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 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を 歩行 ある れたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も かろう じて 黒白 あいろ の分るくらいであった。 金屏風 きんびょうぶ とむきあった、客の脱すてを掛けた 衣桁 いこう もと に、何をしていたか、つぐんでいて、 道陸神 どうろくじん のような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」と あび せ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。

  すぐ に小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しい おんな で、しょんぼりと 起居 たちい をするのが、何だか、 産女鳥 うぶめ のように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。

 頼もしいほど、陽気に にぎや かなのは、 ひさし はずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。

 船の みよし の出たように、もう一座敷 かさな って、そこにも 三味線 さみせん の音がしたが、時々 どっ と笑う声は、 天狗 てんぐ こだま を返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。

 小春の あい の淡い襟、冷い島田が、 幾度 いくたび も、縁を のぞ いて、ともに ともし を待ちもした。

 この縁の突当りに、 上敷 うわしき を板に敷込んだ、 後架 こうか があって、機械口の水も さわやか だったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の 手水 ちょうず も出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、 真鍮 しんちゅう の水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で 汲上 くみあ げている処、発電池に故障があって、電燈もそのために おく れると、帳場で言っているそうで。そこで 中縁 なかえん の土間の おおき な石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火を とも したように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、 えん になまめかしく さっ と流してくれて、

「あれ、はんけちを 田圃道 たんぼみち で落して来て、……」

「それも死神の風呂敷だったよ。」

可恐 こわ いわ、旦那さん。」

 その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢の はた すわ っているのが かすか に見える。夕暮の さぎ が長い くちばし で留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、 木菟 みみずく のようになって、とっぷりと暮れて 真暗 まっくら だった。

「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」

「ああれ、旦那さん。」

 と、 かわや の板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、

「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」

「そうか。」

 と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、

「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」

「は。」

いか、十分に……」

「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」

 懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと 燭台 しょくだい の火が、その 高楼 たかどの 欄干 てすり を流れた。

「罰の当ったはこの方だ。――しかし、 婦人 おんな の手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お かげ で白髪が皆消えて、 真黒 まっくろ になったろう。」

 まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。

「この手水鉢は、 実盛 さねもり 首洗 くびあらい の池も同じだね。」

「ええ、縁起でもない、旦那さん。」

「ま、 姦通 まおとこ め。ううむ、おどれ等。」

「北国一だ。…… あぶね えよ。」

 殺した声と、 うめ く声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、 むこう 二階で 喝采 やんや 、ともろ声に わめ いたのとほとんど一所に、赤い電燈が、 蒟蒻 こんにゃく のようにぶるぶると震えて いた。