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「まあ、御飯をかえなさいよ。」

「ああ……御飯もいまかえようが……」

 さて客は、いまので話の口が ほど けたと思うらしい 面色 おももち して、中休みに 猪口 ちょく の酒を一口した。……

「…… ねえ さん、ここの前を右へ出て、 おおき な絵はがき屋だの、小料理屋だの、 にぎやか な処を通り抜けると、旧街道のようで、 町家 まちや の揃った処がある。あれはどこへ く道だね。」

「それはね、旦那さん、 那谷 なや から 片山津 かたやまづ の方へ行く道だよ。」

「そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が 桐油 とうゆ 菅笠屋 すげがさや の間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言う うち だい。」

白粉 おしろい や香水も売っていて、 鑵詰 かんづめ だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」

「全くだ、陰気な内だ。」

 と言って客は考えた。

「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。」

 と給仕盆を まり のように、とんとんと膝を ゆす って、

治兵衛 じへえ 坊主 ぼうず の家ですだよ。」

串戯 じょうだん ではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。」

「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で きと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。」

 客は、これより さき 、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに ろうかとも思ったが、 かた のごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる ひま に、自分で買って来る方が 手取早 てっとりばや い。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も かぶ らないで、 だんま りで、ふいと出た。

 直き町の角の 煙草屋 たばこや も見たし、絵葉がき屋も のぞ いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町 き、一町行き……山の 温泉 いでゆ の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の 上包 うわづつみ の色も せたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の 目貫 めぬき の町の商店でも、経験のある人だから、 気短 きみじか にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、 なまめ かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら いきおい がなく、弱々しく聞えたと思うと、 挙動 こなし は早く つま を軽く急いだが、 すそ をはらりと、 長襦袢 ながじゅばん えん なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し 俯向 うつむ けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が しお れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、 紅入 べにいり 友染 ゆうぜん の裏が 浅葱 あさぎ の袖口で、ひったり おさ えた。

 中脊で、もの柔かな女の、 ふっさ り結った島田が もつ れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの 可哀 あわれ で気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と 背後 うしろ むきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を 抽出 ひきだ して、立返る 頭髪 かみ おも そうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた 山茶花 さざんか に霜の 白粉 おしろい の溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。

 うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、 よろ しい。……」

  懐中 ふところ へ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この たもと に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその 花片 はなびら に、日の片あたりが淡くさすように、目が はれ ぼったく、殊に圧えた方の まぶた の赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に ほこり などが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。

 トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の 空樽 あきだる 、漬もの おけ などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を たた くのと同一であった。

「――涙もこれだ。」

 と教授は思わず苦笑して、

「しかし、その方が 僥倖 しあわせ だ。……」

 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「 おなか が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく 引抱 ひっかか えた 黒塗 くろぬり 飯櫃 めしびつ を、客の膝の前へストンと置くと、 一歩 ひとあし すさったままで、 突立 つった って、 じっ と顔を 瞰下 みおろ すから、この時も 吃驚 びっくり した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。

 教授はあきらめて落着いて、

「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」

「あッそうだ。」

 と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。

「腹が空いたろで、早くお まんま を食わせようと思うたでね。 いたわいな、旦那さん。」

 と、そのまま 跳廻 はねまわ ったかと思うと。

「北国一だ。」

 と投げるように け出した。

 酒は手酌が 習慣 くせ だと言って、やっと御免を こうむ ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、 しずか に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。

 話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。

 

「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」

 と言継いで、

彼家 あそこ に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」

「北国一だ。あはははは。」

 と、大声でいきなり笑った。

「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」

 また大声で、

押惚 おっぽ れたか。旦那さん。」

「驚かしなさんな。」

吃驚 びっくり しただろ、あの、 別嬪 べっぴん に。……それだよ、それが 小春 こはる さんだ。この土地の 芸妓 げいしゃ でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」

「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」

「若い人だ、 きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」

「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」

「何、旦那さん、 癇癪持 かんしゃくもち の、 嫉妬 やきもち やきで、ほうずもねえ 逆気性 のぼせしょう でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」

「何?……」

「隠元豆、 田螺 たにし さあね。」

「分らない。」

「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」

「乱暴だなあ。」

「この山代の湯ぐらいでは らち あかねえさ。 脚気 かっけ 山中 やまなか 、かさ 粟津 あわづ の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、 身体 からだ 掻毟 かきむし って、目が 引釣 ひッつ り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、 金子 かね も、店も田地までも 打込 ぶちこ んでね。 一時 いっとき は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」

 ―― 初女房 ういにょうぼう 、花嫁ぶりの商いはこれで分った――

「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。 った んだの挙句が、小春さんはまた つま を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、 がふけてでも見なさいよ、いらいらして、 逆気上 のぼせあが って、 痛痒 いたがゆ い処を 引掻 ひっか いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを んで 喰噛 くいかじ るだよ。血は上ずっても、 しょう は陰気で、ちり 蓮華 れんげ の長い顔が あお しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり 赫々 かッかッ と、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、 頭髪 かみのけ さ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」

 かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。 たもと に包んだ半紙の しずく は、まさに 山茶花 さざんか の露である。

「旦那さん、何を考えていなさるだね。」