University of Virginia Library

一の二

 武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海に ( ) で、秋は帰るべかりしに、 桑港 ( そうこう ) に着きける時、器械に修覆を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、 旧臘 ( きゅうろう ) 押しつまりて帰朝しつ。今日正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない加藤家より浪子の 実家 ( さと ) ( ) いたるなり。

 武男が母は昔 気質 ( かたぎ ) の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、 寝台 ( ねだい ) ( ) ねて ( さじ ) もて食らうこと思いも寄らねど、さすがに若主人のみは幾分か治外の法権を ( ) けて、十畳のその居間は和洋折衷とも言いつべく、畳の上に緑色の 絨氈 ( じゅうたん ) を敷き、テーブルに 椅子 ( いす ) 二三脚、床には 唐画 ( とうが ) の山水をかけたれど、

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※間 ( びかん ) には亡父 通武 ( みちたけ ) の肖像をかかげ、開かれざる 書筺 ( しょきょう ) と洋籍の ( たな ) は片すみに排斥せられて、正面の床の間には父が遺愛の 備前兼光 ( びぜんかねみつ ) の一刀を飾り、士官帽と両眼鏡と違い棚に、短剣は床柱にかかりぬ。写真額 数多 ( あまた ) 掛けつらねたるうちには、その乗り組める軍艦のもあり、制服したる青年のおおぜいうつりたるは、 江田島 ( えたじま ) にありけるころのなるべし。テーブルの上にも二三の写真を飾りたり。両親並びて、五六歳の 男児 ( おのこ ) の父の膝に ( ) りたるは、武男が幼きころの紀念なり。カビネの 一人 ( ひとり ) ( うつ ) しの軍服なるは 乃舅 ( しゅうと ) 片岡中将なり。主人が年若く粗豪なるに似もやらず、 几案 ( きあん ) 整然として、すみずみにいたるまで一点の ( ちり ) ( とど ) めず、あまつさえ古銅 ( へい ) に早咲きの梅一両枝趣深く ( ) けたるは、 ( あたた ) かき心と細かなる注意と熟練なる手と常にこの ( へや ) に往来するを示しぬ。げにその ( ぬし ) は銅瓶の ( もと ) に梅花の ( かおり ) を浴びて、心臓形の銀の写真掛けのうちにほほえめるなり。ランプの光はくまなく室のすみずみまでも照らして、 火桶 ( ひおけ ) の炭火は緑の 絨氈 ( じゅうたん ) の上に紫がかりし ( くれない ) ( ほのお ) を吐きぬ。

 愉快という愉快は世に数あれど、つつがなく長の旅より帰りて、旅衣を 平生服 ( ふだんぎ ) 着心地 ( きごこち ) よきにかえ、窓外にほゆる夜あらしの音を聞きつつ居間の暖炉に足さしのべて、聞きなれし時計の 軋々 ( きつきつ ) を聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた 阿母 ( あぼ ) 老健にして、新妻のさらに ( いと ) しきあるをや。葉巻の ( かんば ) しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを ( ) けけるなり。

 ただ一つの ( かげ ) は、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、 折節 ( おりふし ) 千々岩は不在なりしを同僚の ( なにがし ) 何心なく見るに、高利貸の名高き 何某 ( なにがし ) の貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の ( いち ) に見たる者あり。とにかく種々 嫌疑 ( けんぎ ) の雲は千々岩の上におおいかかりてあれば、この上とても千々岩には心して、かつ自ら 戒飭 ( かいちょく ) するよう忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは 爾汝 ( じじょ ) の間なる ( しゅうと ) 中将の話なりき。

 「困った男だ」

 かくひとりごちて、武男はまた千々岩の名刺を打ちながめぬ。しかも今の武男は長く不快に縛らるるあたわざるなり。何も直接にあいて問いただしたる上と、思い定めて、心はまた翻然として今の楽しきに返れる時、 ( きもの ) をあらためし浪子は手ずから紅茶を入れてにこやかに入り来たりぬ。

 「おお紅茶、これはありがたい」椅子を離れて 火鉢 ( ひばち ) のそばにあぐらかきつつ、

 「 ( おっか ) さんは?」

 「今おやすみ遊ばしました」紅茶の熱きをすすめつつ、なお ( くれない ) なる 良人 ( おっと ) ( かお ) をながめ「あなた、お頭痛が遊ばすの? お酒なんぞ、召し上がれないのに、あんなに母がおしいするものですから」

 「なあに――今日は実に愉快だったね、浪さん。 阿舅 ( おとっさん ) のお話がおもしろいものだから、きらいな酒までつい過ごしてしまった。はははは、本当に浪さんはいいおとっさんをもっているね、浪さん」

 浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて

 「その上に――」

 「エ? 何です?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。

 「存じません、ほほほほほ」さと顔あからめ、うつぶきて 指環 ( ゆびわ ) をひねる。

 「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が 上手 ( じょうず ) になったのかい。これでは ( えり ) どめぐらいは ( やす ) いもんだ。はははは」

 火鉢の上にさしかざしたる ( てのひら ) にぽうっと 薔薇色 ( ばらいろ ) になりし頬を押えつ。少し吐息つきて、

 「本当に―― ( なが ) い間 ( おっか ) 様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ 勤務 ( おつとめ ) にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」

 「始終 ( うち ) にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」

 「まあ、あんな ( こと ) を――も 一杯 ( ひとつ ) あげましょうか」

 くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつ、快くあたりを見回して、

 「半年の ( ) もハンモックに揺られて、 ( うち ) に帰ると、十畳敷きがもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。――ああ、何だか二度 蜜月遊 ( ホニムーン ) をするようだ」

 げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の一時に来つらん 心地 ( ここち ) せらるるなりけり。

  ( ことば ) はしばし絶えぬ。 両人 ( ふたり ) はうっとりとしてただ 相笑 ( あいえ ) めるのみ。梅の ( ) 細々 ( さいさい ) として 両人 ( ふたり ) 火桶 ( ひおけ ) を擁して 相対 ( あいむか ) えるあたりをめぐる。

 浪子はふと思い ( ) でたるように顔を上げつ。

 「あなたいらっしゃいますの、山木に?」

 「山木かい、 ( おっか ) さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい」

 「ほほ、わたくしも行きたいわ」

 「行きなさいとも、行こういっしょに」

 「ほほほ、よしましょう」

 「なぜ?」

 「こわいのですもの」

 「こわい? 何が?」

 「うらまれてますから、ほほほ」

 「うらまれる? うらむ? 浪さんを?」

 「ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお ( とよ ) さん……」

 「ははは、何を――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい ( ) があるかしらん。ははは」

 「 ( おっか ) さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を ( さい ) にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」

 「千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな 嫌疑 ( けんぎ ) を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい ( ふう ) はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、 ( つね ) の産を積んで、まさかの 時節 ( とき ) に内顧の ( うれい ) のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの 賭博 ( とばく ) だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる」

 今そこに当の敵のあるらんように息巻き荒く攻め立つるまだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞き ( ) るる浪子は 勇々 ( ゆゆ ) しと誇りて、早く海軍大臣かないし軍令部長にして海軍部内の ( ふう ) を一新したしと思えるなり。

 「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、 阿爺 ( ちち ) がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろ物を持って来ますの。 阿爺 ( ちち ) はそんな事は 大禁物 ( だいきんもつ ) ですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけてもやはりいろいろ名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、 阿爺 ( ちち ) 戯談 ( じょうだん ) に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」

 「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん――やあもう十時か」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。

 「本当に 時間 ( とき ) が早くたつこと!」