University of Virginia Library

      大  沼 ( おおぬま )

 「ゐないツて ( わたし ) あどうしよう、 ( じい ) や。」

 「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お 前様 ( まえさま ) 遊びに出します時、帯の ( むすび ) めを ( とん ) とたたいてやらつしやれば ( ) いに。」

 「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」

 「それはハヤ 不念 ( ぶねん ) なこんだ。帯の ( むすび ) めさへ ( たた ) いときや、何がそれで姉様なり、 母様 ( おふくろさま ) なりの ( たましい ) が入るもんだで ( エテ ) めはどうすることもしえないでごす。」

 「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、 ( やしろ ) の前をよこぎりたまへり。

 走りいでしが、あまりおそかりき。

 いかなればわれ姉上をまで ( あやし ) みたる。

  ( ) ゆれど及ばず、かなたなる 境内 ( けいだい ) の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。

 涙ぐみて ( たたず ) む時、ふと見る 銀杏 ( いちよう ) の木のくらき夜の空に、 ( おおい ) なる ( まる ) き影して茂れる下に、女の 後姿 ( うしろすがた ) ありてわが ( まなこ ) ( さえぎ ) りたり。

 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが 此処 ( ここ ) にあるを知られむは、 ( つたな ) きわざなればと思ひてやみぬ。

 とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが ( やさ ) しき姉上の姿に ( ) したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて ( ことば ) はかけざりしと、 打泣 ( うちな ) きしが、かひもあらず。

 あはれさまざまのものの ( あや ) しきは、すべてわが ( まなこ ) のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、 ( すべ ) こそありけれ、かなたなる 御手洗 ( みたらし ) にて清めてみばやと寄りぬ。

  ( すす ) けたる 行燈 ( あんどう ) の横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすの ( ) と句など書いたり。 ( ) をともしたるに、水はよく ( ) みて、青き ( こけ ) むしたる 石鉢 ( いしばち ) の底もあきらかなり。手に ( むす ) ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を ( ) めて、気を ( しず ) めて、両の ( まなこ ) ( ぬぐ ) ひ拭ひ、水に ( のぞ ) む。

 われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、

 「お、お、 千里 ( ちさと ) 。ええも、お前は。」と姉上ののたまふに、 ( すが ) りつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、

 「あれ!」

 といひて一足すさりて、

 「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに ( ) ( ) せ去りたまへり。

  ( あや ) しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの 口惜 ( くちお ) しければ、とにかくもならばとてなむ。

 坂もおりたり、のぼりたり、 大路 ( おおみち ) と覚しき町にも ( ) でたり、暗き ( こみち ) 辿 ( たど ) りたり、野もよこぎりぬ。 ( あぜ ) も越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。

 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く ( よこた ) はりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、 大沼 ( おおぬま ) とも覚しきが、 前途 ( ゆくて ) ( ふさ ) ぐと覚ゆる ( あし ) の葉の繁きがなかにわが 身体 ( からだ ) 倒れたる、あとは知らず。