みさごの鮨
泉鏡花 (Misago no sushi) | ||
一
「 旦那 ( だんな ) さん、旦那さん。」
目と鼻の 前 ( さき ) に居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい 箸 ( はし ) の手をとめた 痩形 ( やせがた ) の、年配で――浴衣に 貸広袖 ( かしどてら ) を重ねたが――人品のいい客が、
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
客は余り 唐突 ( だしぬけ ) なのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、 旅籠 ( はたご ) でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに 猪突 ( ちょとつ ) な質問を受けた事はかつてない。
ところで決して 不味 ( まず ) くはないから、
「ああ、おいしいよ。」
と言ってまた 箸 ( はし ) を付けた。
「そりゃ 可 ( い ) い、 北国 ( ほっこく ) 一だろ。」
と 洒落 ( しゃれ ) でもないようで、納まった真顔である。
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも 壮健 ( じょうぶ ) そうで、 口許 ( くちもと ) のしまったは 可 ( い ) いが、その唇の少し 尖 ( とが ) った処が、 化損 ( ばけそこな ) った狐のようで、しかし不気味でなくて 愛嬌 ( あいきょう ) がある。 手織縞 ( ておりじま ) のごつごつした 布子 ( ぬのこ ) に、よれよれの半襟で、 唐縮緬 ( とうちりめん ) の帯を 不状 ( ぶざま ) に鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
これを 更 ( あらた ) めて見て客は気がついた。 先刻 ( さっき ) も一度その(北国一)を大声で 称 ( とな ) えて、 裾短 ( すそみじか ) な 脛 ( すね ) を太く、 臀 ( しり ) を振って、ひょいと踊るように次の 室 ( ま ) の入口を隔てた古い 金屏風 ( きんびょうぶ ) の陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
ところでその金屏風の絵が、極彩色の 狩野 ( かのう ) の 何某 ( なにがし ) 在銘で、玄宗皇帝が同じ 榻子 ( いす ) に、 楊貴妃 ( ようきひ ) ともたれ合って、笛を吹いている処だから 余程 ( よっぽど ) 可笑 ( おか ) しい。
それは次のような場合であった。
客が、加賀国 山代 ( やましろ ) 温泉のこの 近江屋 ( おうみや ) へ着いたのは、当日 午 ( ひる ) 少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、 柔和 ( やわら ) かなちっとも 気取 ( きどり ) っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、 揉手 ( もみで ) をしながら、 御逗留 ( ごとうりゅう ) か、それともちょっと御入浴で、と 訊 ( き ) いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を 屈 ( かが ) めつつ 畏 ( かしこま ) って、どうぞこれへと、自分で荷物を 捌 ( さば ) いて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の 室 ( ま ) が二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと 不行届 ( ふゆきとどき ) の儀は御容赦下さいまして、まず 御緩 ( ごゆっく ) りと……と丁寧に 挨拶 ( あいさつ ) をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
実は 小春日 ( こはるび ) の 明 ( あかる ) い街道から、 衝 ( つ ) と入ったのでは、人顔も 容子 ( ようす ) も何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた 絨毯 ( じゅうたん ) の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の 三幅対 ( さんぷくつい ) も、濃い霧の中に、山が 遥 ( はるか ) に、船もあり、 朦朧 ( もうろう ) として小さな仙人の影が 映 ( さ ) すばかりで、何の景色だか、これは 燈 ( あかり ) が 点 ( つ ) いても 判然 ( はっきり ) 分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い 石燈籠 ( いしどうろう ) に、 苔 ( こけ ) の 真蒼 ( まっさお ) なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、 颯 ( さっ ) と渡る風に静寂な水の 響 ( ひびき ) を流す。庭の正面がすぐに 切立 ( きったて ) の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く 蜿 ( うね ) り蜿り自然の 大巌 ( おおいわ ) を削った 径 ( こみち ) が通じて、高く 梢 ( こずえ ) を 上 ( あが ) った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が 桟 ( かけはし ) のように 覗 ( のぞ ) かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、 駒鳥 ( こまどり ) の 囀 ( さえず ) るような、 芸妓 ( げいしゃ ) らしい女の声がしたのであったが――
入交 ( いれかわ ) って、歯を染めた、陰気な大年増が 襖際 ( ふすまぎわ ) へ来て、 瓶掛 ( びんかけ ) に炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのが 件 ( くだん ) の金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶は 可 ( い ) いけれども。……次にまた浴衣に 広袖 ( どてら ) をかさねて持って出た 婦 ( おんな ) は、と見ると、 赭 ( あか ) ら顔で、 太々 ( だいだい ) とした 乳母 ( おんば ) どんで、大縞のねんね子 半纏 ( ばんてん ) で四つぐらいな男の 児 ( こ ) を 負 ( おぶ ) ったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から 小児 ( こども ) の顔を客の方へ 揉出 ( もみだ ) して、それ、 小父 ( おじ ) さんに(今日は)をなさいと、顔と一所に 引傾 ( ひっかた ) げた。
学士が驚いた――客は京の某大学の 仏語 ( ふつご ) の教授で、 榊 ( さかき ) 三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには 莞爾々々 ( にこにこ ) として、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが 顕 ( あらわ ) れるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
昼飯 ( ひる ) の支度は、この 乳母 ( うば ) どのに 誂 ( あつら ) えて、それから浴室へ下りて 一浴 ( ひとあみ ) した。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、 真昼間 ( まっぴるま ) の 夜討 ( ようち ) のように働く。……ちょうな、 鋸 ( のこぎり ) 、 鉄鎚 ( かなづち ) の 賑 ( にぎや ) かな音。――また遠く離れて、トントントントンと 俎 ( まないた ) を打つのが、ひっそりと聞えて 谺 ( こだま ) する……と 御馳走 ( ごちそう ) に 鶫 ( つぐみ ) をたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の 背後 ( うしろ ) から謹んで座敷へ帰ったが、上段の 室 ( ま ) の客にはちと不釣合な形に、 脇息 ( きょうそく ) を横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじを 焚 ( た ) いたように 赫 ( かッ ) と赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに 松籟 ( しょうらい ) をきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、 昼飯 ( ひる ) の 膳 ( ぜん ) に、 一銚子 ( ひとちょうし ) 添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで 起上 ( たちあが ) った。
どこを探しても 呼鈴 ( よびりん ) が見当らない。
二三度手を 敲 ( たた ) いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が 大分 ( だいぶ ) に遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
「これは驚いた。」
更に応ずるものがなかったのである。
一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
何か、 茸 ( きのこ ) に酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする 足許 ( あしもと ) へ、 衝立 ( ついたて ) の陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て 莞爾々々 ( にこにこ ) する。
どうも、この 鼻尖 ( はなさき ) で、ポンポンは 穏 ( おだやか ) でない。
仕方なしに、笑って見せて、 悄々 ( すごすご ) と座敷へ戻って、
「あきらめろ。」
で、所在なさに、金屏風の前へ 畏 ( かしこま ) って、 吸子 ( きゅうす ) に銀瓶の湯を 注 ( つ ) いで、茶でも一杯と思った時、あの 小児 ( こども ) にしてはと思う、 大 ( おおき ) な 跫足 ( あしおと ) が響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
「おおい、姉さん、姉さん。」
どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
と息を 吐 ( つ ) いて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんな 大 ( でけ ) い内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、 突立状 ( つったちざま ) に 指 ( ゆびさ ) したのは、床の間 傍 ( わき ) の、
※子 ( れんじ ) に据えた 黒檀 ( こくたん ) の机の上の立派な卓上電話であった。「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
と目を円くして、きょろりと 視 ( み ) て、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な 仕掛 ( しかけ ) だろがねえ。」
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
――それ、そこで言って、ひょいひょい 浮足 ( うきあし ) で出て 行 ( ゆ ) く処を、 背後 ( うしろ ) から呼んで、一銚子を誂えた。
「 可 ( い ) いのを頼むよ。」
と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
と振り向いて 合点 ( がってん ) 々々をして、
「北国一。」
と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。
みさごの鮨
泉鏡花 (Misago no sushi) | ||