University of Virginia Library

     ふ る さ と

 をぢはわれを ( たす ) けて船より ( ) だしつ。またその ( せな ) を向けたり。

 「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの ( うち ) ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある 板塀 ( いたべい ) のあたりに来て、日のややくれかかる時、 老夫 ( おじ ) はわれを ( いだ ) ( おろ ) して、溝のふちに立たせ、ほくほく ( うち ) ゑみつゝ、 慇懃 ( いんぎん ) 会釈 ( えしやく ) したり。

 「おとなにしさつしやりませ。はい。」

 といひずてに 何地 ( いずち ) ゆくらむ。別れはそれにも ( ) しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す ( かた ) もあらでありくともなく ( ) をうつすに、 ( かしら ) ふらふらと足の ( おも ) たくて 行悩 ( ゆきなや ) む、前に ( ) くも、後ろに帰るも皆 見知越 ( みしりごし ) のものなれど、 ( たれ ) も取りあはむとはせで ( ) きつ ( きた ) りつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつつ ( ) くが、 ( ひやや ) かに ( あざけ ) るが如く ( にく ) さげなるぞ 腹立 ( はらだた ) しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず 向直 ( むきなお ) りて、とぼとぼとまた山ある ( かた ) にあるき ( いだ ) しぬ。

 けたたましき 跫音 ( あしおと ) して 鷲掴 ( わしづかみ ) ( えり ) ( つか ) むものあり。あなやと 振返 ( ふりかえ ) ればわが ( いえ ) 後見 ( うしろみ ) せる 奈四郎 ( なしろう ) といへる ( ちから ) ( たく ) ましき叔父の、 ( すさ ) まじき 気色 ( けしき ) して、

 「つままれめ、 何処 ( どこ ) をほツつく。」と ( わめ ) きざま、 引立 ( ひつた ) てたり。また庭に 引出 ( ひきいだ ) して水をやあびせられむかと、 泣叫 ( なきさけ ) びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、

 「しつかりしろ。やい。」

 とめくるめくばかり背を ( ) ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。 立騒 ( たちさわ ) ( めし ) つかひどもを ( しか ) りつも 細引 ( ほそびき ) を持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き 一室 ( ひとま ) 引立 ( ひつた ) てゆきてそのまま柱に ( いまし ) めたり。近く寄れ、 ( くい ) さきなむと思ふのみ、歯がみして ( にら ) まへたる、 ( ) の色こそ ( あや ) しくなりたれ、 ( さか ) つりたる ( まなじり ) ( ) きもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。

 おもての ( かた ) さざめきて、 何処 ( いずく ) にか ( ) きをれる姉上帰りましつと ( おぼ ) し、 ( ふすま ) いくつかぱたぱたと音してハヤここに来たまひつ。叔父は ( しつ ) の外にさへぎり迎へて、

 「ま、やつと 取返 ( とりかえ ) したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つてゐて、すきがあると駈け出すぢや。 ( エテ ) どのがそれしよびくでの。」

 と ( いまし ) めたり。いふことよくわが心を得たるよ、しかり、 ( ひま ) だにあらむにはいかでかここにとどまるべき。

 「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと 取着 ( とりつ ) きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん ( なさけ ) ( ) にこもりて ( いだ ) かれたるわが胸 ( しぼ ) らるるやうなりき。

 姉上の膝に ( ) したるあひだに、医師 ( きた ) りてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに 彼方 ( あなた ) に去りぬ。

 「ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう 姉様 ( ねえさん ) はどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」

 といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、 涙痕 ( るいこん ) したたるばかりなり。

 その心の安んずるやう、 ( ) ひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。

 「おお、 薄気味 ( うすきみ ) が悪いねえ。」

 と ( かたわら ) にありたる 奈四郎 ( なしろう ) の妻なる人 ( つぶや ) きて身ぶるひしき。

 やがてまた人々われを 取巻 ( とりま ) きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて ( うたがい ) を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、 根問 ( ねど ) ひ、 葉問 ( はど ) ひするに 一々 ( いちいち ) 説明 ( ときあ ) かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。

 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること ( みな ) 人の ( うたがい ) を増すをいかにせむ。ひしと 取籠 ( とりこ ) めて庭にも ( いだ ) さで日を過しぬ。血色わるくなりて ( ) せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、 後見 ( うしろみ ) の叔父夫婦にはいとせめて ( かく ) しつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、 門辺 ( かどべ ) にありたる多くの ( ) ども我が姿を見ると、 一斉 ( いつせい ) に、アレさらはれものの、 気狂 ( きちがい ) の、狐つきを見よやといふいふ、 砂利 ( じやり ) 小砂利 ( こじやり ) をつかみて投げつくるは 不断 ( ふだん ) 親しかりし 朋達 ( ともだち ) なり。

 姉上は ( そで ) もてわれを ( かば ) ひながら顔を赤うして ( ) げ入りたまひつ。人目なき ( ところ ) にわれを 引据 ( ひきす ) ゑつと見るまに取つて ( ) せて、打ちたまひぬ。

 悲しくなりて 泣出 ( なきだ ) せしに、あわただしく ( せな ) をばさすりて、

 「 堪忍 ( かんにん ) しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」

 といひかけて、

 「 ( わたし ) あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと 掻口説 ( かきくど ) きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を ( たしか ) に、心を ( しず ) めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を ( あや ) ぶむやうそのたびになりまさりて、 ( はて ) はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。

 たとへば ( あや ) しき糸の 十重二十重 ( とえはたえ ) にわが身をまとふ 心地 ( ここち ) しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく ( おもい ) あり。それをば 刈払 ( かりはら ) ひ、 遁出 ( のがれい ) でむとするにその ( すべ ) なく、すること、なすこと、人見て必ず、 ( まゆ ) ( ひそ ) め、 ( あざけ ) り、笑ひ、 ( いやし ) め、 ( ののし ) り、はた ( かなし ) ( うれ ) ひなどするにぞ、気あがり、 ( こころ ) ( げき ) し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。

  口惜 ( くちお ) しく腹立たしきまま身の 周囲 ( まわり ) はことごとく ( かたき ) ぞと思わるる。町も、家も、樹も、 鳥籠 ( とりかご ) も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには ( ひと ) たびわれを見てその弟を忘れしことあり。 ( ちり ) 一つとしてわが眼に入るは、すべてものの ( ) したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて ( げん ) じたるものならむ。さればぞ姉がわが 快復 ( かいふく ) を祈る ( ことば ) もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、 ( ひと ) たびおもひては ( ) ふべからず、力あらば ( ほしいまま ) にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、 蹴飛 ( けと ) ばしやらむ、 ( かき ) むしらむ、 ( すき ) あらばとびいでて、 ( ここの ) ( こだま ) とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの ( もと ) ( ) げ去らむと、胸の ( ) きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。