みさごの鮨
泉鏡花 (Misago no sushi) | ||
七
小春の身を、背に 庇 ( かば ) って立った教授が、見ると、 繻子 ( しゅす ) の黒足袋の鼻緒ずれに破れた 奴 ( やつ ) を、ばたばたと空に 撥 ( は ) ねる、治兵衛坊主を 真俯向 ( まうつむ ) けに、押伏せて、お光が 赤蕪 ( あかかぶ ) のような膝をはだけて、のしかかっているのである。
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
絨毯 ( じゅうたん ) を縫いながら、治兵衛の手の 大小刀 ( おおナイフ ) が、しかし赤黒い電燈に、 錆蜈蚣 ( さびむかで ) のように 蠢 ( うごめ ) くのを、事ともしないで、
「何が、犬にも 牙 ( きば ) がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ 嫉妬野郎 ( やきもちやろう ) だ。 大 ( でけ ) い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう 撲 ( は ) りこくってやろうかね。」
「ああ、 静 ( しずか ) に――乱暴をしちゃ 不可 ( いけな ) い。」
教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の 籐椅子 ( とういす ) に掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、 汝 ( おどれ ) から先に…… 当前 ( あたりまえ ) じゃい。うむ、放せ、 口惜 ( くやし ) いわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の 芸妓 ( げいしゃ ) を呼んで遊んだが、それがどうした。」
「 汝 ( おどれ ) 、俺の店まで、呼出しに、汝、 逢曳 ( あいびき ) にうせおって、 姦通 ( まおとこ ) め。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った 金子 ( かね ) に世の中が 行詰 ( ゆきづま ) って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして 附絡 ( つけまと ) うのは卑劣じゃあないか。――投出す 生命 ( いのち ) に女の 連 ( つれ ) を 拵 ( こさ ) えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、 蚤 ( のみ ) が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、 寝冷 ( ねびえ ) をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ 生命 ( いのち ) を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、 継足 ( つぎたし ) をしてやるが 可 ( い ) い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、 清潔 ( きれい ) だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが 蜻蛉 ( とんぼ ) 釣る形の 可笑 ( おかし ) さに、道端へ笑い倒れる 妙齢 ( としごろ ) の気の若さ……今もだ……うっかり 手水 ( ちょうず ) に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」と 呻 ( うな ) った。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、 田螺 ( たにし ) の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、 活 ( いか ) すもあるものか。―― 静 ( しずか ) にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、 生命 ( いのち ) の養生をするが 可 ( い ) い。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
「 姐 ( ねえ ) さん、放しておやり。」
「 危 ( あぶね ) え、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ 圧 ( おさ ) えていない。 婦人 ( おんな ) が 起 ( た ) ってそこへ 縋 ( すが ) れば、話は別だ。 桂清水 ( かつらしみず ) とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが 可 ( い ) い。 婦人 ( おんな ) は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
また電燈が、滅びるように、 呼吸 ( いき ) をひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を 潜 ( くぐ ) って、 小 ( ちっ ) こい、 庭境 ( にわざかい ) の 隣家 ( となり ) の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を 摺 ( ず ) って、窓を 這 ( は ) って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
小春は花のいきするように、ただ教授の 背後 ( うしろ ) から、帯に縋って、さめざめと泣いていた。
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