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「そうか―― 先刻 さっき 、買ものに寄った時、その 芸妓 げいしゃ は泣いていたよ。」

「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、 気立 きだて の優しいお だから、 内証 ないしょ で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の ばば も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ 一日 いちんち 二日 ふつか 講中 こうじゅう で出入りがやがやしておるで、その ひま そっ と逢いに行ったでしょ。」

「お安くないのだな。」

「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」

「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」

 と客は、しめやかに言った。

いや な事だ。」

「大層嫌うな。……その 執拗 しつこ い、 嫉妬 しっと ぶか いのに、 口説 くど かれたらお前はどうする。」

「横びんた りこくるだ。」

「これは驚いた。」

「北国一だ。山代の ともえ 板額 はんがく だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」

「偉い!……その いきおい で、小春の味方をしておやり。」

「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」

「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」

 肩を振って、 ねたように、

「要らねえよ。―― うち こんなもの。……旦那さん。―― 旅行 たび さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」

 と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を て、

「旦那さん、いつ帰るかね。」

「いや、 深切 しんせつ 難有 ありがた いが、いま来たばかりのものに、いつ 出程 たつ かは少し ひど かろう。」

「それでも、 先刻 さっき 来た時に、一晩 どまり だと言ったでねえかね。」

「まったくだ、明日は 山中 やまなか へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」

ゆっく り居なされば いに――では、またじきに来なさいよ。」

 と、真顔で言った。

 客はその ことば に感じたように、

「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」

「あれ、何でえ?……」

「お嫁に行くから。」

 したたか かぶり って、

「ううむ、行かねえ。」

「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」

「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」

「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお 婿 むこ さんにしてくれれば。……」

「するともさ。」

「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」

「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、 御飯 おまんま を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」

勿体 もったい ないくらい、結構だな。」

「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」

「ほんとかい。」

「それだがね、旦那さん。」

「御覧、それ、すぐに 変替 へんがえ だ。」

「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の では 遣切 やりき れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が 内証 ないしょ でどうともするだよ。」

 客は赤黒く、口の とが った、にきびで ふと った顔を見つつ、

「姐さん、名は何と言う。」

 と笑って聞いた。

「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。

「何と言うよ。」

きなさい、そんな事。」

 と 耳朶 みみたぼ まで 真赤 まっか にした。

「よ、ほんとに何と言うよ。」

「お光だ。」

 と、 飯櫃 めしびつ に太い両手を 突張 つっぱ って、ぴょいと尻を 持立 もった てる。 遁構 にげがまえ でいるのである。

「お光さんか、 年紀 とし は。」

「知らない。」

「まあ、 幾歳 いくつ だい。」

「顔だ。」

「何、」

「私の顔だよ、猿だてば。」

「すると、幾歳だっけな。」

「桃栗三年、 三歳 みッつ だよ、ははは。」

 と笑いながら 駈出 かけだ した。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、

二十 はたち だ…… いたち だ……べべべべ、べい――」