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 小春の身を、背に かば って立った教授が、見ると、 繻子 しゅす の黒足袋の鼻緒ずれに破れた やつ を、ばたばたと空に ねる、治兵衛坊主を 真俯向 まうつむ けに、押伏せて、お光が 赤蕪 あかかぶ のような膝をはだけて、のしかかっているのである。

「危い――刃ものを持ってるぞ。」

  絨毯 じゅうたん を縫いながら、治兵衛の手の 大小刀 おおナイフ が、しかし赤黒い電燈に、 錆蜈蚣 さびむかで のように うごめ くのを、事ともしないで、

「何が、犬にも きば がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ 嫉妬野郎 やきもちやろう だ。 でけ い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう りこくってやろうかね。」

「ああ、 しずか に――乱暴をしちゃ 不可 いけな い。」

 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の 籐椅子 とういす に掛けた。

「君は、誰を斬るつもりかね。」

「うむ、 おどれ から先に…… 当前 あたりまえ じゃい。うむ、放せ、 口惜 くやし いわい。」

「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の 芸妓 げいしゃ を呼んで遊んだが、それがどうした。」

おどれ 、俺の店まで、呼出しに、汝、 逢曳 あいびき にうせおって、 姦通 まおとこ め。」

「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った 金子 かね に世の中が 行詰 ゆきづま って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして 附絡 つけまと うのは卑劣じゃあないか。――投出す 生命 いのち に女の つれ こさ えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、 のみ が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、 寝冷 ねびえ をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ 生命 いのち を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、 継足 つぎたし をしてやるが い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、 清潔 きれい だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが 蜻蛉 とんぼ 釣る形の 可笑 おかし さに、道端へ笑い倒れる 妙齢 としごろ の気の若さ……今もだ……うっかり 手水 ちょうず に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」

「ううむ、ううむ。」と うな った。

「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、 田螺 たにし の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、 いか すもあるものか。―― しずか にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、 生命 いのち の養生をするが い。」

「餓鬼めが、畜生!」

「おっと、どっこい。」

「うむ、放せ。」

ねえ さん、放しておやり。」

あぶね え、旦那さん。」

「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」

「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」

「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ おさ えていない。 婦人 おんな ってそこへ すが れば、話は別だ。 桂清水 かつらしみず とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが い。 婦人 おんな は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」

 また電燈が、滅びるように、 呼吸 いき をひいて、すっと消えた。

「二人とも覚えてけつかれ。」

「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を くぐ って、 ちっ こい、 庭境 にわざかい 隣家 となり の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を って、窓を って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」

 小春は花のいきするように、ただ教授の 背後 うしろ から、帯に縋って、さめざめと泣いていた。