University of Virginia Library

Search this document 

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
十六
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
  

十六

 それから二三日した夜の事でございます。大殿樣は御約束通り、良秀を御召になつて、檳榔毛の車の燒ける所を、目近く見せて御やりになりました。尤もこれは堀川の御邸であつた事ではございません。俗に雪解の御所と云ふ、昔大殿樣の妹君がいらしつた洛外の山莊で、御燒きになつたのでございます。

 この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたにも御住ひにはならなかつた所で、廣い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人氣のない御容子を拜見した者の當推量でございませう。ここで御歿くなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪しい御袴の緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどと云ふ取沙汰を致すものもございました――それも無理ではございません。晝でさへ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、遣水の音が一際陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、怪形の物かと思ふ程、氣味が惡いのでございますから。

 丁度その夜はやはり月のない、まつ暗な晩でございましたが、大殿油の灯影で眺めますと、縁に近く座を御占めになつた大殿樣は、淺黄の直衣に濃い紫の浮紋の指貫を御召になつて、白地の錦の縁をとつた圓座に、高々とあぐらを組んでいらつしやいました。その前後左右に御側の者どもが五六人、恭しく居並んで居りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年陸奧の戰ひに餓ゑて人の肉を食つて以來、鹿の生角さへ裂くやうになつたと云ふ強力の侍が、下に腹卷を着こんだ容子で、太刀を鴎尻に佩き反らせながら、御縁の下に嚴しくつくばつてゐた事でございます。――それが皆、夜風に靡く灯の光で、或は明るく或は暗く、殆ど夢現を分たない氣色で、何故かもの凄く見え渡つて居りました。

 その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い車蓋にのつしりと暗を抑へて、牛はつけず黒い轅を斜に榻へかけながら、金物の黄金を星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものの何となく肌寒い氣が致します。尤もその車の内は、浮線綾の縁をとつた青簾が、重く封じこめて居りますから、 はこには何がはひつてゐるか判りません。さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる松明を執つて、煙が御縁の方へ靡くのを氣にしながら、仔細らしく控へて居ります。

 當の良秀は稍離れて、丁度御縁の眞向に、跪いて居りましたが、これは何時もの香染らしい狩衣に萎えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに壓されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。その後に又一人同じやうな烏帽子狩衣の蹲つたのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございませうか。それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。