泉鏡花 (Ryutandan) | ||
鎮守 ( ちんじゆ ) の 社 ( やしろ )
坂は急ならず長くもあらねど、一つ 尽 ( つく ) ればまたあらたに 顕 ( あらわ ) る。起伏あたかも大波の如く 打続 ( うちつづ ) きて、いつ 坦 ( たん ) ならむとも見えざりき。
あまり 倦 ( う ) みたれば、一ツおりてのぼる坂の 窪 ( くぼみ ) に 踞 ( つくば ) ひし、手のあきたるまま 何 ( なに ) ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、 直 ( すぐ ) なるもの、心の趣くままに 落書 ( らくがき ) したり。しかなせるあひだにも、頬のあたり 先刻 ( さき ) に毒虫の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、 袖 ( そで ) もてひまなく 擦 ( こす ) りぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、 俄 ( にわか ) にその顔の見たうぞなりたる。
立 ( たち ) あがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも 透 ( す ) かで 躑躅 ( つつじ ) 咲きたり。日影ひとしほ 赤 ( あこ ) うなりまさりたるに、手を見たれば 掌 ( たなそこ ) に照りそひぬ。
一文字にかけのぼりて、 唯 ( と ) 見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでかかくてあらむ、こたびこそと思ふに 違 ( たが ) ひて、道はまた 蜿 ( うね ) れる坂なり。 踏心地 ( ふみごこち ) 柔 ( やわら ) かく小石ひとつあらずなりぬ。
いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顔なつかしく、しばらくも 得 ( え ) 堪 ( た ) へずなりたり。
再びかけのぼり、またかけりおりたる時、われしらず泣きてゐつ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある 処 ( ところ ) に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと 茜 ( あかね ) さして、眼もあやに躑躅の花、ただ 紅 ( くれない ) の雪の 降積 ( ふりつ ) めるかと疑はる。
われは涙の声たかく、あるほど声を 絞 ( しぼ ) りて姉をもとめぬ。 一 ( ひと ) たび 二 ( ふた ) たび 三 ( み ) たびして、こたへやすると耳を 澄 ( すま ) せば、 遥 ( はるか ) に滝の音聞えたり。どうどうと響くなかに、いと高く 冴 ( さ ) えたる声の 幽 ( かすか ) に、
「もういいよ、もういいよ。」
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得たる、 一声 ( ひとこえ ) くりかへすと、ハヤきこえずなりしが、やうやう心たしかにその声したる 方 ( かた ) にたどりて、また坂ひとつおりて一つのぼり、こだかき所に立ちて 瞰 ( み ) おろせば、あまり 雑作 ( ぞうさ ) なしや、堂の 瓦屋根 ( かわらやね ) 、杉の 樹立 ( こだち ) のなかより見えぬ。かくてわれ 踏迷 ( ふみまよ ) ひたる 紅 ( くれない ) の雪のなかをばのがれつ。 背後 ( うしろ ) には 躑躅 ( つつじ ) の花飛び飛びに咲きて、青き草まばらに、やがて堂のうらに達せし時は 一株 ( ひとかぶ ) も花のあかきはなくて、たそがれの色、 境内 ( けいだい ) の 手洗水 ( みたらし ) のあたりを 籠 ( こ ) めたり。 柵 ( さく ) 結 ( ゆ ) ひたる井戸ひとつ、 銀杏 ( いちよう ) の 古 ( ふ ) りたる樹あり、そがうしろに人の家の 土塀 ( どべい ) あり。こなたは裏木戸のあき地にて、むかひに小さき 稲荷 ( いなり ) の堂あり。石の 鳥居 ( とりい ) あり。木の鳥居あり。この木の鳥居の左の柱には割れめありて太き鉄の輪を 嵌 ( は ) めたるさへ、心たしかに覚えある、ここよりはハヤ家に近しと思ふに、さきの恐しさは全く忘れ果てつ。ただひとへにゆふ日照りそひたるつつじの花の、わが 丈 ( たけ ) よりも高き 処 ( ところ ) 、前後左右を 咲埋 ( さきうず ) めたるあかき色のあかきがなかに、緑と、 紅 ( くれない ) と、紫と、 青白 ( せいはく ) の光を 羽色 ( はいろ ) に帯びたる毒虫のキラキラと飛びたるさまの広き景色のみぞ、 画 ( え ) の如く小さき胸にゑがかれける。
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