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 ここに、第九師団 衛戍 えいじゅ 病院の白い分院がある。――薬師寺、 万松園 まんしょうえん 春日山 かすがやま などと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。

 病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。

 この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう 温泉 いでゆ の町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広い なわて になる。 桂谷 かつらだに と言うのへ通ずる街道である。病院の背後を しき って、 蜿々 うねうね と続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目の さき に近いから、遠い山も、 けわ しい みね も遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲を いたおっとりとした青空で、やや ななめ な陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。

 その 近山 ちかやま すそ は半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、 くだ りめになって、陽の一杯に当る枯草の みち が、ちょろちょろとついて、その こみち と、畷の 交叉点 こうさてん がゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。 見霽 みはらし の野山の中に一つある。一方が広々とした 刈田 かりた との境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちた くい ばかり一本、せめて 案山子 かかし にでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、 長閑 のどか 欠伸 あくび でも出そうに、その杭に もた れている。 わら が散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたり さかん に植える、 杓子菜 しゃくしな と云って、株の白い処が似ているから、 蓮華菜 れんげな とも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気が あたたか だから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。

 畑の裾は、町裏の、ごみごみした 町家 まちや 、農家が入乱れて、 樹立 こだち がくれに、 小流 こながれ を包んで、ずっと遠く続いたのは、山中 みち で、そこは雲の加減で、陽が薄赤く さっ す。

 色も空も 一淀 ひとよど みする、この 日溜 ひだま りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に べに の葉が しがら むように、 夥多 おびただ しく 赤蜻蛉 あかとんぼ が群れていた。――出会ったり、別れたり、 上下 うえした にスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びも たけなわ に、 恍惚 うっとり したらしく、夢を

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※※ さまよ うように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、 ただよ いつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。

  日南 ひなた にじ の姫たちである。

 風情に 見愡 みと れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に めぐ らしつつ たたず んでいるのであった。

  四辺 あたり 長閑 のど かさ。しかし しずか な事は――昼飯を すま せてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ 歩行 あるき でぶらりと出て、 温泉 いでゆ くるわ を一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、 なまめ かしい、 べに がら 格子 ごうし を五六軒見たあとは、 細流 せせらぎ が流れて、薬師山を一方に、 呉羽神社 くれはじんじゃ の大鳥居前を過ぎたあたりから、 往来 ゆきか う人も、来る人も、なくなって、古ぼけた 酒店 さかみせ の杉葉の もと に、茶と黒と、 まり の伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を んだり、ちょいと鼻づらを ひっ かき合ったり。……これを見ると、 うらや ましいか、 おけ の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような 小狗 こいぬ は出て来ても、村の 閑寂間 しじま か、 棒切 ぼうきれ 持った 小児 こども も居ない。

 で、ここへ来た時…… 前途 むこう 山の下から、 頬被 ほおかぶ りした脊の高い 草鞋 わらじ ばきの 親仁 おやじ が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの 一升罎 いっしょうびん をぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を ぷん とさせて、蛇の 茣蓙 ござ とな うる、裏白の葉を うずたか った 大籠 おおかご 背負 しょ ったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ つき も、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た ほこり を示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、 なまず のような、 小鮒 こぶな のような、頭の おおき たけ がびちびち跳ねていそうなのが、 温泉 いでゆ の町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。

 客は、 ひなた の赤蜻蛉に 見愡 みと れた瞳を、ふと、 畑際 はたぎわ の尾花に映すと、蔭の片袖が 悚然 ぞっ とした。一度、しかとしめて こまぬ いた腕を ほど いて、やや震える手さきを、 小鬢 こびん そっ と触れると、 喟然 きぜん として おもて を暗うしたのであった。

  日南 ひなた に霜が散ったように、鬢にちらちらと 白毛 しらが が見える。その時、赤蜻蛉の色の 真紅 まっか なのが忘れたようにスッと下りて、尾花の もと に、杭の さき とま った。……一度伏せた羽を、 と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと 此方 こなた へ振動かした。

 小狗の たわむれ にも 可懐 なつかし んだ。 幼心 おさなごころ に返ったのである。

 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、 真黒 まっくろ な厚い おおき 外套 がいとう の、背腰を屁びりに かが めて、 及腰 およびごし に右の片手を のば しつつ、 そっ ねら って寄った。が、どうしてどうして、 小児 こども のように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。…… 南無三宝 なむさんぽう 、赤蜻蛉は さっ れた。

 はっと思った時である。

「おほほほほ。ははははは。」

 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。

 向うに 狗児 いぬころ かげ も、早や見えぬ。 四辺 あたり に誰も居ないのを、一息の もと に見渡して、我を笑うと心着いた時、 咄嗟 とっさ に渋面を造って、身を じるように振向くと……

 この三角畑の裾の 樹立 こだち から、 広野 ひろの の中に、もう 一条 ひとすじ なわて と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ 畦道 あぜみち があるのが屏風のごとく つらな った、長く、 せい の高い 掛稲 かけいね のずらりと続いたのに おお われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した あわ の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。

 と見向いた時、畦の嫁菜を つま にして、その掛稲の 此方 こなた に、目も はるか な野原刈田を背にして あわい が離れて しか とは見えぬが、 薄藍 うすあい 浅葱 あさぎ の襟して、髪の つやや かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。

「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」

 おや、顔に何かついている?……すべりを しご いて、思わず でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に つば と見えたろう。

 金切声で、「ほほほほほほ。」

 十歩ばかり先に立って、一人男の つれ が居た。 しま がらは分らないが、くすんだ なり で、青磁色の 中折帽 なかおれぼう を前のめりにした 小造 こづくり な、 せた、形の 粘々 ねばねば とした男であった。これが、その晴やかな 大笑 おおわらい の笑声に驚いたように立留って、 ひさし にら みに、女を見ている。

 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが 可笑 おかし いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、 老人 としより にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を 広袖 どてら 出歩行 である く。 いきおい なのは浴衣一枚、 裸体 はだか も見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣の のり 硬々 こわごわ 突張 つっぱ って、広袖の はだ につかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も 真黒 まっくろ に、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐が いたようで、 ふんどし をぶら下げて裸で おか に立ったより、わかい女には 可笑 おか しかろう……

 いや、 蜻蛉釣 とんぼつり だ。

 ああ、それだ。

  小鬢 こびん に霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑を もら すと、その顔がまた合った。

「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、 たま らぬといった てい に、裾をぱッぱッと、もとの かた へ、 五歩 いつあし 六歩 むあし 駈戻 かけもど って、 じたように胸を折って、

「おほほほほ。」

 胸を そら して、 仰向 あおむ けに、

「あはははは。」

 たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに 叩頭 おじぎ をする姿で、うつむいて、

「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」

 やがて、 朱鷺色 ときいろ 手巾 ハンケチ で口を蔽うて、肩で 呼吸 いき して、向直って、ツンと すま して横顔で 歩行 ある こうとした。が、何と、 おのず から目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。

「おほほほほ、あははは、あははははは。」

  八口 やつくち くれない に、腕の白さのちらめくのを、振って んで 身悶 みもだえ する。

 きょろんと立った つれ の男が、 一歩 ひとあし 返して、 おさ えるごとくに、 握拳 にぎりこぶし をぬっと突出すと、今度はその顔を かが み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。

 教授も こら えず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。

「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、 脾腹 ひばら を腕で圧えたが 追着 おッつ かない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、

「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」

 そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が くすぐ る! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。 島田髷 しまだ も、切れ、はらはらとなって、

「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」

 と、手をふるはずみに、 鳴子縄 なるこなわ に、くいつくばかり、ひしと すが ると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。

「あはははははは。おほほほほほ。」

  勃然 むっ とした てい で、島田の上で、握拳の両手を、一度 打擲 ちょうちゃく をするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を らし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を うね らせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが はや いか。

「きゃあ――」と笑って、 けざまに、男のあとを掛稲の 背後 うしろ へ隠れた。

 その掛稲は、一杯の陽の光と、 あふ れるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお こら えず、おほほほほ、笑声を吸込んで、 遣切 やりき れなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を あか く、

「おほほほほほほほ、あはははははは。」

白痴奴 だらめ おどれ !」

 ねつい、 いか った声が響くと同時に、ハッとして、 もと の路へ げ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、 かわ そうとしたのが、真横にばったり。

  しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。

 顔も、髪も、 どろ まみれに、 真白 まっしろ な手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。

 瞬くばかりの間である。

「何をする、何をする。」

 たかが 山家 やまが の恋である。男女の痴話の 傍杖 そばづえ より、今は、高き そら 、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、

「何をする、何をするんだ。」

 草の みち ももどかしい。 あぜ ともいわず、刈田と言わず、 真直 まっすぐ 突切 つっき って、 さっ と寄った。

 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで げた。

「おお。」

「あ、あれ、 先刻 さっき の旦那さん。」

 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。

「外套を かぶ って、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」

 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、 蒼白 まっさお な顔をして、涙の目でなお笑った。

「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」

  妙齢 としごろ だ。この箸がころんでも笑うものを、と 憮然 ぶぜん としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も くれない の乱れた おんな の、半ば起きた肩を抱いた。

「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、 貴方 あなた の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」

「いや、我ながら、思えば 可笑 おか しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。 つれ の男は何という乱暴だ。」

「ええ、 うち ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、 心中 しんじゅう の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」

 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、

「おほほほほほほ。」