University of Virginia Library

五の一

 新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々岩の ( くちびる ) に上りし微笑は、解かんと欲して解き得ざりし難問の 忽然 ( こつぜん ) としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の 凱歌 ( がいか ) なりき。にくしと思う川島片岡両家の 関鍵 ( かんけん ) は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特にわれ千々岩安彦のために 復讎 ( ふくしゅう ) の機会を与うるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く家にあらず、

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姑※ ( こそく ) の間に 軽々 ( けいけい ) 一片の ( ことば ) を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに何の子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々岩は実にかく思いて、いささか不快の ( まゆ ) を開けるなり。

 叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに怒りしほど、叔母はわれに怒らざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ――千々岩の年よりも世故に ( ) けたる ( こうべ ) に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた 親戚 ( しんせき ) 知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細く覚ゆる叔母が、若夫婦にあきたらで味方ほしく思うをもよく知りつ。さればいまだ一兵を進めずしてその作戦計画の必ず成効すべきを測りしなり。

 胸中すでに成竹ある千々岩は、さらに山木を語らいて、時々川島家に行きては、その模様を探らせ、かつは自己――千々岩はいたく 悔悛 ( かいしゅん ) 覚悟 ( かくご ) せる由をほのめかしつ。浪子の病すでに 二月 ( ふたつき ) に及びてはかばかしく ( ) せず、叔母の 機嫌 ( きげん ) のいよいよ ( ) しきを聞きし四月の末、武男はあらず、執事の田崎も家用を帯びて旅行せしすきをうかがい、一 ( ) 千々岩は不意に絶えて久しき川島家の門を入りぬ。あたかも叔母がひとり武男の書状を前に置きて、深く深く沈吟せるところに行きあわせつ。