泉鏡花 (Ryutandan) | ||
五 位 鷺 ( ごいさぎ )
眼のふち 清々 ( すがすが ) しく、涼しき 薫 ( かおり ) つよく薫ると 心着 ( こころづ ) く、身は 柔 ( やわら ) かき 蒲団 ( ふとん ) の上に臥したり。やや枕をもたげて見る、 竹縁 ( ちくえん ) の 障子 ( しようじ ) あけ 放 ( はな ) して、庭つづきに向ひなる 山懐 ( やまふところ ) に、緑の草の、ぬれ色青く 生茂 ( おいしげ ) りつ。その 半腹 ( はんぷく ) にかかりある 厳角 ( いわかど ) の 苔 ( こけ ) のなめらかなるに、 一挺 ( いつちよう ) はだか 蝋 ( ろう ) に 灯 ( ひ ) ともしたる 灯影 ( ほかげ ) すずしく、 筧 ( かけい ) の水むくむくと 湧 ( わ ) きて 玉 ( たま ) ちるあたりに 盥 ( たらい ) を据ゑて、うつくしく 髪 ( かみ ) 結 ( ゆ ) うたる 女 ( ひと ) の、身に一糸もかけで、むかうざまにひたりてゐたり。
筧 ( かけい ) の水はそのたらひに落ちて、 溢 ( あふ ) れにあふれて、地の 窪 ( くぼ ) みに流るる音しつ。
蝋 ( ろう ) の 灯 ( ひ ) は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす 膚 ( はだえ ) 白かりき。
わが 寝返 ( ねがえ ) る音に、ふとこなたを見返り、それと 頷 ( うなず ) く 状 ( さま ) にて、片手をふちにかけつつ片足を立てて 盥 ( たらい ) のそとにいだせる時、 颯 ( さ ) と音して、 烏 ( からす ) よりは小さき鳥の 真白 ( ましろ ) きがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の 脛 ( はぎ ) のあたりをかすめつ。そのままおそれげもなう翼を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま 莞爾 ( につこ ) とあでやかに笑うてたちぬ。手早く 衣 ( きぬ ) もてその胸をば 蔽 ( おお ) へり。鳥はおどろきてはたはたと 飛去 ( とびさ ) りぬ。
夜の色は極めてくらし、 蝋 ( ろう ) を取りたるうつくしき人の姿さやかに、 庭下駄 ( にわげた ) 重く引く音しつ。ゆるやかに 縁 ( えん ) の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして 捩向 ( ねじむ ) きざま、わがかほをば見つ。
「気分は 癒 ( なお ) つたかい、坊や。」
といひて 頭 ( こうべ ) を傾けぬ。ちかまさりせる 面 ( おもて ) けだかく、眉あざやかに、 瞳 ( ひとみ ) すずしく、鼻やや高く、唇の 紅 ( くれない ) なる、 額 ( ひたい ) つき頬のあたり ※ ( ろう )
たけたり。こは 予 ( かね ) てわがよしと思ひ 詰 ( つめ ) たる 雛 ( ひな ) のおもかげによく似たれば 貴 ( とうと ) き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。 知人 ( しりびと ) にはあらざれど、はじめて逢ひし 方 ( かた ) とは思はず、さりや、 誰 ( たれ ) にかあるらむとつくづくみまもりぬ。またほほゑみたまひて、
「お前あれは 斑猫 ( はんみよう ) といつて大変な毒虫なの。もう 可 ( い ) いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは 姉様 ( ねえさん ) が見違へるのも無理はないのだもの。」
われもさあらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふままに 頷 ( うなず ) きつ。あたりのめづらしければ起きむとする 夜着 ( よぎ ) の肩、ながく 柔 ( やわら ) かにおさへたまへり。
「ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、 落着 ( おちつ ) いて、ね、気をしづめるのだよ、 可 ( い ) いかい。」
われはさからはで、ただ 眼 ( め ) をもて答へぬ。
「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと 道芝 ( みちしば ) を踏む音して、つづれをまとうたる 老夫 ( おやじ ) の、顔の色いと赤きが 縁 ( えん ) 近 ( ちこ ) う 入 ( はい ) り来つ。
「はい、これはお 児 ( こ ) さまがござらつせえたの、 可愛 ( かわい ) いお児じや、お前様も 嬉 ( うれ ) しかろ。ははは、どりや、またいつものを頂きましよか。」
腰をななめにうつむきて、ひつたりとかの 筧 ( かけい ) に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつづけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を 仰 ( あお ) ぎぬ。
「やれやれ甘いことかな。はい、参ります。」
と 踵 ( くびす ) を返すを、こなたより呼びたまひぬ。
「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この 児 ( こ ) を返さねばならぬから。」
「あいあい。」
と答へて去る。 山風 ( やまかぜ ) 颯 ( さつ ) とおろして、 彼 ( か ) の白き鳥また 翔 ( た ) ちおりつ。黒き 盥 ( たらい ) のふちに乗りて 羽 ( は ) づくろひして静まりぬ。
「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて 静 ( しずか ) に雨戸をひきたまひき。
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