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「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」

「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが よく ばかりでだましたのでみた処で……こっちは 芸妓 げいしゃ だ。罪も むくい もあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な 極道 ごくどう とか、 遊蕩 ゆうとう とかで行留りになった男の、名は てい のいい心中だが、死んで く道連れにされて たま るものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で 俄盲目 にわかめくら とっ さんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――

  掛稲 かけいね 、嫁菜の、 あぜ に倒れて、この五尺の松に すが って立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに うなず かれよう。 芸妓 げいしゃ である。そのまま伴って来るのに、何の 仔細 しさい もなかったこともまた断るに及ぶまい。

 なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、 しずか 日南 ひなた の隙を計って、 岐路 えだみち をあれからすぐ、桂谷へ行くと、 浄行寺 じょうぎょうじ と云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の に死ぬつもりで、 対手 あいて たもと には、 あきない ものの、(何とか入らず)と、懐中には 小刀 ナイフ さえ用意していたと言うのである。

  上前 うわまえ 摺下 ずりさが る……腰帯の ゆる んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ 退 さが ってついて来る小春の姿は、 道行 みちゆき から げたとよりは、山奥の 人身御供 ひとみごくう から 助出 たすけだ されたもののようであった。

 左山中 みち 、右桂谷道、と 道程標 みちしるべ の立った 追分 おいわけ へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、 あご とが った、 せこけた じい さんの、 すげ の一もんじ笠を 真直 まっすぐ に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに 破脚絆 やぶれぎゃはん 草鞋穿 わらじばき で、とぼとぼと竹の つえ かれて来たのがあった。

 この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず 横添 よこぞい に導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような おおき な鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の で。これも風呂敷包を 中結 なかゆわ えして 西行背負 さいぎょうじょい に背負っていたが、 道中 みちなか へ、弱々と出て来たので、横に 引張合 ひっぱりあ った杖が、一方通せん坊になって、 道程標 みちしるべ の辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、 細流 せせらぎ は、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから にぎや かだけれど、俄めくらと見えて、 突立 つった った足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、 巾着 きんちゃく ほどな 小児 こども に杖を曳かれて 辿 たど さま 。いま 生命 いのち びろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く 黄昏 たそが れた。

 駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、 桃割 ももわれ ぬれた 結立 ゆいたて で、 緋鹿子 ひがのこ 角絞 つのしぼ り。 かんざし をまだささず、 黒繻子 くろじゅす の襟の 白粉垢 おしろいあか の冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、…… 前垂 まえだれ と帯の間へ、古風に 手拭 てぬぐい こまか く挟んだ 雛妓 おしゃく が、殊勝にも、お 参詣 まいり もどり らしい…… 急足 いそぎあし に、つつッと出た。が、 盲目 めくら とっ さんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。

「や、姉ちゃん。」――と 小児 こども が飛着く。

 見る見るうちに、雛妓の、水晶のような

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みは った目は、一杯の涙である。

 小春は そっ と寄添うた。

「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」

 西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、

「姉ちゃん、大すきな豆の あんも を持って来た。」

 ものも言い得ず、姉さんは、弟のその つむり でると、仰いで笠の うち じっ た。その笠を かぶ って立てる さま は、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた 地蔵菩薩 じぞうぼさつ のようであった。

  親仁 おやじ は抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、 火傷 やけど したかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに 叩頭 おじぎ をして、

「御免下され、御免下され。」

 と言った。

「正念寺様におまいりをして、それから木賃へ くそうです。いま参りましたのは、あの がちょっと……やかたへ連れて行きましたの。」

  突当 つきあたり らしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、 雛妓 おしゃく ささや いて「のちにえ。」と言って別れに、さて教授にそう言った。

 ――来た途中の俄盲目は、これである――

 やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が ねんごろ に説いたのであった。

「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」

「死んで たま るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」

「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお ことば ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか いや だと言います。お かげ さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その くるし みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」

「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」

「おほほ。」

「ああ、ほんとに笑ったな――もう し、決して死ぬんじゃないよ。」

「たとい間違っておりましても、貴方のお ことば ばかりで きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、 売女 ばいた だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」

「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」

「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」

「…………」

「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、 落胆 がっかり して、力が抜けて。何ですか、余り 身体 からだ にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」

 と、膝に そっ と手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。 つや き髪の かおり より、眉がほんのりと にお いそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど 真暗 まっくら である。