University of Virginia Library

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 それが始めは唯、聲でございましたが、暫くしますと、次第に切れ切れな語になつて、云はば溺れかかつた人間が水の中で呻るやうに、かやうな事を申すのでございます。

「なに、己に來いと云ふのだな。――どこへ――どこへ來いと?奈落へ來い。炎熱地獄へ來い。――誰だ。さう云ふ貴樣は。――貴樣は誰だ――誰だと思つたら」

 弟子は思はず繪の具を溶く手をやめて、恐る恐る師匠の顏を、覗くやうにして透して見ますと、皺だらけな顏が白くなつた上に、大粒な汗を滲ませながら、脣の干いた、齒の疎な口を喘ぐやうに大きく開けて居ります。さうして口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。切れ切れな語は元より、その舌から出て來るのでございます。

「誰だと思つたら――うん、貴樣だな。己も貴樣だらうと思つてゐた。なに、迎へに來たと?だから來い。奈落へ來い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」

 その時、弟子の眼には、朦朧とした異形の影が、屏風の面をかすめてむらむらと下りて來るやうに見えた程、氣味の惡い心もちが致したさうでございます。勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り搖り起しましたが、師匠は猶夢現に獨り語を云ひつづけて、容易に眼のさめる氣色はございません。そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顏へ浴びせかけました。

「待つてゐるから、この車へ乘つて來い――この車へ乘つて、奈落へ來い――」と云ふ語がそれと同時に、喉をしめられるやうな呻き聲に變つたと思ひますと、やつと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌しく、矢庭にそこへ刎ね起きましたが、まだ夢の中の異類異形が、 まぶたの後を去らないのでございませう。暫くは唯恐ろしさうな眼つきをして、やはり大きく口を開きながら、空を見つめて居りましたが、やがて我に返つた容子で、

「もう好いから、あちらへ行つてくれ。」と、今度は如何にも素つ氣なく、云ひつけるのでございます。弟子はかう云ふ時に逆ふと、何時でも大小言を云はれるので、匆々師匠の部屋から出て參りましたが、まだ明るい外の日の光を見た時には、まるで自分が惡夢から覺めた樣な、ほつとした氣が致したとか申して居りました。

 しかしこれなぞはまだよい方なので、その後一月ばかりたつてから、今度は又別の弟子が、わざわざ奧へ呼ばれますと、良秀はやはりうす暗い油火の光りの中で、繪筆を噛んで居りましたが、いきなり弟子の方へ向き直つて、

「御苦勞だが、又裸になつて貰はうか。」と申すのでございます。これはその時までにも、どうかすると師匠が云ひつけた事でございますから、弟子は早速衣類をぬぎすてて、赤裸になりますと、あの男は妙に顏をしかめながら、

「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思ふのだが、氣の毒でも暫くの間、わしのする通りになつてゐてはくれまいか。」と、その癖少しも氣の毒らしい容子などは見せずに、冷然とかう申しました。元來この弟子は畫筆などを握るよりも、太刀でも持つた方が好ささうな、逞しい若者でございましたが、これには流石に驚いたと見えて、後々までもその時の話を致しますと、「これは師匠が氣が違つて、私を殺すのではないかと思ひました。」と繰返して申したさうでございます。が、良秀の方では、相手の愚圖々々してゐるのが、燥つたくなつて參つたのでございませう。どこから出したか、細い鐡の鎖をざらざらと手繰りながら、殆ど飛びつくやうな勢で、弟子の背中へ乘りかかりますと、否應なしにその儘兩腕を捻ぢあげて、ぐるぐる卷きに致してしまひました。さうして又その鎖の端を邪慳にぐいと引きましたからたまりません。弟子の體ははずみを食つて、勢よく床を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまつたのでございます。