University of Virginia Library

     あ ふ ( ) ( とき )

 わが思ふ ( ところ ) ( たが ) はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる ( つき ) あたりに小さき 稲荷 ( いなり ) ( やしろ ) あり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の ( すそ ) なる 雑樹 ( ぞうき ) 斜めに ( ) ひて、社の上を ( おお ) ひたる、その下のをぐらき ( ところ ) ( あな ) の如き 空地 ( くうち ) なるをソとめくばせしき。 ( ひとみ ) は水のしたたるばかり ( ななめ ) にわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。

 さればいささかもためらはで、つかつかと ( やしろ ) の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、 朽葉 ( くちば ) ( うずたか ) く水くさき土のにほひしたるのみ、人の 気勢 ( けはい ) もせで、 ( えり ) もとの ( ひやや ) かなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ ( ) ( ひと ) はハヤ見えざりき。 何方 ( いずかた ) にか去りけむ、暗くなりたり。

 身の毛よだちて、思はず ※呀 ( あなや )

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[1]
と叫びぬ。

  人顔 ( ひとがお ) のさだかならぬ時、暗き ( すみ ) ( ) くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を ( まど ) はすと、姉上の教へしことあり。

 われは 茫然 ( ぼうぜん ) として ( まなこ ) ( みは )

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[2]
りぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、 左手 ( ゆんで ) に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き ( ) づると思ふ ( こく ) 闇々 ( あんあん ) たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで ( やしろ ) の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を ( ふさ ) ぎ、 呼吸 ( いき ) をころしてひそみたるに、 四足 ( よつあし ) のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。

 われは 人心地 ( ひとごこち ) もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの ( ひと ) のうつくしかりし顔、 ( やさし ) かりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる ( ) どものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに ( ひそ ) め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして 小提灯 ( こぢようちん ) 火影 ( ほかげ ) あかきが坂下より急ぎのぼりて 彼方 ( かなた ) に走るを見つ。ほどなく 引返 ( ひつかえ ) してわがひそみたる ( やしろ ) の前に近づきし時は、一人ならず 二人三人 ( ふたりみたり ) 連立 ( つれだ ) ちて ( きた ) りし感あり。

 あたかもその 立留 ( たちどま ) りし折から、別なる 跫音 ( あしおと ) 、また坂をのぼりてさきのものと 落合 ( おちあ ) ひたり。

 「おいおい分らないか。」

 「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」

 とあとよりいひたるはわが ( いえ ) につかひたる下男の声に似たるに、あはや ( ) でむとせしが、恐しきものの ( ) はたばかりて、おびき ( いだ ) すにやあらむと恐しさは ( ひと ) しほ増しぬ。

 「もう一度念のためだ、 田圃 ( たんぼ ) の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」

 「それでは。」といひて 上下 ( うえした ) にばらばらと分れて ( ) く。

 再び ( せき ) としたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し 差出 ( さしい ) だして、 ( ) ( かた ) をうかがふに、何ごともあらざりければ、やや 落着 ( おちつ ) きたり。 ( あや ) しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、 ( おろか ) なる、と ( ひやや ) かに笑ひしに、思ひがけず、 ( たれ ) ならむたまぎる声して、あわてふためき ( ) ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。

 「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。