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  やなぎ

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[13]
れて 条々 じょうじょう の煙を らん に吹き込むほどの雨の日である。 衣桁 いこう けた こん の背広の暗く下がるしたに、黒い 靴足袋 くつたび 三分一 さんぶいち 裏返しに丸く 蹲踞 うずくま っている。 違棚 ちがいだな せま い上に、偉大な 頭陀袋 ずだぶくろ えて、 締括 しめくく りのない ひも をだらだらと ものうく も垂らした かたわ らに、 錬歯粉 ねりはみがき 白楊子 しろようじ が御早うと 挨拶 あいさつ している。立て切った 障子 しょうじ 硝子 ガラス を通して白い雨の糸が細長く光る。

「京都という所は、いやに寒い所だな」と 宗近 むねちか 君は 貸浴衣 かしゆかた の上に 銘仙 めいせん の丹前を重ねて、 床柱 とこばしら の松の木を 背負 しょっ て、 傲然 ごうぜん 箕坐 あぐら をかいたまま、外を のぞ きながら、 甲野 こうの さんに話しかけた。

 甲野さんは 駱駝 らくだ 膝掛 ひざかけ を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが

「寒いより眠い所だ」

と云いながらちょっと顔の むき を換えると、 くし を入れたての れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた 靴足袋 くつたび といっしょになる。

「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ に来たようなものだ」

「うん。実に気楽な所だ」

「気楽になって、まあ結構だ。 御母 おっか さんが心配していたぜ」

「ふん」

「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」

「君あの がく の字が読めるかい」

「なるほど妙だね。 ※雨※風 せんうしゅうふう

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[14]
か。見た事がないな。何でも 人扁 にんべん だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」

「分らんね」

「分からんでもいいや、それよりこの ふすま が面白いよ。一面に 金紙 きんがみ を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに しわ が寄ってるには驚ろいたね。まるで 緞帳芝居 どんちょうしばい 道具立 どうぐだて 見たようだ。そこへ持って来て、 たけのこ を三本、景気に いたのは、どう云う 了見 りょうけん だろう。なあ甲野さん、これは なぞ だぜ」

「何と云う謎だい」

「それは知らんがね。意味が分からないものが いてあるんだから謎だろう」

「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」

「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。 気狂 きちがい の発明した 詰将棋 つめしょうぎ の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」

「じゃこの筍も気違の 画工 えかき が描いたんだろう」

「ハハハハ。そのくらい 事理 じり が分ったら 煩悶 はんもん もなかろう」

「世の中と筍といっしょになるものか」

「君、 昔話 むかしばな しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」

「人を中学生だと思ってる」

「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」

「うるさいな、知ってるよ」

「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない 執念深 しゅうねんぶか い人間だから、……」

「どっちが執念深いか分りゃしない」

「どっちでも、いいから、云って御覧」

「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」

「うん、知ってるね。それで」

「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を 奉納 ほうのう したところが……」

「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」

「そんな事があるのかって、君、知らないのか」

「そこまでは知らなかった」

「何だ。自分こそ知らない癖に」

「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」

「ところがその百姓が、車の ながえ と横木を かずら ゆわ いた結び目を誰がどうしても く事が出来ない」

「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その 結目 ノット をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」

「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」

「そりゃどうでもいい」

「この結目を解いたものは東方の てい たらんと云う 神託 しんたく を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」

「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」

「それじゃ、それでいいじゃないか」

「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う 了見 りょうけん がなくっちゃ駄目だと思うんだね」

「それもよかろう」

「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」

「切れば解けるのかい」

「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」

「都合か。世の中に都合ほど 卑怯 ひきょう なものはない」

「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」

「アレキサンダーなんか、そんなに えら いと思ってるのか」

 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は 箕坐 あぐら のまま旅行案内をひろげる。雨は なな めに降る。

 古い京をいやが上に びよと降る 糠雨 ぬかあめ が、赤い腹を空に見せて いと行く 乙鳥 つばくら こた えるほど繁くなったとき、 下京 しもきょう 上京 かみきょう もしめやかに れて、 三十六峰 さんじゅうろっぽう みど りの底に、音は 友禅 ゆうぜん べに を溶いて、菜の花に そそ ぐ流のみである。「 御前 おまえ 川上、わしゃ川下で……」と せり を洗う 門口 かどぐち に、 まゆ をかくす 手拭 てぬぐい の重きを脱げば、「 大文字 だいもんじ 」が見える。「 松虫 まつむし 」も「 鈴虫 すずむし 」も 幾代 いくよ の春を 苔蒸 こけむ して、 うぐいす の鳴くべき やぶ に、墓ばかりは残っている。鬼の出る 羅生門 らしょうもん に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り こぼ たれた。 つな

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[15]
ぎとった腕の 行末 ゆくえ は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの 春雨 はるさめ が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、 祇園 ぎおん では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。

 甲野さんは寝ながら日記を けだした。 横綴 よことじ の茶の 表布 クロース の少しは汗に ごれた かど を、折るようにあけて、二三枚めくると、一 ページ さん いち ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を って景気よく、

一奩 いちれん 楼角雨 ろうかくのあめ 閑殺 かんさつす 古今人 ここんのひと

と書いてしばらく考えている。 転結 てんけつ を添えて絶句にする気と見える。

 旅行案内を ほう り出して宗近君はずしんと畳を 威嚇 おどか して 椽側 えんがわ へ出る。椽側には 御誂向 おあつらえむき に一脚の 椅子 いす が、人待ち顔に、しめっぽく えてある。 連※ れんぎょう

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[16]
まばら なる花の間から とな の座敷が見える。 障子 しょうじ は立て切ってある。 うち では琴の がする。

たちまち きく

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[17]
弾琴響 だんきんのひびき 垂楊 すいよう 惹恨 うらみをひいて あらたなり

と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。

「宇宙は なぞ である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、 白頭 はくとう ※※ せんかい

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[18]
し、 中夜 ちゅうや 煩悶 はんもん するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」

 宗近君は 椅子 いす 横平 おうへい な腰を据えてさっきから隣りの こと を聴いている。 御室 おむろ 御所 ごしょ 春寒 はるさむ に、 めい をたまわる 琵琶 びわ の風流は知るはずがない。 十三絃 じゅうさんげん を南部の 菖蒲形 しょうぶがた に張って、 象牙 ぞうげ に置いた 蒔絵 まきえ した 気高 けだか しと思う 数奇 すき たぬ。宗近君はただ漫然と いているばかりである。

  滴々 てきてき と垣を おお 連※ れんぎょう

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[19]
な向うは 業平竹 なりひらだけ 一叢 ひとむら に、 こけ の多い御影の いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に 叡山苔 えいざんごけ わしている。琴の はこの庭から出る。

 雨は一つである。冬は 合羽 かっぱ こお る。秋は灯心が細る。夏は ふどし を洗う。春は―― 平打 ひらうち 銀簪 ぎんかん を畳の上に落したまま、 貝合 かいあわ せの貝の裏が朱と金と あい に光る かたわら に、ころりんと き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。

「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。

「耳に くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に とら えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは 本来空 ほんらいくう の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」

 琴の手は次第に繁くなる。 雨滴 あまだれ 絶間 たえま うて、白い爪が幾度か こま の上を飛ぶと見えて、 こまや かなる調べは、太き糸の と細き音を り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「 無絃 むげん の琴を いて始めて 序破急 じょはきゅう の意義を悟る」と書き終った時、 椅子 いす もた れて 隣家 となり ばかりを 瞰下 みおろ していた宗近君は

「おい、甲野さん、 理窟 りくつ ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか うま いぜ」

椽側 えんがわ から部屋の中へ声を掛けた。

「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。

「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと えん まで出張を命ずるから出て来なさい」

「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる 景色 けしき がない。

「おい、どうも東山が 奇麗 きれい に見えるぜ」

「そうか」

「おや、 鴨川 かもがわ わた やつ がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」

「渉ってもいいよ」

「君、 布団 ふとん 着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」

「いやだよ」

「君、そうこうしているうちに加茂の 水嵩 みずかさ が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」

「落ちても つか えなしだ」

「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」

「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の 金襖 きんぶすま たけのこ を横に なが め始めた。

「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう を折って部屋の中へ 這入 はい って来る。

「おい、おい」

「何だ、うるさい男だね」

「あの琴を聴いたろう」

「聴いたと云ったじゃないか」

「ありゃ、君、女だぜ」

「当り前さ」

幾何 いくつ だと思う」

幾歳 いくつ だかね」

「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと 判然 はっきり 云うがいい」

「誰が云うものか」

「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、 島田 しまだ だよ」

「座敷でも いてるのかい」

「なに座敷はぴたりと締ってる」

「それじゃまた例の通り 好加減 いいかげん な雅号なんだろう」

「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」

「どうして」

「そら きたくなった」

「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの たけのこ を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、 せい が低く見えるがどう云うものだろう」

「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」

「二枚の 唐紙 からかみ に三本 いたのは、どう云う 因縁 いんねん だろう」

「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」

「筍の 真青 まっさお なのはなぜだろう」

「食うと 中毒 あた ると云う なぞ なんだろう」

「やっぱり謎か。君だって謎を くじゃないか」

「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」

「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」

「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、 あと から頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」

「うん」

「僕が見たんだよ」

「そりゃ今聴いた」

「そうか。それじゃ別に話す事もない」

「なければ、いいさ」

「いや好くない。それじゃ話す。 昨日 きのう ね、僕が湯から上がって、 椽側 えんがわ で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく 鴨東 おうとう 景色 けしき を見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が 障子 しょうじ を半分開けて、開けた障子に たれかかって庭を見ていたのさ」

別嬪 べっぴん かね」

「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが 糸公 いとこう より好いようだ」

「そうかい」

「それっきりじゃ、 あん まり 他愛 たあい が無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」

「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」

「ハハハハだから見せてやるから 椽側 えんがわ まで出て来いと云うのに」

「だって障子は締ってるんじゃないか」

「そのうち くかも知れないさ」

「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」

「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」

「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」

「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」

「春休みに勉強しようと云うんだろう」

「春休みに勉強が出来るものか」

「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」

「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」

「いえ、単なる文学者と云うものは かすみ に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を ひら いて本体を見つけようとしないから 性根 しょうね がないよ」

「霞の ぱらい か。哲学者は余計な事を考え込んで にが い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」

「君見たように 叡山 えいざん へ登るのに、 若狭 わかさ まで突き ける男は 白雨 ゆうだち の酔っ払だよ」

「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」

 甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。 光沢 つや のある髪で 湿 しめ っぽく し付けられていた空気が、弾力で ふく れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に 駱駝 らくだ 膝掛 ひざかけ り落ちながら、裏を返して 半分 はんぶ に折れる。下から、だらしなく腰に き付けた 平絎 ひらぐけ の細帯があらわれる。

「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に かしこ まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は せた 体躯 からだ を持ち上げた ひじ を二段に のば して、手の平に胴を ささ えたまま、自分で自分の腰のあたりを め廻していたが

「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく かしこ まってるじゃないか」と 一重瞼 ひとえまぶた の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。

「おれは、これで正気なんだからね」

居住 いずまい だけは正気だ」

「精神も正気だからさ」

どてらを着て 跪坐 かしこまっ てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは 酔払 よっぱらい らしくするがいい」

「そうか、それじゃ 御免蒙 ごめんこうむ ろう」と宗近君はすぐさま 胡坐 あぐら をかく。

「君は感心に を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど 片腹 かたはら 痛い事はないものだ」

いさめ に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」

「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」

「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」

「まあ立ん坊だね」と甲野さんは さび し気に笑った。 勢込 いきおいこ んで 喋舌 しゃべ って来た宗近君は急に 真面目 まじめ になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の 肺腑 はいふ に入る。面上の筋肉が 我勝 われが ちに おど るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに 稲妻 いなずま を起すためでもない。 涙管 るいかん の関が切れて 滂沱 ぼうだ の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして ゆか るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。

 毛筋ほどな細い管を通して、 とら えがたい なさ けの波が、心の底から かろ うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に ころ がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、 つら まえた人が勝ちである。捕まえ そこ なえば 生涯 しょうがい 甲野さんを知る事は出来ぬ。

 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その すみや かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は あきら かに えが き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の 知己 ちき である。 った ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと 合点 がてん するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を えが き出すのは 野暮 やぼ な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。

 春の旅は 長閑 のどか である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。

「立ん坊か」と云ったまま宗近君は 駱駝 らくだ 膝掛 ひざかけ 馬簾 ばれん をひねくり始めたが、やがて

「いつまでも立ん坊か」

と相手の顔は見ず、質問のように、 独語 ひとりごと のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。

「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。

「叔父さんが生きてると好いがな」

「なに、 阿爺 おやじ が生きているとかえって面倒かも知れない」

「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。

「つまり、 うち を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」

「それで君はどうするんだい」

「僕は立ん坊さ」

「いよいよ本当の立ん坊か」

「うん、どうせ家を いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」

「しかしそりゃ、いかん。第一 叔母 おば さんが困るだろう」

「母がか」

 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。

 疑がえば おのれ にさえ あざ むかれる。まして己以外の人間の、利害の ちまた に、損失の 塵除 ちりよけ かぶ る、 つら の厚さは、容易には はか られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う 了見 りょうけん か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか ひそ んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、 迂濶 うかつ には天機を らしがたい。宗近の こと は継母に対するわが心の底を見んための かま か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を けるほどの男ならば、思う通りを引き出した あと で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は 真率 しんそつ なる彼の、裏表の 見界 みさかい なく、母の 口占 くちうら 一図 いちず にそれと信じたる反響か。 平生 へいぜい のかれこれから して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき ふち の底に、 詮索 さぐり おもり を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、 見損 みそく なった母の意を けて、御互に面白からぬ結果を、必然の 期程 きてい 以前に、家庭のなかに ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は くまい。

 二人はしばらく無言である。 隣家 となり ではまだ こと いている。

「あの琴は 生田流 いくたりゅう かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。

「寒くなった、狐の 袖無 ちゃんちゃん でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。

 丹前の胸を開いて、 違棚 ちがいだな の上から、例の異様な 胴衣 チョッキ を取り下ろして、 たい なな めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。

「その 袖無 ちゃんちゃん は手製か」

「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」

「本物だ。 うま いもんだ。 御糸 おいと さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」

「いいか、ふん。 彼奴 あいつ が嫁に行くと少々困るね」

「いい嫁の口はないかい」

「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。

「御糸さんが嫁に行くと 御叔父 おじ さんも困るね」

「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」

「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」

「だから 御母 おっか さんの云う通りに君が うち いで……」

「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は いや なんだ」

「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」

「行かれないんじゃない、行かないんだ」

 宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。

「また はも を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」

「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の 嗅覚 きゅうかく は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」

「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」

「そのくらい虫が知らせると 阿爺 おやじ も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」

「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」

「もう着いた時分だね。公使館の 佐伯 さえき と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」

「例の時計はどうしたろう」

「そうそう。 倫敦 ロンドン で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の 玩具 おもちゃ になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの くさり に着いている 柘榴石 ガーネット が気に入ってね」

「考えると古い時計だね」

「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」

「あれを御叔父さんの 片身 かたみ に僕にくれ」

「僕もそう思っていた」

「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」

「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」

「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」

 甲野さんは、だまって宗近君の まゆ の間を、長い事見ていた。御昼の ぜん の上には宗近君の予言通り はも が出た。