第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の三
都の花はまだ少し早けれど、逗子あたりは若葉の山に 山桜 ( さくら ) 咲き 初 ( そ ) めて、山また山にさりもあえぬ白雲をかけし四月初めの土曜。今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山も 一色 ( ひといろ ) に打ち 煙 ( けぶ ) り、たださえ 永 ( なが ) き日の果てもなきまで永き 心地 ( ここち ) せしが、日暮れ方より大降りになって、風さえ強く吹きいで、戸障子の鳴る 響 ( おと ) すさまじく、怒りたける 相模灘 ( さがみなだ ) の 濤声 ( とうせい ) 、 万馬 ( ばんば ) の 跳 ( おど ) るがごとく、海村戸を 鎖 ( とざ ) して 燈火 ( ともしび ) 一つ漏る家もあらず。
片岡家の 別墅 ( べっしょ ) にては、今日は 夙 ( と ) く 来 ( く ) べかりしに勤務上やみ難き要ありておくれし武男が、 夜 ( よ ) に入りて、風雨の暗を 衝 ( つ ) きつつ来たりしが、今はすでに 衣 ( い ) をあらため、 晩餐 ( ばんさん ) を終え、卓によりかかりて、手紙を読みており。 相対 ( あいむか ) いて、浪子は美しき 巾着 ( きんちゃく ) を縫いつつ、時々針をとどめて 良人 ( おっと ) の 方 ( かた ) 打ちながめては 笑 ( え ) み、風雨の音に耳傾けては静かに思いに沈みており。 揚巻 ( あげまき ) に結いし緑の髪には、一 朶 ( だ ) の山桜を葉ながらにさしはさみたり。 二人 ( ふたり ) の間には、一脚の卓ありて、桃色のかさかけしランプはじじと燃えつつ、 薄紅 ( うすくれない ) の光を落とし、そのかたわらには 白磁瓶 ( はくじへい ) にさしはさみたる一枝の山桜、雪のごとく黙して語らず。 今朝 ( けさ ) 別れ来し故山の春を夢むるなるべし。
風雨の声 屋 ( おく ) をめぐりて騒がし。
武男は手紙を巻きおさめつ。「 阿舅 ( おとうさん ) もよほど心配しておいでなさる。どうせ 明日 ( あす ) はちょっと 帰京 ( かえ ) るから、赤坂へ回って来よう」
「明日いらッしゃるの? このお天気に!――でもお 母 ( かあ ) 様もお待ちなすッていらッしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!」
「浪さんが!!!
とんでもない! それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは 流刑 ( しまながし ) にあったつもりでいなさい。はははは」「ほほほ、こんな 流刑 ( しまながし ) なら生涯でもようござんすわ――あなた、 巻莨 ( たばこ ) 召し上がれな」
「ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり来る前の日と、帰った日は、二日 分 ( ぶり ) のむのだからね。ははははは」
「ほほほ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ」
「それはごちそうさま。大方お千鶴さんの 土産 ( みやげ ) だろう。――それは何かい、立派な物ができるじゃないか」
「この間から日が 永 ( なが ) くッてしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど――イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ何だか気分が 清々 ( せいせい ) したこと。も少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう」
「ドクトル川島がついているのだもの、はははは。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなッた。もうこっちのものだて」
この時次の間よりかの老女のいくが、菓子 鉢 ( ばち ) と茶盆を両手にささげ来つ。
「ひどい 暴風雨 ( しけ ) でございますこと。 旦那 ( だんな ) 様がいらッしゃいませんと、ねエ奥様、 今夜 ( こんばん ) なんざとても目が合いませんよ。 飯田町 ( いいだまち ) のお嬢様はお 帰京 ( かえり ) 遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと 帰京 ( かえり ) ますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。 茂平 ( もへい ) (老僕)どんはいますけれども」
「こんな晩に船に乗ってる人の 心地 ( こころもち ) はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」
「なあに」と武男は茶をすすり果てて風月の 唐饅頭 ( とうまんじゅう ) 二つ三つ一息に平らげながら「なあに、これくらいの 風雨 ( しけ ) はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も 大暴風雨 ( おおしけ ) に出あうと、随分こたえるよ。四千何百トンの 艦 ( ふね ) が三四十度ぐらいに傾いてさ、山のようなやつがドンドン 甲板 ( かんぱん ) を打ち越してさ、 艦 ( ふね ) がぎいぎい 響 ( な ) るとあまりいい 心地 ( こころもち ) はしないね」
風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣 礫 ( つぶて ) のごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。 三人 ( みたり ) が 語 ( ことば ) しばし途絶えて、風雨の音のみぞすさまじき。
「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな 夜 ( ばん ) は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」
浪子は 磁瓶 ( じへい ) にさしし桜の花びらを 軽 ( かろ ) くなでつつ「 今朝 ( けさ ) 老爺 ( じいや ) が山から折って来ましたの。きれいでしょう。――でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう! そうそう、さっき 蓮月 ( れんげつ ) の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし心のままにとく咲きて、すがすがしくも散るさくらかな』よく 詠 ( よ ) んでありますのねエ」
「なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを 賞翫 ( しょうがん ) するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。 戦争 ( いくさ ) でも早く 討死 ( うちじに ) する方が負けだよ。も少し剛情にさ、 執拗 ( しつこく ) さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは 梨本 ( なしもと ) 跣足 ( はだし ) だろう」
「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」
「はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」
話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、 濤 ( なみ ) の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは 鉄瓶 ( てつびん ) の湯をかうるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温器をちょっと 燈火 ( あかり ) に透かし見て、 今宵 ( こよい ) は常よりも上らぬ熱を手柄顔に 良人 ( おっと ) に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの 桜花 ( さくら ) を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて
「もう一年たちますのねエ、よウくおぼえていますよ、あの時馬車に乗って出ると 家内 ( みんな ) の者が送って出てますから何とか言いたかったのですけどどうしても口に出ませんの。おほほほ。それから 溜池橋 ( ためいけばし ) を渡るともう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て、それから 山王 ( さんのう ) のあの坂を上がるとちょうど 桜花 ( さくら ) の盛りで、馬車の窓からはらはらはらはらまるで 吹雪 ( ふぶき ) のように降り込んで来ましてね、ほほほ、 髷 ( まげ ) に花びらがとまってましたのを、もうおりるという時、気がついて伯母がとってくれましたッけ」
武男はテーブルに 頬杖 ( ほおづえ ) つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。はははは、あの時浪さんの澄まし方といったらはッははは思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」
「でも、ほほほほ――あなたも若殿様できちんと澄ましていらッしたわ。ほほほほ手が震えて、杯がどうしても持てなかったンですもの」
「 大分 ( だいぶ ) おにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ 笑 ( え ) みつつ 鉄瓶 ( てつびん ) を持ちて再び入り来つ。「ばあやもこんなに気分が 清々 ( せいせい ) いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような 心地 ( こころもち ) がいたしますでございますよ」
「伊香保はうれしかったわ!」
「 蕨 ( わらび ) 狩りはどうだい、たれかさんの 御足 ( おみあし ) が大分重かッたっけ」
「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。
「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨 狩 ( と ) りの競争しようじゃないか」
「ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ」
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