University of Virginia Library

      五 位 鷺 ( ごいさぎ )

 眼のふち 清々 ( すがすが ) しく、涼しき ( かおり ) つよく薫ると 心着 ( こころづ ) く、身は ( やわら ) かき 蒲団 ( ふとん ) の上に臥したり。やや枕をもたげて見る、 竹縁 ( ちくえん ) 障子 ( しようじ ) あけ ( はな ) して、庭つづきに向ひなる 山懐 ( やまふところ ) に、緑の草の、ぬれ色青く 生茂 ( おいしげ ) りつ。その 半腹 ( はんぷく ) にかかりある 厳角 ( いわかど ) ( こけ ) のなめらかなるに、 一挺 ( いつちよう ) はだか ( ろう ) ( ) ともしたる 灯影 ( ほかげ ) すずしく、 ( かけい ) の水むくむくと ( ) きて ( たま ) ちるあたりに ( たらい ) を据ゑて、うつくしく ( かみ ) ( ) うたる ( ひと ) の、身に一糸もかけで、むかうざまにひたりてゐたり。

  ( かけい ) の水はそのたらひに落ちて、 ( あふ ) れにあふれて、地の ( くぼ ) みに流るる音しつ。

  ( ろう ) ( ) は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす ( はだえ ) 白かりき。

 わが 寝返 ( ねがえ ) る音に、ふとこなたを見返り、それと ( うなず ) ( さま ) にて、片手をふちにかけつつ片足を立てて ( たらい ) のそとにいだせる時、 ( ) と音して、 ( からす ) よりは小さき鳥の 真白 ( ましろ ) きがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の ( はぎ ) のあたりをかすめつ。そのままおそれげもなう翼を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま 莞爾 ( につこ ) とあでやかに笑うてたちぬ。手早く ( きぬ ) もてその胸をば ( おお ) へり。鳥はおどろきてはたはたと 飛去 ( とびさ ) りぬ。

 夜の色は極めてくらし、 ( ろう ) を取りたるうつくしき人の姿さやかに、 庭下駄 ( にわげた ) 重く引く音しつ。ゆるやかに ( えん ) の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして 捩向 ( ねじむ ) きざま、わがかほをば見つ。

 「気分は ( なお ) つたかい、坊や。」

 といひて ( こうべ ) を傾けぬ。ちかまさりせる ( おもて ) けだかく、眉あざやかに、 ( ひとみ ) すずしく、鼻やや高く、唇の ( くれない ) なる、 ( ひたい ) つき頬のあたり ( ろう )

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たけたり。こは ( かね ) てわがよしと思ひ ( つめ ) たる ( ひな ) のおもかげによく似たれば ( とうと ) き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。 知人 ( しりびと ) にはあらざれど、はじめて逢ひし ( かた ) とは思はず、さりや、 ( たれ ) にかあるらむとつくづくみまもりぬ。

 またほほゑみたまひて、

 「お前あれは 斑猫 ( はんみよう ) といつて大変な毒虫なの。もう ( ) いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは 姉様 ( ねえさん ) が見違へるのも無理はないのだもの。」

 われもさあらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふままに ( うなず ) きつ。あたりのめづらしければ起きむとする 夜着 ( よぎ ) の肩、ながく ( やわら ) かにおさへたまへり。

 「ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、 落着 ( おちつ ) いて、ね、気をしづめるのだよ、 ( ) いかい。」

 われはさからはで、ただ ( ) をもて答へぬ。

 「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと 道芝 ( みちしば ) を踏む音して、つづれをまとうたる 老夫 ( おやじ ) の、顔の色いと赤きが ( えん ) ( ちこ ) ( はい ) り来つ。

 「はい、これはお ( ) さまがござらつせえたの、 可愛 ( かわい ) いお児じや、お前様も ( うれ ) しかろ。ははは、どりや、またいつものを頂きましよか。」

 腰をななめにうつむきて、ひつたりとかの ( かけい ) に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつづけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を ( あお ) ぎぬ。

 「やれやれ甘いことかな。はい、参ります。」

 と ( くびす ) を返すを、こなたより呼びたまひぬ。

 「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この ( ) を返さねばならぬから。」

 「あいあい。」

 と答へて去る。 山風 ( やまかぜ ) ( さつ ) とおろして、 ( ) の白き鳥また ( ) ちおりつ。黒き ( たらい ) のふちに乗りて ( ) づくろひして静まりぬ。

 「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて ( しずか ) に雨戸をひきたまひき。