University of Virginia Library

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 ――「小春さん、 先刻 さっき の、あの可愛い 雛妓 おしゃく と、 盲目 めくら とっ さんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、 みんな で湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが い。

 治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ 境界 きょうがい にある 夥間 なかま だ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、 小児 こども を弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが い。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも かろう。あの めし いた人、あの、いたいけな 、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また 間違 まちがい がないとも限らぬ。その 後難 こうなん 憂慮 うれい のないように、治兵衛の気を なや し、心を鎮めさせるのに何よりである。

 私は直ぐに立って、山中へ行く。

 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に ほこり が立つ。構わないにしても気が散ろう。

 泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく たのし み、よくお遊び。」――

 あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、 あらた めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を 発程 ったのは、同じ の、実は、八時頃であった。

 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても おだやか でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、 たもと を振切る。……

 

 お光が中くらいな かばん を提げて、肩をいからすように、 大跨 おおまた 歩行 ある いて、電車の出発点まで 真直 まっす ぐに送って来た。

 道は近い、またすぐに出る処であった。

「旦那さん、 のみ にくわれても、 あま ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」

 停車 じょう の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり 点頭 うなず いた。

「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを 一品 ひとしな 下んせね。鼻紙でも、 手巾 ハンケチ でも、よ。」

 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。

 このおもみに、トンと されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば 串戯 じょうだん だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に 曳摺 ひきず るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。

 発車した。

 ――お光は、 ひま のあいてから、これを着て、嬉しがって 戸外 おもて へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、

「北国一。」

 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の 厚衾 あつぶすま 、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、 睦言 むつごと のように語り合う、小春と、 雛妓 おしゃく 、爺さん、 小児 こども たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――

 黒い外套を来た 湯女 ゆな が、総湯の前で、殺された、刺された 風説 うわさ は、山中、片山津、粟津、 大聖寺 だいしょうじ まで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。

 けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを ねて起きた。

 寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、

「旦那さん、――お光さんが 貴方 あなた の、お身代り。……私はおくれました。」

 と言って、小春がおもはゆげに泣いて すが った。

「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」

「旦那さんか、旦那さんか。」

 と突拍子な高調子で、 譫言 うわごと のように言ったが、

「ようこそなあ――こんなものに…… つら も、からだも、山猿に 火熨斗 ひのし を掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり みんな めた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」

 立会った医師が二人まで、目を しばたた いて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。

「頂戴しました。――貰ったぞ。」

「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」

「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」

 と、ありなしの えん に曳かれて、雛妓の とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、 盲目 めくら の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、

「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」

「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」

「おお、見られるとも、のう。ありがたや 阿弥陀 あみだ 様。おありがたや 親鸞 しんらん 様も、おありがたや 蓮如 れんにょ 様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」

「そんなものは見とうない。」

 と、ツト杖を向うへ ねた。

「私は死んでも、旦那さんの そば に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」

「勿体ないぞ。」

 と口のうちで つぶや いて、 おやじ が、黒い幽霊のように首を のば して、杖に縋って伸上って、見えぬ目を うわ ねむりに見据えたが、

「うんにゃ、 道理 もっとも じゃ。 おら も阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。」

 と言うと、持った杖をハタと げた。その 風采 ふうさい や、さながら 一山 いっさん の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。

大正十二(一九二三)年一月