片 ひときれ を手に受けて、 ひと りでむしゃむしゃ食う。

「嵐山と云えば」と 甲野 こうの の母は切り出した。

「せんだって じゅう 欽吾 きんご がまた、いろいろ御厄介になりまして、 御蔭 おかげ 様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の 我儘者 わがままもの でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」

「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」

「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして 朋友 ほうゆう と申すものがただの一人もございませんそうで……」

「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに 附合 つきあい が出来にくくなる。アハハハハ」

「私には女でいっこう分りませんが、何だか ふさ いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」

「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。 うち にさえいるとあなた、 いもと にばかりからかって――いや、あれでも困る」

「いえ、誠に陽気で 淡泊 さっぱり してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな 彼人 あれ の病気のせいだから、今さら 愚癡 ぐち をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」

「ごもっともで」と宗近老人は 真面目 まじめ に答えたが、ついでに 灰吹 はいふき をぽんと たた いて、銀の 延打 のべうち 煙管 きせる を畳の上にころりと落す。 雁首 がんくび から、余る煙が流れて出る。

「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」

「御蔭様で……」

「せんだって うち へ見えた時などは みんな と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」

「へええ」これは 仔細 しさい らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。

「そりゃ、どうも」

彼人 あれ の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」

「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」

  なぞ の女は自分の思う事を ひと に云わせる。手を くだ しては落度になる。向うで すべ って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような 泥海 ぬかるみ を知らぬ に用意するばかりである。

「その結婚の事を 朝暮 あけくれ 申すのでございますが――どう っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか 一日 いちじつ も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から ねつけられるのみで……」

「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは 阿母 おっかさん だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」

「御親切にどうもありがとう存じます」

「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人 背負 しょ い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。 何歳 いくつ になっても心配は絶えませんね」

此方 こちら 様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で 配偶 つれあい に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、 阿母 おっかさん わたし はこんな 身体 からだ で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に むこ を貰って、 阿母 おっか さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」

 謎の女は 和尚 おしょう をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。 紫檀 したん ふた を丁寧に かぶ せる。 煙管 きせる は転がった。

「なるほど」

 和尚の声は例に似ず沈んでいる。

「そうかと申して うみ の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」

「ふん、困るね」

 和尚は 手提 てさげ の煙草盆の浅い 抽出 ひきだし から 欝金木綿 うこんもめん 布巾 ふきん を取り出して、 くじら つる 鄭重 ていちょう に拭き出した。

「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い にく ければ」

「いろいろ御心配を掛けまして……」

「そうして見るかね」

「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」

「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に さわ らないように云うつもりですがね」

「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ あと が大変な騒ぎになりますから……」

「弱るね、そう、 かん が高くなってちゃあ」

「まるで 腫物 はれもの さわ るようで……」

「ふうん」と 和尚 おしょう は腕組を始めた。 ゆき が短かいので太い ひじ 無作法 ぶさほう に見える。

  なぞ の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は 疾言 しつげん 遽色 きょしょく である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を そろ えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の 鄭重 ていちょう なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。

「もし 彼人 あれ が断然 うち を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」

むこ かね。聟となると……」

「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」

「そりゃ、そう」

「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」

左様 さよう さね」と和尚は単純な首を傾けたが

「藤尾さんは 幾歳 いくつ ですい」

「もう、明けて になります」

「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた てのひら を下から のぞ き込むようにする。

「いえもう、 身体 なり ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」

「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」

 話は ほう って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。

「こちらでも、糸子さんやら、 はじめ さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない 呑気 のんき な女だと おぼ し召すでございましょうが……」

「いえ、どう致して、実は わたし の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで―― はじめ も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、 今日明日 きょうあす と云う訳にも行かないですが、 おそ かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」

「でございますとも」

「ついては、その、藤尾さんなんですがね」

「はい」

「あの かた なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」

「はい」

「どうでしょう、 阿母 おっかさん の御考は」

「あの とおり 行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」

「いいじゃ、ありませんか」

「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」

「御不足ならともかく、そうでなければ……」

「不足どころじゃございません。願ったり かな ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ 彼人 あれ に困りますので。一さんは宗近家を 御襲 おつ ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」

「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」

「そう云うものでございましょうかね」

「それに御承知の通、 阿父 おとっさん がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば くなった人も満足だろう」

「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに 配偶 つれあい さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても よろ しい――のでございますが」

 謎の女の云う事はしだいに 湿気 しっけ を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。 かろ うじて謎の女の謎をここまで叙し きた った時、筆は、一歩も前へ進む事が いや だと云う。日を作り夜を作り、海と おか とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。

 日のあたる別世界には二人の 兄妹 きょうだい が活動する。六畳の 中二階 ちゅうにかい の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が 信楽 しがらき はち に、 わだか まる根を盛りあげて、くの字の影を えん に伏せる。 一間 いっけん 唐紙 からかみ は白地に 秦漢瓦鐺 しんかんがとう の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の とこ は、軸を嫌って、 籠花活 かごはないけ に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。

 糸子は床の間に縫物の五色を、 あや と乱して、 糸屑 いとくず のこぼるるほどの 抽出 ひきだし を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の 行方 ゆくえ は、一針ごとに春を きざ かす かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。

  腹這 はらばい 弥生 やよい の姿、寝ながらにして天下の春を領す。 物指 ものさし の先でしきりに敷居を たた いている。

「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」

「替えたげましょうか」

「そうさ。替えて貰ったところで あんま もう かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」

「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」

「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」

「何が?」

「何がって、この松さ。こりゃたしか 阿父 おとっさん 苔盛園 たいせいえん で二十五円で売りつけられたんだろう」

「ええ。大事な盆栽よ。 転覆 ひっくりかえし でもしようもんなら大変よ」

「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる 阿爺 おとっさん も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら かつ ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」

「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」

「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」

「おやいやだ。そりゃ わたし は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」

「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」

「だって証拠があるんですもの」

「馬鹿の証拠がかい」

「ええ」

「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」

「その盆栽はね」

「うん、この盆栽は」

「その盆栽はね――知らなくって」

「知らないとは」

「私大嫌よ」

「へええ、 今度 こんだ こっちの大発明だ。ハハハハ。 きらい なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」

阿父 おとう さまが御自分で持っていらしったのよ」

「何だって」

「日が あた って二階の方が松のために好いって」

阿爺 おやじ も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」

「なに、そりゃ、ちょっと。 発句 ほっく ?」

「まあ発句に似たもんだ」

「似たもんだって、本当の発句じゃないの」

「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」

「これ? これは 伊勢崎 いせざき でしょう」

「いやに ぴか つくじゃないか。兄さんのかい」

阿爺 おとうさま のよ」

阿爺 おとっさん のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の 袖無 ちゃんちゃん 以後 御見限 おみかぎ りだね」

「あらいやだ。あんな うそ ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」

「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」

「おや、ひどい 襟垢 えりあか だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは あぶら が多過ぎるんですよ」

「何が多過ぎても、もう駄目だよ」

「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」

「新らしいんだろうね」

「ええ、洗って張ったの」

「あの 親父 おとっさん の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」

「何が」

「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには 御古 おふる ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある 陣笠 じんがさ をかぶれと云うかも知れない」

「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」

「達者なのは口だけか。 可哀想 かわいそう に」

「まだ、あるのよ」

 宗近君は返事をやめて、 欄干 らんかん 隙間 すきま から 庭前 にわさき の植込を 頬杖 ほおづえ に見下している。

「まだあるのよ。 一寸 ちょいと 」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと つま んだ合せ目を、見る けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。

「まだあるのよ。兄さん」

「何だい。口だけでたくさんだよ」

「だって、まだあるんですもの」と針の 針孔 めど 障子 しょうじ へ向けて、 可愛 かわい らしい 二重瞼 ふたえまぶた を細くする。宗近君は依然として 長閑 のどか な心を頬杖に託して庭を なが めている。

「云って見ましょうか」

「う。うん」

  下顎 したあご は頬杖で動かす事が出来ない。返事は 咽喉 のど から鼻へ抜ける。

あし。分ったでしょう」

「う。うん」

 紺の糸を くちびる 湿 しめ して、指先に とが らすは、 射損 いそく なった針孔を通す女の はかりごと である。

「糸公、誰か御客があるのかい」

「ええ、甲野の 阿母 おっかさん 御出 おいで よ」

「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい かな わない」

「でも ひん がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」

「そう兄さんが きらい じゃ、世話の 仕栄 しばえ がない」

「世話もしない癖に」

「ハハハハ実は狐の 袖無 ちゃんちゃん の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」

「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」

「いえ、上野や 向島 むこうじま は駄目だが 荒川 あらかわ は今が さかり だよ。荒川から 萱野 かやの へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」

「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。

「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」

「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」

「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に 沢山 たんと はないぜ」

「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を してちょうだい」

「そうして 裁縫 しごと を勉強すると、今に御嫁に行くときに 金剛石 ダイヤモンド 指環 ゆびわ を買ってやる」

うま いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」

「あるのって、――今はないさ」

「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」

「えらいからさ」

「まあ――どこかそこいらに はさみ はなくって」

「その 蒲団 ふとん の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。 洒落 しゃれ かい」

「これ?  奇麗 きれい でしょう。 縮緬 ちりめん 御申 おさる さん」

「御前がこしらえたのかい。感心に うま く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」

「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな 椽側 えんがわ へ煙草の灰を捨てるのは 御廃 およ しなさいよ。――これを して上げるから」

「なんだいこれは。へええ。 板目紙 いためがみ の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。 閑人 ひまじん だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の くず をかい。へええ」

「兄さんは藤尾さんのような かた が好きなんでしょう」

「御前のようなのも好きだよ」

「私は別物として――ねえ、そうでしょう」

いや でもないね」

「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」

「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の 叔母 おばさん はしきりに密談をしているね」

「ことに ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」

「そうか、それじゃ聴きに行こうか」

「あら、御廃しなさいよ――わたし、 火熨 ひのし がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」

「自分の うち で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」

「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」

「どうも 剣呑 けんのん だね。それじゃこっちも 気息 いき を殺して 寝転 ねころ んでるのか」

「気息を殺さなくってもいいわ」

「じゃ気息を活かして寝転ぶか」

「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」

「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」

「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」

  裁縫 しごと の手を めて、火熨に 逡巡 ためら っていた糸子は、 入子菱 いりこびし かが った指抜を いて、 ※色 ときいろ

[_]
[37]
しろかね の雨を刺す 針差 はりさし を裏に、 如鱗木 じょりんもく の塗美くしき ふた をはたと落した。やがて 日永 ひなが の窓に赤くなった 耳朶 みみたぶ のあたりを、 平手 ひらて で支えて、右の ひじ を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた ひざ を斜めに くず した。 襦袢 じゅばん の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく すべ って、くっきりと 普通 つね よりは明かなる肉の柱が、 ちょう と傾く 絹紐 リボン の下に あざや かである。

「兄さん」

「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」

「藤尾さんは駄目よ」

「駄目だ? 駄目とは」

「だって来る気はないんですもの」

「御前聞いて来たのか」

「そんな事がまさか 無躾 ぶしつけ に聞かれるもんですか」

「聞かないでも分かるのか。まるで 巫女 いちこ だね。――御前がそう 頬杖 ほおづえ を突いて針箱へ たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら 天晴 あっぱれ な姿勢だハハハハ」

沢山 たんと 御冷 おひ やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」

 云いながら糸子は首を ささ えた白い腕をぱたりと倒した。 そろ った指が針箱の角を おさ えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、 し付けられた手の あと 耳朶 みみたぶ 共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う 二重 ふたえ まぶた は、涼しい ひとみ を、長い まつげ に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を ひじ ねて起き上がる。

「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」

「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。 派出 はで な色の 絹紐 リボン がちらりと前の方へ顔を出す。

「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」

「そう」と 俯目 ふしめ になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。

「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」

今度 こんだ の試験の結果はまだ分らないの」

「もう じき だろう」

「今度は是非及第なさいよ」

「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」

かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある かた が好きなんですよ」

「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」

「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ たとえ に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」

「うん」

「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」

「そうか。おやおや」

「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」

「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の いたり だ」

「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」

「あんまり気楽過ぎるよ」

「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも にならないようね」

「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」

「そりゃ思うわ」

「小野さんとどっちが好い」

「そりゃ兄さんの方が好いわ」

「甲野さんとは」

「知らないわ」

 深い日は障子を とお して糸子の頬を暖かに射る。 俯向 うつむ いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。

「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」

「あら」と ひるが える 襦袢 じゅばん そで のほのめくうちを、二本の指に、ここと おさ えて、軽く抜き取る。

「ハハハハ見えない所でも、 うま く手が届くね。 盲目 めくら にすると かん の好い 按摩 あんま さんが出来るよ」

「だって れてるんですもの」

「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」

「なに」

「京都の宿屋の隣に こと を引く 別嬪 べっぴん がいてね」

端書 はがき に書いてあったんでしょう」

「ああ」

「あれなら知っててよ」

「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと 嵐山 あらしやま へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に 見惚 みと れて茶碗を落してしまってね」

「あら、本当? まあ」

「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」

うそ よ」

「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」

「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」

「それが何かの 因縁 いんねん だよ」

「人を……」

「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」

「もうたくさん」

「たくさんなら そう」

「その女の かた は何とおっしゃるの、名前は」

「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」

「教えたって好いじゃありませんか」

「ハハハハそう 真面目 まじめ にならなくっても好い。実は うそ だ。全く兄さんの作り事さ」

にく らしい」

 糸子はめでたく笑った。