University of Virginia Library

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 ここの湯の くるわ は柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長く なび いて、しっとりと、 見附 みつけ めぐ って向合う湯宿が、皆この 葉越 はごし うかが われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五 けん 間口、十間間口、八間間口、大きな(舎)という字をさながらに、 湯煙 ゆけむり の薄い 胡粉 ごふん でぼかして、月影に浮いていて、 いらか の露も紫に凝るばかり、中空に えた月ながら、気の暖かさに おぼろ である。そして裏に立つ山に き、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の あお 砂子 すなご ちりば めた景色は、 広重 ひろしげ がピラミッドの夢を描いたようである。

 柳のもとには、二つ三つ用心 みず の、石で 亀甲 きっこう に囲った 水溜 みずたまり の池がある。が、 れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が のぞ く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は あたたか さに 枝垂 しだ れた黒髪はなお こまや かで、中にも 真中 まんなか に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見 階子 ばしご に、袖を掛けた柳の 一本 ひともと 瑠璃天井 るりてんじょう の階子段に、遊女の もた れた風情がある。

 このあたりを、ちらほらと、そぞろ 歩行 あるき の人通り。見附正面の総湯の門には、 浅葱 あさぎ に、紺に、茶の旗が、 納手拭 おさめてぬぐい のように立って、湯の中は 祭礼 まつり かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。 軒前 のきさき には、駄菓子 みせ 、甘酒の店、 あめ の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、 湯女 ゆな も掛ける。 ひげ すす る甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささ がに の糸である。

 みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。

 人の出入り一盛り。仕出しの 提灯 ちょうちん 二つ三つ。 あか いは、おでん、白いは、 蕎麦 そば 。横路地を つい と出て、やや かど とざす湯宿の軒を伝う頃、一しきり しずか になった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、 若衆 わかいしゅ たち、とある横町の土塀の 小路 こみち から、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白い よそおい でよぎったが、霜の 使者 つかい が通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に 寂然 せきぜん としたのであった。

  月夜鴉 つきよがらす が低く飛んで、水を くぐ るように、柳から柳へ流れた。

「うざくらし、 いや な――お あん さん……」

 芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、 潜戸 くぐりど を細目に背にした 門口 かどぐち に、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く たたず んだ、影のような おんな がある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、 じっ とすかして――そう言った。

「お かど が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。

 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの 隣家 となり の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ 附着 くッつ いた。

 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を ひっ かぶった若い しゅ が、溝を伝うて、二人、三人、 胡乱々々 うろうろ する。

 この時であった。

  も既に、十一時すぎ、 の刻か。――柳を中に真向いなる、 かど とざ し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、 苫掛 とまか けた大船のごとく静まって、 ふくろ が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く すべ ると、帳場が見えて、勝手は あかる い――そこへ、 真黒 まっくろ 外套 がいとう があらわれた。

  背後 うしろ について、 長襦袢 ながじゅばん するすると、 伊達巻 だてまき ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの ぼら と、 比目魚 ひらめ のあるのを、うっかり また いで、 おび えたような はぎ 白く、 莞爾 にっこり とした女が見える。

「くそったれめ。」

 見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに ほっそ りと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を って、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。

 これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく うろこ を立てて、 さかさま とが って燃えた。

 途端に小春の姿はかくれた。

 あとの大戸を、金の額ぶちのように 背負 しょ って、揚々として大得意の てい で、 紅閨 こうけい のあとを一散歩、 ぜい る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を のぞ き、火の見を仰いで、 移香 うつりが 惜気 おしげ なく、 えい ざましに、月の景色を見る さま の、その行く処には、 返咲 かえりざき の、桜が咲き、 柑子 こうじ も色づく。…… よそ の旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に なべ をかけようとする、 なしの 饂飩屋 うどんや の前に来た。

  獺橋 かわうそばし の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。

 犬ほどの 蜥蜴 とかげ が、修羅を もや して、煙のように さっ と襲った。

「おどれめ。」

 と うめ くが はや いか、治兵衛坊主が、その外套の 背後 うしろ から、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。

「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。

 獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。 串戯 じょうだん だと思ったろう。

「北国一だ――」

 と高く叫ぶと、その外套の袖が あお って、 あか い裾が、はらはらと乱れたのである。