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 一本の 浅葱桜 あさぎざくら が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ えん は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の 長火鉢 ながひばち 手取形 てとりがた 鉄瓶 てつびん たぎ らして前には しぼ 羽二重 はぶたえ 座布団 ざぶとん を敷く。布団の上には 甲野 こうの の母が ひん よく すわ っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、 かん すじ が裏を通って額へ突き抜けているらしい 上部 うわべ を、浅黒く 膚理 きめ の細かい皮が包んで、外見だけは 至極 しごく 穏やかである。――針を海綿に かく して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に 膏薬 こうやく って 創口 きずぐち を快よく慰めよ。出来得べくんば くちびる を血の出る局所に けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を あら わすものは ほろ ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。

 静かな椽に足音がする。今 おろ したかと思われるほどの 白足袋 しろたび を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い ふき

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の椽に引き擦るを軽く 蹴返 けかえ しながら、 障子 しょうじ をすうと開ける。

  居住 いずまい をそのままの母は、濃い まゆ を半分ほど入口に傾けて、

「おや 御這入 おはいり 」と云う。

  藤尾 ふじお は無言で あと を締める。母の むこう に火鉢を隔ててすらりと坐った時、 鉄瓶 てつびん はしきりに鳴る。

 母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を 俯目 ふしめ に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。

 口多き時に まこと 少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は きつつある。

 藤尾はやがて顔を上げた。

「帰って来たのね」

 親、子の眼は、はたと行き合った。真は 一瞥 いちべつ こも る。熱に えざる時は骨を あら わす。

「ふん」

  長煙管 ながぎせる 煙草 たばこ の殻を ちょう とはたく音がする。

「どうする気なんでしょう」

「どうする気か、 彼人 あのひと 料簡 りょうけん ばかりは 御母 おっか さんにも分らないね」

 雲井の煙は 会釈 えしゃく なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。

「帰って来ても おんな じ事ですね」

「同じ事さ。 生涯 しょうがい あれなんだよ」

  御母 おっか さんの かん の筋は裏から表へ浮き上がって来た。

うち ぐのがあんなに いや なんでしょうか」

「なあに、口だけさ。それだから にく いんだよ。あんな事を云って 私達 わたしたち 当付 あてつ けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから 今日 きょう までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。 え切らないっちゃありゃしない。 彼人 あのひと の顔を見るたんびに 阿母 おっかさん 疳癪 かんしゃく が起ってね。……」

「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」

「なに、通じても、 不知 しら を切ってるんだよ」

「憎らしいわね」

「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」

 藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を はら む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。

「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが 滅多 めった にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、 御廃 およ しなさい、 阿母 おっか さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ こも って寝転んでるしさ。――そうして 他人 ひと には財産を藤尾にやって自分は 流浪 るろう するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」

「どこへ行って、そんな事を云ったんです」

宗近 むねちか 阿爺 おとっさん の所へ行った時、そう云ったとさ」

「よっぽど男らしくない 性質 たち ですね。それより早く 糸子 いとこ さんでも もら ってしまったら好いでしょうに」

「全体貰う気があるのかね」

「兄さんの 料簡 りょうけん はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」

 母は鳴る 鉄瓶 てつびん おろ して、炭取を取り上げた。 隙間 すきま なく しぶ れた 劈痕焼 ひびやき に、二筋三筋 あい を流す波を えが いて、 真白 ましろ な桜を気ままに散らした、 薩摩 さつま 急須 きゅうす の中には、緑りを細く り込んだ 宇治 うじ の葉が、 ひる の湯に やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。

「御茶でも入れようかね」

「いいえ」と藤尾は く抜け出した かおり のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を たた くほどは、さほどとも思えぬが、 ふち に近くようやく色を増して、濃き水は あわ おもて に片寄せて動かずなる。

 母は らしたる灰の盛り上りたるなかに、 佐倉炭 さくらずみ の白き 残骸 なきがら まった きを こぼ ちて、 しん に潜む赤きものを片寄せる。 ぬく もる穴の くず れたる中には、黒く輪切の正しきを えら んで、ぴちぴちと ける。――室内の春光は くまでも 二人 ふたり 母子 ぼし に穏かである。

 この作者は趣なき会話を嫌う。 猜疑 さいぎ 不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。 閑花素琴 かんかそきん の春を つかさ どる人の歌めく あめ した に住まずして、 半滴 はんてき 気韻 きいん だに帯びざる野卑の言語を 臚列 ろれつ するとき、 毫端 ごうたん に泥を含んで双手に筆を めぐ らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の 急須 きゅうす と、佐倉の切り炭を えが くは瞬時の かん ぬす んで、 一弾指頭 いちだんしとう に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は むか しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。 うれ しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の せつ なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。

「宗近と云えば、 はじめ もよっぽど 剽軽者 ひょうきんもの だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」

  うまや 鳥屋 とや といっしょにあった。 牝鶏 めんどり の馬を評する語に、――あれは 鶏鳴 とき をつくる事も、 鶏卵 たまご を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。

「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。 普通 なみ のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」

「鉄砲玉だよ」

 意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は なめ らかな ほお に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。 砲兵工廠 ほうへいこうしょう の鉄砲玉は鉛を かして る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は くまでも 真面目 まじめ である。母には娘の笑った意味が分からない。

「御前はあの人をどう思ってるの」

 娘の笑は、 はし なくも母の疑問を起す。子を知るは親に かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども から 天竺 てんじく である。

「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」

 母は鋭どき まゆ の下から、娘を きっ と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。

「御前あすこへ行く気があるのかい」

「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための 下拵 したごしらえ と見える。

「ああ」と母は軽く答えた。

「いやですわ」

「いやかい」

「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。 たけのこ を輪切りにすると、こんな風になる。 はり のある まゆ に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお こも る何物かがちょっと はため いてすぐ消えた。母は 相槌 あいづち を打つ。

「あんな見込のない人は、 わたし も好かない」

 趣味のないのと見込のないのとは別物である。 鍛冶 かじ かみ かんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じ つるぎ である。

「いっそ、ここで、 判然 はっきり 断わろう」

「断わるって、約束でもあるんですか」

「約束? 約束はありません。けれども 阿爺 おとっさん が、あの金時計を はじめ にやると御言いのだよ」

「それが、どうしたんです」

「御前が、あの時計を 玩具 おもちゃ にして、赤い たま ばかり、いじっていた事があるもんだから……」

「それで」

「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって いて行くかも知れないが、それでも好いかって、 冗談 じょうだん 半分に みんな の前で一におっしゃったんだよ」

「それを今だに なぞ だと思ってるんですか」

「宗近の 阿爺 おとっさん 口占 くちうら ではどうもそうらしいよ」

「馬鹿らしい」

 藤尾は鋭どい一句を長火鉢の かど たた きつけた。反響はすぐ起る。

「馬鹿らしいのさ」

「あの時計は私が貰いますよ」

「まだ御前の部屋にあるかい」

「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」

「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」

「いいから下さい」

 鎖の先に燃える 柘榴石 ガーネット は、 蒔絵 まきえ 蘆雁 ろがん を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。 おぼろ とも化けぬ 浅葱桜 あさぎざくら が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今 少時 しばし まも えん に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、 瘠面 やさおもて の影になった半面を、障子のうちに傾けて

「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」

と云う。 障子 しょうじ のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。

 同時に豊かな が宗近家の座敷に とも る。静かなる夜を陽に返す 洋灯 ランプ の笠に白き光りをゆかしく めて、 唐草 からくさ を一面に高く たた き出した白銅の 油壺 あぶらつぼ が晴がましくも よい に曇らぬ色を誇る。 灯火 ともしび の照らす限りは顔ごとに にぎ やかである。

「アハハハハ」と云う声がまず起る。この 灯火 ともしび 周囲 まわり に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを 恰好 かっこう と思う。

「それじゃ 相輪※ そうりんとう

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も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた あご はやむを得ず 二重 ふたえ に折れている。頭はだいぶ 禿 げかかった。これを時々 でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。

「相輪※

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た何ですか」と宗近君は 阿爺 おやじ の前で変則の 胡坐 あぐら をかいている。

「アハハハハそれじゃ 叡山 えいざん へ何しに登ったか分からない」

「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、 甲野 こうの さん」

 甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の えり を正しく坐っている。甲野さんが問い けられた時、 ※然 にこやか

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な糸子の顔は うご いた。

「相輪※

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はなかったようだね」と甲野さんは手を ひざ の上に置いたままである。

「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」

「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」

「何と云う所か知ら」

阿爺 おとっさん 何でも一本橋を渡ったんですよ」

「一本橋を?」

「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと 若狭 わかさ の国へ出る所だそうです」

「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。

「だって君が、そう云ったじゃないか」

「それは 冗談 じょうだん さ」

「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に 二重瞼 ふたえまぶた の波を寄せた。

「一体御前方はただ 歩行 ある くばかりで 飛脚 ひきゃく 同然だからいけない。――叡山には 東塔 とうとう 西塔 さいとう 横川 よかわ とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」

「なに、ただの山のつもりで登ったんです」

「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」

「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。 灯火 ともしび は明かに揺れる。糸子は そで を口へ当てて、 くず しかかった笑顔の収まり ぎわ つむり を上げながら、 ひとみ を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな 作略 さりゃく はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。

御叔父 おじ さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」

「やはり 延暦寺 えんりゃくじ の区域だね。広い山の中に、あすこに かた まり、ここに一と塊まりと坊が かた まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」

「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。

「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。

とう 修羅 しゅら 西 さい は都に近ければ 横川 よかわ の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番 さび しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した 相輪※ そうりんとう

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から五十丁も 這入 はい らなければ行かれない」

「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。

「そら謡曲の 船弁慶 ふなべんけい にもあるだろう。――かように そうろう ものは、 西塔 さいとう かたわら 住居 すまい する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」

「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。―― 阿爺 おとっ さん 叡山 えいざん の総長は誰ですか」

「総長とは」

「叡山の――つまり叡山を建てた男です」

開基 かいき かい。開基は 伝教大師 でんぎょうだいし さ」

「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体 むか しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」

 甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。

「伝教大師は 御前 おまい 、叡山の ふもと で生れた人だ」

「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」

「何が」

「伝教大師御誕生地と云う 棒杭 ぼうぐい が坂本に建っていましたよ」

「あすこで生れたのさ」

「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」

「僕は気が着かなかった」

「豆に気を取られていたからさ」

「アハハハハ」と老人がまた笑う。

 観ずるものは見ず。昔しの人は そう こそ 無上 むじょう なれと説いた。 く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今 せて 杳然 ようぜん と去るを思わぬが世の常である。堂に 法華 ほっけ と云い、石に 仏足 ぶっそく と云い、 とう

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相輪 そうりん と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を して 吾事 わがこと おわ ると思うは しかばね いだ いて活ける人を 髣髴 ほうふつ するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。 太上 たいじょう は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが 叡山 えいざん に登って叡山を知らぬはこの故である。

 過去は死んでいる。 大法鼓 だいほうこ を鳴らし、 大法螺 だいほうら を吹き、 大法幢 だいほうとう てて王城の鬼門を まも りし むか しは知らず、中堂に仏眠りて 天蓋 てんがい 蜘蛛 くも の糸引く 古伽藍 ふるがらん を、 いま さらのように 桓武 かんむ 天皇の 御宇 ぎょう から堀り起して、無用の 詮議 せんぎ に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある 閑人 ひまじん 所作 しょさ である。現在は こく をきざんで われ を待つ。 有為 うい の天下は眼前に落ち きた る。双の かいな は風を って 乾坤 けんこん に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。

 ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山 一刹 いっさつ の指揮によって、 夜来 やらい 日来 にちらい に面目を新たにするものじゃと思い めたように、 ※々 びび

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として叡山を説く。説くは もと より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。

「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を えら んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな 贅沢 ぜいたく になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」

 宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外 真面目 まじめ である。

阿爺 おとっさん 叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで 蕎麦 そば を食いに行くそうですよ」

「アハハハ 真逆 まさか

「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」

「それはのらくら坊主だろう」

「すると僕らはのらくら書生かな」

「御前達はのらくら以上だ」

「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」

「あるだろう、そのくらいは」

「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」

「だから、どうなんだい」

到底 とても のらくらじゃ出来ない仕事ですよ」

「アハハハハ」と老人は大きな腹を り出して笑った。 洋灯 ランプ かさ 喫驚 びっくり するくらいな声である。

「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。

「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、 僧侶 そうりょ にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは 一乗止観院 いちじょうしかんいん と云って、延暦寺となったのはだいぶ あと の事だ。その時分から妙な ぎょう があって、十二年間山へ こも り切りに籠るんだそうだがね」

「蕎麦どころじゃありませんね」

「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」

「そう山の中で年ばかり取ってどうする 了見 りょうけん かな」

と宗近君が今度は 独語 ひとりごと のように云う。

「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな 真似 まね でもするがいい」

「そりゃ駄目ですよ」

「なぜ」

「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に そむ く訳になりますからね」

「命令に?」

「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ こも ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」

 一座はどっと き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を さか に撫でる。垂れ懸った頬の肉が ふる え落ちそうだ。糸子は 俯向 うつむ いて声を殺したため 二重瞼 ふたえまぶた が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。

「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから 億劫 おっくう だ。―― 欽吾 きんご さんも、もう貰わなければならんね」

「ええ、そう急には……」

 いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも こも る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。

「しかし 阿母 おっか さんが心配するだろう」

 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは 一人 いちにん もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは 眇然 びょうぜん として天地の あいだ かか っている。世界滅却の日をただ 一人 ひとり 生き残った心持である。

「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」

 敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。

はじめ にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」

 老人は自分の心で、わが母の心を すい している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。

「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。

「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」

「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」

「なぜ」

「やっぱりのらくら以上だからでしょう」

「アハハハハ」

  今夕 こんせき の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。