第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
九の二
運命の 坑 ( あな ) 黙々として人を待つ。人は知らず 識 ( し ) らずその運命に歩む。すなわち知らずというとも、近づくに従うて一種冷ややかなる 気 ( け ) はいを感ずるは、たれもしかる事なり。
伯母の迎え、父に会うの喜びに、深く子細を問わずして帰京の 途 ( みち ) に上りし浪子は、車に上るよりしきりに胸打ち騒ぎつ。思えば思うほど 腑 ( ふ ) に落ちぬこと多く、ただ頭痛とのみ言い紛らしし伯母がようすのただならぬも深く 蔵 ( かく ) せる事のありげに思われて、問わんも汽車の 内 ( うち ) 人の手前、それもなり難く、新橋に着くころはただこの暗き疑心のみ胸に立ち迷いて、久しぶりなる帰京の喜びもほとんど忘れぬ。
皆人のおりしあとより、浪子は看護婦にたすけられ伯母に従いてそぞろにプラットフォームを歩みつつ、改札口を過ぎける時、かなたに立ちて話しおれる陸軍士官の 一人 ( ひとり ) 、ふっとこなたを顧みてあたかも浪子と目を見合わしつ。千々岩! 彼は浪子の 頭 ( かしら ) より 爪先 ( つまさき ) まで 一瞥 ( ひとめ ) に測りて、ことさらに目礼しつつ――わらいぬ。その 一瞥 ( いちべつ ) 、その笑いの怪しく胸にひびきて、 頭 ( かしら ) より水そそがれし 心地 ( ここち ) せし浪子は、迎えの馬車に打ち乗りしあとまで、病のゆえならでさらに 悪寒 ( おかん ) を覚えしなり。
伯母はもの言わず。浪子も黙しぬ。馬車の窓に輝きし夕日は落ちて、氷川町の 邸 ( やしき ) に着けば、 黄昏 ( たそがれ ) ほのかに 栗 ( くり ) の花の 香 ( か ) を浮かべつ。門の 内外 ( うちそと ) には荷車釣り台など見えて、 脇 ( わき ) 玄関にランプの 火光 ( あかり ) さし、人の声す。物など運び入れしさまなり。浪子は何事のあるぞと思いつつ、伯母と看護婦にたすけられて馬車を下れば、玄関には 婢 ( おんな ) にランプとらして片岡子爵夫人たたずみたり。
「おお、これは早く。――御苦労さまでございました」と夫人の目は浪子の 面 ( おもて ) より加藤子爵夫人に走りつ。
「おかあさま、お変わりも……おとうさまは?」
「は、書斎に」
おりから「 姉 ( ねえ ) さまが来たよ姉さまが」と子供の声にぎやかに 二人 ( ふたり ) の 幼弟妹 ( はらから ) 走り 出 ( い ) で来たりて、その母の「静かになさい」とたしなむるも顧みず、左右より浪子にすがりつ。駒子もつづいて 出 ( い ) で来たりぬ。
「おお 道 ( みい ) ちゃん、 毅一 ( きい ) さん。どうだえ? ――ああ駒ちゃん」
道子はすがれる 姉 ( あね ) の 袂 ( たもと ) を引き動かしつつ「あたしうれしいわ、姉さまはもうこれからいつまでも 此家 ( うち ) にいるのね。お道具もすっかり来てよ」
はッと声もなし得ず、子爵夫人も、伯母も、 婢 ( おんな ) も、駒子も一斉に浪子の 面 ( おもて ) をうちまもりつ。
「エ?」
おどろきし浪子の目は継母の顔より伯母の顔をかすめて、たちまち玄関わきの室も狭しと積まれたるさまざまの道具に注ぎぬ。まさしく 良人宅 ( うち ) に置きたるわが 箪笥 ( たんす ) ! 長持ち! 鏡台!
浪子はわなわなと震いつ。倒れんとして伯母の手をひしととらえぬ。
皆泣きつ。
重やかなる足音して、父中将の姿見え来たりぬ。
「お、おとうさま!!
」「おお、浪か。待って――いた。よく、帰ってくれた」
中将はその大いなる胸に、わなわなと震う浪子をばかき 抱 ( いだ ) きつ。
半時の後、家の 内 ( うち ) しんとなりぬ。中将の書斎には、 父子 ( おやこ ) ただ二人、再び帰らじと 此家 ( ここ ) を 出 ( い ) でし日別れの 訓戒 ( いましめ ) を聞きし時そのままに、浪子はひざまずきて父の 膝 ( ひざ ) にむせび、中将は 咳 ( せ ) き入る 女 ( むすめ ) の 背 ( せな ) をおもむろになでおろしつ。
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