6.4. 皆思謂の五百羅漢
萬木眠れる山となつて櫻の梢も雪の夕暮とはなりぬ。是は明ぼのゝ春待時節もあ
るぞかし。人斗年をかさねて何の樂しみなかりき。殊更我身のうへさりとてはむかし
を思ふに耻かしせめては後の世の願ひこそ眞言なれと。又もや都にかへり爰ぞ目前の
浄土大雲寺に參詣殊勝さも今。佛名の折ふし我もとなへて本堂を下向して。見わたし
に五百羅漢の堂ありしに。是を立覗ば諸の佛達いづれの細工のけづりなせる。さま%
\に其形の替りける。是程多き事なれば。必ずおもひ當る人の皃ある物ぞと語り傳へ
し。さもあるべきと氣をつけて見しに。すぎにしころ我女ざかりに枕ならべし男に。
まざ/\と生移なる面影あり。氣を留て見しにあれは遊女の時。又もなく申かはし手
首に隱しぼくろせし。長者町の吉さまに似てすぎにし事を思ひやれば。又岩の片陰に
座して居給ふ人は。上京に腰元奉公せし時の旦那殿にそのまゝ。是には色々の情あつ
て忘れがたし。あちらを見れば一たび世帯持し男。五兵衞殿に鼻高い所迄違はず。是
は眞言のありし年月の契一しほなつかし。こちらを詠めけるに横太たる男。片肌ぬぎ
して淺黄の衣しやう姿。誰やらさまにとおもひ出せばそれよ/\。江戸に勤めし時月
に六さいの忍び男。糀町の團平にまがふ所なし。なほ奥の岩組の上に色のしろい佛皃
その美男是もおもひ當りしは。四條の川原ものさる藝子あがりの人なりしか。茶屋に
勤めし折から女房はじめに我に掛りさま%\所作をつくされ間もなくたゝまれ。挑灯
の消るがごとく廿四にて鳥邊野におくりしがおとがいほそり目は落入それにうたがふ
べくはなし。又上髭ありて赤みはしり天窓はきんかなる人有。是は大黒になりてさい
なまれし寺の長老さまにあの髭なくば取違ゆべし。なんぼの調謔にも身をなれしが此
御坊に晝夜おびやかされてらうさいかたきに成けるが。人間にはかぎりあり其つよ藏
さまも煙とはなり給ひし。又枯木の下に小才覺らしき皃つきをして。出額のかしらを
自剃して居所。物いはぬ斗足手もさながら動くがごとし。是も見る程思ひし御かたに
似てこそあれ。我哥比丘尼せし時日毎に逢人替りし中にある西國の藏屋敷衆身も捨給
ふ程御なづみ深かりき。何事もかなしき事嬉しき事わすれじ。人の惜む物を給はりて
お寮の手前を勤めける。惣じて五百の佛を心静に見とめしに。皆々逢馴し人の姿に思
ひ當らぬは獨もなし。すぎし年月浮流れの事どもひとつ/\おもひめぐらし。さても
勤めの女程我身ながらおそろしきものはなし。一生の男數万人にあまり身はひとつを
今に。世に長生の耻なれや淺ましやと。胸に火の車をとゞろかし泪は湯玉散ごとく。
忽に夢中の心になりて。御寺にあるとも覺えずして。ふしまろびしを法師のあまた立
寄。日も暮におよびけるはと撞鐘におどろかされ。やう/\魂ひたしかなる時。是な
る老女は何をかなげきぬ此羅漢の中に。其身より先立し一子又は契夫に似たる形もあ
りて。落涙かと。いとやさしく問れて殊更に耻かはし。それに言葉もかへさず足ばや
に門外に出。此時身の一大事を覺えて。誠なるかな名は留まつて皃なし。骨は灰とな
る草澤邊。鳴瀧の梺に來て菩提の山に入道のほだしもなければ煩惱の海をわたる艫綱
をとき捨て彼岸に願ひ是なる池に入水せんと。一筋にかけ出るをむかしのよしみある
人引留て。かくまた笹葺をしつらひ。死は時節にまかせ今迄の虚僞本心にかへつて佛
の道に入とすゝめ殊勝におもひ込。外なく念佛三昧に明暮の板戸を。稀なる人音づれ
にひかされて。酒は氣を亂すのひとつなり。みじかき世とは覺えて長物語のよしなや。
よし/\是も懺悔に身の曇晴て。心の月の清く春の夜の慰み人。我は一代女なれば何
をか隱して益なしと。胸の蓮華ひらけてしぼむまでの身の事。たとへ流れを立たれば
とて心は濁りぬべきや