University of Virginia Library

5.4. 濡問屋硯

萬賣帳なにはの浦は、日本第一の大湊にして諸國の商人爰に集りぬ。上問屋下問 屋數をしらず。客馳走のために蓮葉女といふ者を拵へ置ぬ是は食炊女の見よげなるか。 下に薄綿の小袖上に紺染の無紋に。黒き大幅おひあかまへたれ。吹鬢の京かうがひ伽 羅の油にかためて細緒の雪踏延の鼻紙を見せ掛。其身持それとはかくれなく隨分つら のかはあつうして。人中をおそれず尻居てのちよこ/\ありき。びらしやらするがゆ ゑに此名を付ぬ。物のよろしからぬを蓮の葉物といふ心也。遊女になほ身をぞんざい に持なし。旦那の内にしては朱唇万客嘗させ。浮世小路の小宿に出ては閨中無量の枕 をかはし。正月着物してもらふ男有盆帷子の約束もあり。小遣錢くるゝ人有一年中の もとゆひ白粉つづけるちいん有。はうばいの若い者に絹のきやふかきつき。久三郎に あうても只は通さず。繼煙管を無理取に合羽の切の莨宕入をしてやり。貳分が物もと らぬがそんと欲ばかりにたはふれ。されどもすゑ/\身のために金銀ほしがるにもあ らず。出替の中宿あそび女ながら美食好み。鶴屋のまんぢゆう川口屋のむしそば小濱 屋の藥酒。天滿の大佛餅日本橋の釣瓶鮨椀屋の蒲鉾樗木筋の仕出し辨當横堀のかし御 座芝居行にも駕籠でやらせ。當座拂ひのかり棧敷見てかへりての役者なづみ。角のう ちに小の字舞鶴香の圖無用の紋所を移し。姿つくるに一生夢の暮し人に浮されて親の 日をかまはず。兄弟の死目にもあそびかゝつてはゆかず。不義したい程する女ぞかし。 春めきて人の心も見えわたる淀屋橋を越て中の嶋の氣色雲静にして風絶。福嶋川の蛙 聲ゆたかに雨は傘のしめりもやらぬ程ふりて。願ふ所の日和萬の相場定まりて。米市 の人立もなくて若い者けふの淋しさ。掛硯に寄添て十露盤を枕として。小竹集をひら きて尻扣て拍子を取。ぬれの段程おもしろきはなしと語るに付て。家々に勤めし上女 の品定めいづれもならべて貳つ紋といへる惡口。見るにをかしげなる皃つき八橋の吉 と濱芝居の千歳老。不斷眠れど見よきもの。くだり玉が風俗お裏の御堂の海棠。とう から出來いてかなはぬ物。金平のはつが唐瘡高津の凉み茶屋。夜光て世に重寶。猫の りんが眼ざし杖に仕込挑灯にぎやかに見えて跡の淋しき女。釋迦がしらの久米座摩の ねり物。泣てからおもしろうないもの。徳利のこまんが床今宮の松の烏。長けれど只 なら聞物。越後なへが寢物語道久が太平記。花車に見せて切賣。にせむらさきのさつ が無心谷町の藤の花。明て見て其まゝにおかれぬ物。合力のしゆんが古裏。松はやし の觸状。是非ともにくさい物鰐口の小よしが息づかひ長町の西かは。ひがし北南その 方角に奉公せし蓮葉女數百人かそふるにくどし。年よれば其身は梧の引下駄の踏捨の ことく。行がたしれずなりて朽果るならひぞかし。我又京の扇屋を出てひとりの閨も 戀しく。此津に來りて此道に身をなし。人をよく燒とて野墓のるりと名によばれて。 はじめの程は主を大事に酒さへ洒さず通ひせしに。じだらく見ならひて後には。燭臺 夜着のうへにこけかゝるをもかまはず。菓子の胡桃を床のぬり縁にて割くらひ。椀近 敷のめげるをかまはず。いそがし業にふすましやうじ引さきてこよりにし。ぬれたる 所を蚊帳にて拭ひ。家に費をかまはずなげやりにする事なれば惣じての問屋長者に似 たり。中々あやうき世わたりふたつどりには聟にはいやなものなり。自一二年同じ家 につかはれしうちに。秋田の一客を見すまして晝夜御機嫌をとりて。おぼしめしの正 中へ諸分を持てまゐる程に衣類寢道具かず/\のはづみ。酒のまぎれどさくさに硯紙 とりよせて。墨すりあてがひ一代見すてじとの誓紙をにぎり。おろかなる田舎人をお どし。ちんともかんともいはせずお歸りにお國へつれられたがひに北國の土にと申程 に。國元の首尾迷惑していろ/\詫ても堪忍せず。けもない事をお中にお子さまがや どり給ふなどいひて。よろこびてつきりと男子には覺えあり。お名はこなたさまのか しら字新左衞門さまをかたどり。新太郎さま追付五月の節句。幟出して菖蒲刀をさゝ せましてといふをうたてく。ひそかに重手代のあたまにばかり智慧の有男を頼み。跡 腹やまずに仕切銀のうち。貳貫目出してつくばはれける