泉鏡花 (Ryutandan) | ||
九 ( ここの ) ツ 谺 ( こだま )
やがて 添臥 ( そいぶし ) したまひし、さきに水を浴びたまひし 故 ( ゆえ ) にや、わが 膚 ( はだ ) をりをり 慄然 ( りつぜん ) たりしが何の心もなうひしと 取縋 ( とりすが ) りまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語 二 ( ふた ) ツ 三 ( み ) ツ聞かせ 給 ( たま ) ひつ。やがて、
「 一 ( ひと ) ツ 谺 ( こだま ) 、坊や、 二 ( ふた ) ツ 谺 ( こだま ) といへるかい。」
「二ツ谺。」
「 三 ( み ) ツ 谺 ( こだま ) 、 四 ( よ ) ツ 谺 ( こだま ) といつて御覧。」
「四ツ谺。」
「 五 ( いつ ) ツ 谺 ( こだま ) 。そのあとは。」
「 六 ( む ) ツ 谺 ( こだま ) 。」
「さうさう 七 ( なな ) ツ 谺 ( こだま ) 。」
「 八 ( や ) ツ 谺 ( こだま ) 。」
「 九 ( ここの ) ツ 谺 ( こだま ) ――ここはね、 九 ( ここの ) ツ 谺 ( こだま ) といふ 処 ( ところ ) なの。さあもうおとなにして寝るんです。」
背に手をかけ 引寄 ( ひきよ ) せて、 玉 ( たま ) の如きその 乳房 ( ちぶさ ) をふくませたまひぬ。 露 ( あらわ ) に白き 襟 ( えり ) 、肩のあたり 鬢 ( びん ) のおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かかるさまは、わが姉上とは 太 ( いた ) く違へり。 乳 ( ちち ) をのまむといふを姉上は許したまはず。
ふところをかいさぐれば常に 叱 ( しか ) りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた 三年 ( みとせ ) を 経 ( へ ) つ。 乳 ( ち ) の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。 垂玉 ( すいぎよく ) の 乳房 ( ちぶさ ) ただ 淡雪 ( あわゆき ) の如く含むと舌にきえて触るるものなく、すずしき 唾 ( つば ) のみぞあふれいでたる。
軽く 背 ( せな ) をさすられて、われ 現 ( うつつ ) になる時、 屋 ( や ) の 棟 ( むね ) 、天井の上と 覚 ( おぼ ) し、 凄 ( すさ ) まじき音してしばらくは鳴りも 止 ( や ) まず。ここにつむじ風吹くと 柱 ( はしら ) 動く恐しさに、わななき 取 ( とり ) つくを 抱 ( だ ) きしめつつ、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は 堪忍 ( かんにん ) しておくれよ、いけません。」
とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。
「 恐 ( こわ ) くはないよ。 鼠 ( ねずみ ) だもの。」
とある、さりげなきも、われはなほその 響 ( ひびき ) のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。
うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある 蒔絵 ( まきえ ) ものの手箱のなかより、 一口 ( ひとふり ) の 守刀 ( まもりがたな ) を 取出 ( とりだ ) しつつ 鞘 ( さや ) ながら 引 ( ひき ) そばめ、 雄々 ( おお ) しき声にて、
「何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき 状 ( さま ) よと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。 残燈 ( ありあけ ) 暗く 床柱 ( とこばしら ) の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の 色 ( いろ ) 籠 ( こ ) めて、 香 ( こう ) の 薫 ( かおり ) 残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく 閉 ( とじ ) たまひたる 眼 ( め ) の 睫毛 ( まつげ ) かぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし 瞻 ( みまも ) りしが、 淋 ( さび ) しさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと 打 ( うち ) まもりぬ。ふとその 鼻頭 ( はなさき ) をねらひて手をふれしに 空 ( くう ) を 捻 ( ひね ) りて、うつくしき人は 雛 ( ひな ) の如く顔の 筋 ( すじ ) ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで 近々 ( ちかぢか ) とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、 乳 ( ち ) の下に 面 ( おもて ) をふせて、強く 額 ( ひたい ) もて 圧 ( お ) したるに、顔にはただあたたかき 霞 ( かすみ ) のまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、 薄葉 ( うすよう ) 一重 ( ひとえ ) の 支 ( ささ ) ふるなく着けたる 額 ( ひたい ) はつと下に落ち沈むを、 心着 ( こころづ ) けば、うつくしき人の胸は、もとの如く 傍 ( かたわら ) にあをむきゐて、わが鼻は、いたづらにおのが 膚 ( はだ ) にぬくまりたる、 柔 ( やわらか ) き 蒲団 ( ふとん ) に 埋 ( うも ) れて、をかし。
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