第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
1. 上 編
一の一
上州 ( じょうしゅう ) 伊香保千明 ( いかほちぎら ) の三階の 障子 ( しょうじ ) 開きて、 夕景色 ( ゆうげしき ) をながむる婦人。年は十八九。品よき 丸髷 ( まげ ) に結いて、草色の 紐 ( ひも ) つけし 小紋縮緬 ( こもんちりめん ) の 被布 ( ひふ ) を着たり。
色白の 細面 ( ほそおもて ) 、 眉 ( まゆ ) の 間 ( あわい ) ややせまりて、 頬 ( ほお ) のあたりの肉寒げなるが、 疵 ( きず ) といわば疵なれど、 瘠形 ( やさがた ) のすらりとしおらしき 人品 ( ひとがら ) 。これや 北風 ( ほくふう ) に一輪 勁 ( つよ ) きを誇る梅花にあらず、また 霞 ( かすみ ) の春に 蝴蝶 ( こちょう ) と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。
春の 日脚 ( ひあし ) の西に 傾 ( かたぶ ) きて、遠くは日光、 足尾 ( あしお ) 、 越後境 ( えちござかい ) の山々、近くは、 小野子 ( おのこ ) 、 子持 ( こもち ) 、 赤城 ( あかぎ ) の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい下の 榎 ( えのき ) 離れて 唖々 ( ああ ) と飛び行く 烏 ( からす ) の声までも 金色 ( こんじき ) に聞こゆる時、雲 二片 ( ふたつ ) 蓬々然 ( ふらふら ) と赤城の 背 ( うしろ ) より浮かび 出 ( い ) でたり。三階の婦人は、そぞろにその 行方 ( ゆくえ ) をうちまもりぬ。
両手 優 ( ゆた ) かにかき 抱 ( いだ ) きつべきふっくりとかあいげなる雲は、おもむろに赤城の 巓 ( いただき ) を離れて、さえぎる物もなき大空を相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、優々として足尾の 方 ( かた ) へ流れしが、やがて日落ちて 黄昏 ( たそがれ ) 寒き風の立つままに、 二片 ( ふたつ ) の雲今は 薔薇色 ( ばらいろ ) に 褪 ( うつろ ) いつつ、 上下 ( うえした ) に吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる 一片 ( ひとつ ) はさらに灰色に 褪 ( うつろ ) いて 朦乎 ( ぼいやり ) と空にさまよいしが、
果ては山も空もただ 一色 ( ひといろ ) に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。
一の二
「お嬢――おやどういたしましょう、また口がすべって、おほほほほ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?」
「ほほほほ、ここにいるよ」
「おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お 風邪 ( かぜ ) を召しますよ。 旦那 ( だんな ) 様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?」
「どう遊ばしたんだろうね?」と障子をあけて 内 ( うち ) に入りながら「 何 ( なん ) なら 帳場 ( した ) へそう言って、お 迎人 ( むかい ) をね」
「さようでございますよ」言いつつ手さぐりにマッチをすりてランプを 点 ( つ ) くるは、五十あまりの老女。
おりから 階段 ( はしご ) の音して、宿の 女中 ( おんな ) は上り来つ。
「おや、恐れ入ります。旦那様は大層ごゆっくりでいらっしゃいます。……はい、あのいましがた若い者をお迎えに差し上げましてございます。もうお帰りでございましょう。――お手紙が――」
「おや、お 父 ( とう ) さまのお手紙――早くお帰りなさればいいに!」と 丸髷 ( まるまげ ) の婦人はさもなつかしげに 表書 ( うわがき ) を打ちかえし見る。
「あの、殿様の御状で――。早く伺いたいものでございますね。おほほほほ、きっとまたおもしろいことをおっしゃってでございましょう」
女中 ( おんな ) は戸を立て、 火鉢 ( ひばち ) の炭をついで去れば、老女は 風呂敷包 ( ふろしきづつ ) みを 戸棚 ( とだな ) にしまい、立ってこなたに来たり、
「本当に冷えますこと! 東京 ( あちら ) とはよほど違いますでございますねエ」
「五月に桜が咲いているくらいだからねエ。ばあや、もっとこちらへお寄りな」
「ありがとうございます」言いつつ老女はつくづく顔打ちながめ「うそのようでございますねエ。こんなにお 丸髷 ( まげ ) にお結い遊ばして、ちゃんとすわっておいで遊ばすのを見ますと、ばあやがお育て申し上げたお方様とは思えませんでございますよ。 先奥様 ( せんおくさま ) がお 亡 ( な ) くなり遊ばした時、ばあやに 負 ( おぶ ) されて、 母 ( かあ ) 様母様ッてお泣き遊ばしたのは、 昨日 ( きのう ) のようでございますがねエ」はらはらと落涙し「お 輿入 ( こしいれ ) の時も、ばあやはねエあなた、あの立派なごようすを先奥様がごらん遊ばしたら、どんなにおうれしかったろうと思いましてねエ」と 襦袢 ( じゅばん ) の 袖 ( そで ) 引き出して目をぬぐう。
こなたも引き入れられるるようにうつぶきつ、火鉢にかざせし 左手 ( ゆんで ) の 指環 ( ゆびわ ) のみ 燦然 ( さんぜん ) と照り渡る。
ややありて 姥 ( うば ) は 面 ( おもて ) を上げつ。「御免遊ばせ、またこんな事を。おほほほ年が寄ると愚痴っぽくなりましてねエ。おほほほほ、お嬢――奥様もこれまではいろいろ御苦労も遊ばしましたねエ。本当によく御辛抱遊ばしましたよ。もうもうこれからはおめでたい事ばかりでございますよ、旦那様はあの通りおやさしいお方様――」
「お帰り遊ばしましてございます」
と 女中 ( おんな ) の声 階段 ( はしご ) の口に響きぬ。
一の三
「やあ、くたびれた、くたびれた」
足袋 ( たび ) 草鞋 ( わらじ ) 脱 ( ぬ ) ぎすてて、出迎う 二人 ( ふたり ) にちょっと会釈しながら、廊下に上りて来し二十三四の洋服の男、 提燈 ( ちょうちん ) 持ちし若い者を見返りて、
「いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか」
「まあ、きれい!」
「本当にま、きれいな 躑躅 ( つつじ ) でございますこと! 旦那様、どちらでお採り遊ばしました?」
「きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉が 石楠 ( しゃくなげ ) に似とるだろう。 明朝 ( あす ) 浪 ( なみ ) さんに 活 ( い ) けてもらおうと思って、折って来たんだ。……どれ、すぐ湯に入って来ようか」
*
「本当に旦那様はお活発でいらっしゃいますこと! どうしても軍人のお方様はお違い遊ばしますねエ、奥様」
奥様は丁寧に 畳 ( たた ) みし 外套 ( がいとう ) をそっと 接吻 ( せっぷん ) して 衣桁 ( いこう ) にかけつつ、ただほほえみて無言なり。
階段 ( はしご ) も 轟 ( とどろ ) と上る足音障子の外に絶えて、「ああいい 心地 ( きもち ) !」と入り来る先刻の 壮夫 ( わかもの ) 。
「おや、旦那様もうお上がり遊ばして?」
「男だもの。あはははは」と快く笑いながら、妻がきまりわるげに 被 ( はお ) る 大縞 ( おおじま ) の 褞袍 ( どてら ) 引きかけて、「失敬」と座ぶとんの上にあぐらをかき、両手に 頬 ( ほお ) をなでぬ。 栗虫 ( くりむし ) のように肥えし五分刈り頭の、日にやけし顔はさながら熟せる桃のごとく、 眉 ( まゆ ) 濃く目いきいきと、鼻下にうっすり毛虫ほどの 髭 ( ひげ ) は見えながら、まだどこやらに幼な顔の残りて、ほほえまるべき男なり。
「あなた、お手紙が」
「あ、 乃舅 ( おとっさん ) だな」
壮夫 ( わかもの ) はちょいといずまいを直して、封を切り、なかを 出 ( いだ ) せば落つる別封。
「これは浪さんのだ――ふむ、お変わりもないと見える……はははは 滑稽 ( こっけい ) をおっしゃるな……お話を聞くようだ」 笑 ( えみ ) を含んで読み終えし手紙を巻いてそばに置く。
「おまえにもよろしく。場所が変わるから、持病の起こらぬように用心おしっておっしゃってよ」と「浪さん」は 饌 ( ぜん ) を運べる老女を顧みつ。
「まあ、さようでございますか、ありがとう存じます」
「さあ、飯だ、飯だ、 今日 ( きょう ) は握り飯二つで 終日 ( いちんち ) 歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。……ははは。こらあ何ちゅう 魚 ( さかな ) だな、 鮎 ( あゆ ) でもなしと……」
「 山女 ( やまめ ) とか申しましたっけ――ねエばあや」
「そう? うまい、なかなかうまい、それお代わりだ」
「ほほほ、旦那様のお早うございますこと」
「そのはずさ。今日は 榛名 ( はるな ) から 相馬 ( そうま ) が 嶽 ( たけ ) に上って、それから 二 ( ふた ) ツ 嶽 ( だけ ) に上って、 屏風岩 ( びょうぶいわ ) の下まで来ると迎えの者に会ったんだ」
「そんなにお歩き遊ばしたの?」
「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は 茫々 ( ぼうぼう ) たる平原さ、 利根 ( とね ) がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも 詠 ( よ ) めたら、ひとつ 人麿 ( ひとまろ ) と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
「そんなに 景色 ( けしき ) がようございますの。行って見とうございましたこと!」
「ふふふふ。浪さんが上れたら、 金鵄 ( きんし ) 勲章をあげるよ。そらあ 急嶮 ( ひど ) い山だ、 鉄鎖 ( かなぐさり ) が十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ 江田島 ( えたじま ) で鍛い上げたからだで、今でもすわというとマストでも 綱 ( リギング ) でもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい」
「まあ、あんな事を」にっこり顔をあからめ「これでも学校では体操もいたしましたし――」
「ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて、一方で『地球の上に国という 国 ( くうに ) は』何とか歌うと、 女生 ( みんな ) が扇を持って 起 ( た ) ったりしゃがんだりぐるり回ったりしとるから、踊りの 温習 ( さらい ) かと思ったら、あれが体操さ! あはははは」
「まあ、お口がお悪い!」
「そうそう。あの時山木の 女 ( むすめ ) と並んで、 垂髪 ( おさげ ) に 結 ( い ) って、ありあ何とか言ったっけ、 葡萄色 ( ぶどういろ ) の 袴 ( はかま ) はいて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ」
「ほほほほ、あんな 言 ( こと ) を! あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?」
「山木はね、うちの 亡父 ( おや ) が世話したんで、今に出入りしとるのさ。はははは、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね」
「あんな 言 ( こと ) !」
「おほほほほ。そんなに御夫婦げんかを遊ばしちゃいけません。さ、さ、お仲直りのお茶でございますよ。ほほほほ」
二
前回かりに 壮夫 ( わかもの ) といえるは、海軍少尉 男爵 ( だんしゃく ) 川島武男 ( かわしまたけお ) と呼ばれ、このたび良媒ありて陸軍中将子爵 片岡毅 ( かたおかき ) とて名は 海内 ( かいだい ) に震える将軍の長女 浪子 ( なみこ ) とめでた
合※ ( ごうきん ) の式を 挙 ( あ ) げしは、つい先月の事にて、ここしばしの暇を得たれば、新婦とその実家よりつけられし老女の 幾 ( いく ) を連れて四五日 前 ( ぜん ) 伊香保 ( いかほ ) に来たりしなり。浪子は 八歳 ( やっつ ) の年 実母 ( はは ) に別れぬ。 八歳 ( やっつ ) の昔なれば、母の 姿貌 ( すがたかたち ) ははっきりと覚えねど、始終 笑 ( えみ ) を含みていられしことと、臨終のその前にわれを 臥床 ( ふしど ) に呼びて、やせ細りし手にわが小さき 掌 ( たなぞこ ) を握りしめ「浪や、 母 ( かあ ) さんは 遠 ( とおー ) いとこに行くからね、おとなしくして、おとうさまを大事にして、 駒 ( こう ) ちゃんをかあいがってやらなければなりませんよ。もう五六年……」と言いさしてはらはらと涙を流し「母さんがいなくなっても母さんをおぼえているかい」と今は肩過ぎしわが黒髪のそのころはまだふっさりと額ぎわまで 剪 ( き ) り下げしをかいなでかいなでしたまいし事も記憶の底深く 彫 ( え ) りて思い出ぬ日はあらざりき。
一年ほど過ぎて、今の母は来つ。それより後は何もかも変わり果てたることになりぬ。先の母はれっきとしたる 士 ( さむらい ) の家より来しなれば、よろず折り目正しき 風 ( ふう ) なりしが、それにてもあのように仲よき御夫婦は珍しと 婢 ( おんな ) の言えるをきけることもありし。今の母はやはりれっきとした 士 ( さむらい ) の家から来たりしなれど、早くより英国に留学して、男まさりの上に西洋風の 染 ( し ) みしなれば、何事も先とは打って変わりて、すべて先の母の 名残 ( なごり ) と覚ゆるをばさながら打ち消すように片端より改めぬ。父に対しても事ごとに遠慮もなく語らい論ずるを、父は笑いて聞き流し「よしよし、おいが負けじゃ、負けじゃ」と言わるるが常なれど、ある時ごく気に入りの副官、 難波 ( なんば ) といえるを相手の晩酌に、母も来たりて座に居しが、父はじろりと母を見てからからと笑いながら「なあ難波君、学問の 出来 ( でく ) る 細君 ( おくさん ) は持つもんじゃごわはん、いやさんざんな目にあわされますぞ、あはははは」と言われしとか。さすがの難波も母の手前、何と 挨拶 ( あいさつ ) もし兼ねて手持ちぶさたに 杯 ( さかずき ) を上げ下げして居しが、その 後 ( のち ) おのが細君にくれぐれも 女児 ( むすめ ) どもには書物を読み過ごさせな、高等小学卒業で沢山と言い含められしとか。
浪子は幼きよりいたって人なつこく、しかも 怜悧 ( りこう ) に、 香炉峰 ( こうろほう ) の雪に 簾 ( すだれ ) を巻くほどならずとも、三つのころより 姥 ( うば ) に抱かれて見送る玄関にわれから帽をとって 阿爺 ( ちち ) の 頭 ( かしら ) に載すほどの気はききたり。伸びん伸びんとする 幼心 ( おさなごころ ) は、たとえば春の若菜のごとし。よしやひとたび雪に降られしとて、ふみにじりだにせられずば、おのずから雪 融 ( と ) けて青々とのぶるなり。 慈母 ( はは ) に別れし浪子の 哀 ( かな ) しみは子供には似ず深かりしも、 後 ( あと ) の日だに照りたらば苦もなく育つはずなりき。束髪に結いて、そばへ寄れば香水の香の立ち迷う、目少し釣りて口大きなる今の母を初めて見し時は、さすがに少したじろぎつるも、人なつこき浪子はこの母君にだに慕い寄るべかりしに、継母はわれからさしはさむ一念にかあゆき 児 ( こ ) をば押し隔てつ。世なれぬわがまま者の、学問の誇り、邪推、 嫉妬 ( しっと ) さえ手伝いて、まだ八つ九つの 可愛児 ( かあいこ ) を心ある 大人 ( おとな ) なんどのように相手にするより、こなたは取りつく島もなく、寒ささびしさは心にしみぬ。ああ愛されぬは不幸なり、愛いすることのできぬはなおさらに不幸なり。浪子は母あれども愛するを得ず、 妹 ( いもと ) あれども愛するを得ず、ただ父と 姥 ( うば ) の 幾 ( いく ) と実母の姉なる 伯母 ( おば ) はあれど、何を言いても伯母はよその人、幾は召使いの身、それすら母の目常に注ぎてあれば、少しよくしても、してもらいても、互いにひいきの引き倒し、かえってためにならず。ただ父こそは、父こそは 渾身 ( こんしん ) 愛に満ちたれど、その父中将すらもさすがに母の前をばかねらるる、それも思えば慈愛の一つなり。されば母の前では余儀なくしかりて、陰へ回れば言葉少なく情深くいたわる父の人知らぬ苦心、 怜悧 ( さと ) き浪子は十分に 酌 ( く ) んで、ああうれしいかたじけない、どうぞ身を 粉 ( こ ) にしても父上のおためにと心に思いはあふるれど、気がつくほどにすれば、母は自分の領分に踏み込まれたるように気をわるくするがつらく、光を
※ ( つつ ) みて 言 ( ことば ) 寡 ( すくな ) に気もつかぬ 体 ( てい ) に控え目にしていれば、かえって意地わるのやれ鈍物のと思われ言わるるも情けなし。ある時はいささかの間違いより、流るるごとき長州弁に英国仕込みの論理法もて 滔々 ( とうとう ) と言いまくられ、おのれのみかは 亡 ( な ) き母の上までもおぼろげならずあてこすられて、さすがにくやしくかんだ 唇 ( くちびる ) 開かんとしては縁側にちらりと父の影見ゆるに口をつぐみ、あるいはまたあまり無理なる邪推されては「 母 ( おっか ) さまもあんまりな」と窓かけの陰に泣いたることもありき。父ありというや。父はあり。愛する父はあり。さりながら 家 ( うち ) が世界の女の 兒 ( こ ) には、五人の父より 一人 ( ひとり ) の母なり。その母が、その母がこの通りでは、十年の間には癖もつくべく、 艶 ( つや ) も 失 ( う ) すべし。「本当に 彼女 ( あのこ ) はちっともさっぱりした所がない、いやに 執念 ( しゅうねい ) な人だよ」と夫人は常にののしりぬ。ああ 土鉢 ( どばち ) に植えても、 高麗交趾 ( こうらいこうち ) の鉢に植えても、花は花なり、いずれか日の光を待たざるべき。浪子は実に日陰の花なりけり。さればこのたび川島家と縁談整いて、 輿入 ( こしいれ ) 済みし時は、浪子も息をつき、父中将も、継母も、伯母も、 幾 ( いく ) も、皆それぞれに息をつきぬ。
「奥様(浪子の継母)は御自分は 華手 ( はで ) がお好きなくせに、お嬢様にはいやアな、じみなものばかり、買っておあげなさる」とつねにつぶやきし 姥 ( うば ) の幾が、嫁入りじたくの薄きを気にして、 先奥様 ( せんおくさま ) がおいでになったらとかき 口説 ( くど ) いて泣きたりしも、浪子はいそいそとしてわが 家 ( や ) の 門 ( かど ) を 出 ( い ) でぬ。今まで知らぬ自由と楽しさのこのさきに待つとし思えば、父に別るる 哀 ( かな ) しさもいささか慰めらるる 心地 ( ここち ) して、いそいそとして行きたるなり。
三の一
伊香保より 水沢 ( みさわ ) の 観音 ( かんのん ) まで一里あまりの間は、 一条 ( ひとすじ ) の道、 蛇 ( へび ) のごとく 禿山 ( はげやま ) の中腹に沿うてうねり、ただ二か所ばかりの山の裂け目の谷をなせるに陥りてまた 這 ( は ) い上がれるほかは、目をねむりても行かるべき道なり。下は 赤城 ( あかぎ ) より 上毛 ( じょうもう ) の平原を見晴らしつ。ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒める土より、さまざまの草 萱 ( かや ) 萩 ( はぎ ) 桔梗 ( ききょう ) 女郎花 ( おみなえし ) の若芽など、 生 ( は ) え 出 ( い ) でて 毛氈 ( もうせん ) を敷けるがごとく、美しき草花その間に咲き乱れ、綿帽子着た 銭巻 ( ぜんまい ) 、ひょろりとした 蕨 ( わらび ) 、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば春の日の 永 ( なが ) きも忘るべき所なり。
武男 ( たけお ) 夫婦は、 今日 ( きょう ) の晴れを 蕨狩 ( わらびが ) りすとて、 姥 ( うば ) の 幾 ( いく ) と宿の女中を 一人 ( ひとり ) つれて、 午食後 ( ひるご ) よりここに来つ。はやひとしきり採りあるきて、少しくたびれが来しと見え、女中に持たせし 毛布 ( けっと ) を草のやわらかなるところに敷かせて、武男は 靴 ( くつ ) ばきのままごろりと横になり、 浪子 ( なみこ ) は 麻裏草履 ( あさうら ) を脱ぎ 桃紅色 ( ときいろ ) のハンケチにて二つ三つ 膝 ( ひざ ) のあたりをはらいながらふわりとすわりて、
「おおやわらか! もったいないようでございますね」
「ほほほお嬢――あらまた、御免遊ばせ、お奥様のいいお 顔色 ( いろ ) におなり遊ばしましたこと! そしてあんなにお唱歌なんぞお歌い遊ばしましたのは、本当にお久しぶりでございますねエ」と幾はうれしげに浪子の横顔をのぞく。
「あんまり歌ってなんだか 渇 ( かわ ) いて来たよ」
「お茶を持ってまいりませんで」と女中は 風呂敷 ( ふろしき ) 解きて 夏蜜柑 ( なつみかん ) 、袋入りの 乾菓子 ( ひがし ) 、折り詰めの 巻鮓 ( まきずし ) など取り出す。
「何、これがあれば茶はいらんさ」と武男はポッケットよりナイフ取り出して蜜柑をむきながら「どうだい浪さん、僕の手ぎわには驚いたろう」
「あんな 言 ( こと ) をおっしゃるわ」
「 旦那 ( だんな ) 様のおとり遊ばしたのには、
杪※ ( へご ) がどっさりまじっておりましてございますよ」と、女中が口を出す。「ばかを言うな。負け惜しみをするね。ははは。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか」
「きれいな空ですこと、 碧々 ( あおあお ) して、本当に 小袖 ( こそで ) にしたいようでございますね」
「水兵の服にはなおよかろう」
「おおいい 香 ( かおり ) ! 草花の香でしょうか、あ、 雲雀 ( ひばり ) が鳴いてますよ」
「さあ、お 鮓 ( すし ) をいただいてお 腹 ( なか ) ができたから、もうひとかせぎして来ましょうか、ねエ女中さん」と 姥 ( うば ) の幾は宿の女を促し立てて、また蕨採りにかかりぬ。
「すこし残しといてくれんとならんぞ―― 健 ( まめ ) な 姥 ( ばあ ) じゃないか、ねエ浪さん」
「本当に 健 ( まめ ) でございますよ」
「浪さん、くたびれはしないか」
「いいえ、ちっとも今日は疲れませんの、わたくしこんなに楽しいことは始めて!」
「遠洋航海なぞすると随分いい 景色 ( けしき ) を見るが、しかしこんな高い山の見晴らしはまた別だね。実にせいせいするよ。そらそこの左の方に白い壁が 閃々 ( ちらちら ) するだろう。あれが来がけに浪さんと昼飯を食った 渋川 ( しぶかわ ) さ。それからもっとこっちの 碧 ( あお ) いリボンのようなものが 利根川 ( とねがわ ) さ。あれが 坂東太郎 ( ばんどうたろう ) た見えないだろう。それからあの、 赤城 ( あかぎ ) の、こうずうと 夷 ( たれ ) とる、それそれ煙が見えとるだろう、あの下の方に何だかうじゃうじゃしてるね、あれが 前橋 ( まえばし ) さ。何? ずっと向こうの銀の 針 ( びん ) のようなの? そうそう、あれはやっぱり利根の流れだ。ああもう先はかすんで見えない。両眼鏡を持って来るところだったねエ、浪さん。しかし 霞 ( かすみ ) がかけて、先がはっきりしないのもかえっておもしろいかもしれん」
浪子はそっと武男の 膝 ( ひざ ) に手を投げて 溜息 ( といき ) つき
「いつまでもこうしていとうございますこと!」
「黄色の蝶二つ浪子の袖をかすめてひらひらと飛び行きしあとより、さわさわと草踏む音して、帽子かぶりし影法師だしぬけに夫婦の 眼前 ( めさき ) に落ち来たりぬ。
「武男君」
「やあ! 千々岩 ( ちぢわ ) 君か。どうしてここに?」
三の二
新来の客は二十六七にや。陸軍中尉の服を着たり。軍人には珍しき色白の好男子。惜しきことには、口のあたりどことなく 鄙 ( いや ) しげなるところありて、黒水晶のごとき目の光鋭く、見つめらるる人に不快の感を起こさすが、 疵 ( きず ) なるべし。こは武男が 従兄 ( いとこ ) に当たる 千々岩安彦 ( ちぢわやすひこ ) とて、当時参謀本部の下僚におれど、腕ききの聞こえある男なり。
「だしぬけで、びっくりだろう。実は 昨日 ( きのう ) 用があって 高崎 ( たかさき ) に泊まって、 今朝 ( けさ ) 渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは 蕨 ( わらび ) 採りの 御遊 ( ぎょゆう ) だと聞いたから、 路 ( みち ) を 教 ( おそ ) わってやって来たんだ。なに、 明日 ( あす ) は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。はッはッ」
「ばかな。――君それから 宅 ( うち ) に行ってくれたかね」
「 昨朝 ( きのう ) ちょっと寄って来た。 叔母様 ( おばさん ) も元気でいなさる。が、もう君たちが帰りそうなものだってしきりとこぼしていなすッたッけ。―― 赤坂 ( あかさか ) の方でもお変わりもありませんです」と例の黒水晶の目はぎらりと浪子の顔に注ぐ。
さっきからあからめし顔はひとしお 紅 ( あこ ) うなりて浪子は下向きぬ。
「さあ、援兵が来たからもう負けないぞ。陸海軍一致したら、 娘子 ( じょうし ) 軍百万ありといえども恐るるに足らずだ。――なにさ、さっきからこの御婦人方がわが輩 一人 ( ひとり ) をいじめて、やれ蕨の取り方が少ないの、採ったが蕨じゃないだの、 悪口 ( あっこう ) して困ったンだ」と武男は 顋 ( あご ) もて今来し 姥 ( うば ) と女中をさす。
「おや、千々岩様――どうしていらッしゃいまして?」と 姥 ( うば ) はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。
「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ」
「おほほほ、あんな 言 ( こと ) をおしゃるよ――ああそうで、へえ、 明日 ( あす ) はお帰り遊ばすンで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、お 夕飯 ( ゆう ) のしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ」
「うん、それがいい、それがいい。千々岩君も来たから、どっさりごちそうするンだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ははははは。なに、浪さんも帰る? まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるンだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。あはははは」
引きとめられて浪子は居残れば、幾は 女中 ( おんな ) と荷物になるべき 毛布 ( ケット ) 蕨などとりおさめて帰り行きぬ。
あとに 三人 ( みたり ) はひとしきり蕨を採りて、それよりまだ日も高ければとて 水沢 ( みさわ ) の観音に 詣 ( もう ) で、さきに蕨を採りし所まで帰りてしばらく休み、そろそろ帰途に上りぬ。
夕日は 物聞山 ( ものききやま ) の肩より花やかにさして、道の左右の草原は 萌黄 ( もえぎ ) の色燃えんとするに、そこここに立つ 孤松 ( ひとつまつ ) の影長々と横たわりつ。目をあぐれば、遠き山々静かに夕日を浴び、 麓 ( ふもと ) の方は夕煙諸処に立ち上る。はるか向こうを行く草負い牛の、しかられてもうと鳴く声空に満ちぬ。
武男は千々岩と並びて話しながら行くあとより浪子は従いて行く。 三人 ( みたり ) は 徐 ( しず ) かに歩みて、今しも 壑 ( たに ) を 渉 ( わた ) り終わり、坂を上りてまばゆき夕日の道に 出 ( い ) でつ。
武男はたちまち足をとどめぬ。
「やあ、しまった。ステッキを忘れた。なに、さっき休んだところだ。待っててくれたまえ、ひと走り取って来るから――なに、浪さんは待ってればいいじゃないか。すぐそこだ。全速力で駆けて来る」
と武男はしいて浪子を押しとめ、ハンケチ包みの蕨を草の上にさし置き、急ぎ足に坂を下りて見えずなりぬ。
三の三
武男が去りしあとに、浪子は 千々岩 ( ちぢわ ) と一間ばかり離れて無言に立ちたり。やがて谷を 渉 ( わた ) りてかなたの坂を上り果てし武男の姿小さく見えたりしが、またたちまちかなたに向かいて消えぬ。
「浪子さん」
かなたを望みいし浪子は、耳もと近き声に呼びかけられて思わず身を震わしたり。
「浪子さん」
一歩近寄りぬ。
浪子は二三歩引き下がりて、余儀なく顔をあげたりしが、例の黒水晶の目にひたとみつめられて、わき向きたり。
「おめでとう」
こなたは無言、耳までさっと 紅 ( くれない ) になりぬ。
「おめでとう。イヤ、おめでとう。しかしめでたくないやつもどこかにいるですがね。へへへへ」
浪子はうつむきて、 杖 ( つえ ) にしたる 海老色 ( えびいろ ) の 洋傘 ( パラソル ) のさきもてしきりに草の根をほじりつ。
「浪子さん」
蛇 ( へび ) にまつわらるる 栗鼠 ( りす ) の今は是非なく顔を上げたり。
「何でございます?」
「男爵に金、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう」
「何をおっしゃるのです?」
「へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても 唾 ( つばき ) もひッかけん、ね、これが 当今 ( いま ) の 姫御前 ( ひめごぜ ) です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね」
浪子もさすがに血相変えてきっと千々岩をにらみたり。
「何をおっしゃるンです。失敬な。も一度武男の 目前 ( まえ ) で言ってごらんなさい。失敬な。男らしく父に相談もせずに、無礼千万な 艶書 ( ふみ ) を 吾 ( ひと ) にやったりなンぞ……もうこれから決して容赦はしませぬ」
「何ですと?」千々岩の額はまっ暗くなり来たり、 唇 ( くちびる ) をかんで、一歩二歩寄らんとす。
だしぬけにいななく声 足下 ( あしもと ) に起こりて、馬上の半身坂より上に見え来たりぬ。
「ハイハイハイッ。お邪魔でがあすよ。ハイハイハイッ」と馬上なる六十あまりの 老爺 ( おやじ ) 、 頬被 ( ほおかぶ ) りをとりながら、怪しげに 二人 ( ふたり ) のようすを見かえり見かえり行き過ぎたり。
千々岩は立ちたるままに、動かず。額の 条 ( すじ ) はややのびて、結びたる唇のほとりに冷笑のみぞ浮かびたる。
「へへへへ、御迷惑ならお返しなさい」
「何をですか?」
「何が何をですか、おきらいなものを!」
「ありません」
「なぜないのです」
「汚らわしいものは焼きすててしまいました」
「いよいよですな。別に見た者はきっとないですか」
「ありません」
「いよいよですか」
「失敬な」
浪子は 忿然 ( ふんぜん ) として放ちたる眼光の、彼がまっ黒き目のすさまじきに見返されて、不快に 得堪 ( えた ) えずぞっと震いつつ、はるかに目をそらしぬ。あたかもその時谷を隔てしかなたの坂の口に武男の姿見え来たりぬ。顔一点 棗 ( なつめ ) のごとくあかく夕日にひらめきつ。
浪子はほっと息つきたり。
「浪子さん」
千々岩は懲りずまにあちこち 逸 ( そ ) らす浪子の目を追いつつ「浪子さん、 一言 ( ひとこと ) いって置くが、秘密、 何事 ( なに ) も秘密に、な、武男君にも、御両親にも。で、なけりゃ――後悔しますぞ」
電 ( いなずま ) のごとき眼光を浪子の 面 ( おもて ) に射つつ、千々岩は身を転じて、 俛 ( ふ ) してそこらの草花を摘み集めぬ。
靴音 ( くつおと ) 高く、ステッキ打ち振りつつ坂を上り来し武男「失敬、失敬。あ苦しい、走りずめだッたから。しかしあったよ、ステッキは。――う、浪さんどうかしたかい、ひどく 顔色 ( いろ ) が悪いぞ」
千々岩は今摘みし 菫 ( すみれ ) の花を胸の 飾紐 ( ひも ) にさしながら、
「なに、浪子さんはね、君があまりひま取ったもンだから、おおかた 迷子 ( まいご ) になったンだろうッて、ひどく心配しなすッたンさ。はッはははは」
「あはははは。そうか。さあ、そろそろ帰ろうじゃないか」
三人 ( みたり ) の影法師は相並んで道べの草に 曳 ( ひ ) きつつ伊香保の 片 ( かた ) に行きぬ。
四の一
午後三時高崎発上り列車の中等室のかたすみに、人なきを幸い、靴ばきのまま腰掛けの上に足さしのばして、 巻莨 ( まきたばこ ) をふかしつつ、新聞を読みおるは千々岩安彦なり。
手荒く新聞を投げやり、
「ばか!」
歯の間よりもの言う拍子に落ちし巻莨を腹立たしげに踏み消し、窓の外に 唾 ( つば ) はきしまましばらくたたずみていたるが、やがて舌打ち鳴らして、室の 全長 ( ながさ ) を二三 度 ( ど ) 往来 ( ゆきき ) して、また腰掛けに戻りつ。手をこまぬきて、目を閉じぬ。まっ黒き 眉 ( まゆ ) は一文字にぞ寄りたる。
*
千々岩安彦は 孤 ( みなしご ) なりき。父は 鹿児島 ( かごしま ) の藩士にて、維新の戦争に 討死 ( うちじに ) し、母は安彦が六歳の夏そのころ 霍乱 ( かくらん ) と言いけるコレラに 斃 ( たお ) れ、六歳の孤児は 叔母 ( おば ) ――父の妹の手に引き取られぬ。父の妹はすなわち川島武男の母なりき。
叔母はさすがに少しは安彦をあわれみたれども、 叔父 ( おじ ) はこれを厄介者に思いぬ。武男が 仙台平 ( せんだいひら ) の 袴 ( はかま ) はきて儀式の座につく時、 小倉袴 ( こくらばかま ) の 萎 ( な ) えたるを着て下座にすくまされし千々岩は、身は武男のごとく親、財産、地位などのあり余る者ならずして、全くわが 拳 ( こぶし ) とわが知恵に世を渡るべき者なるを早く悟り得て、武男を 悪 ( にく ) み、叔父をうらめり。
彼は世渡りの道に裏と表の 二条 ( ふたすじ ) あるを見ぬきて、いかなる場合にも 捷径 ( しょうけい ) をとりて進まんことを誓いぬ。されば叔父の陰によりて陸軍士官学校にありける間も、同窓の者は試験の、点数のと騒ぐ 間 ( ま ) に、千々岩は郷党の先輩にも出入り油断なく、いやしくも交わるに身の 便宜 ( たより ) になるべき者を選み、他の者どもが卒業証書握りてほっと息つく 間 ( ま ) に、早くも手づるつとうて陸軍の主脳なる参謀本部の囲い 内 ( うち ) に乗り込み、ほかの 同窓生 ( なかま ) はあちこちの中隊付きとなりてそれ練兵やれ行軍と追いつかわるるに引きかえて、千々岩は参謀本部の階下に煙吹かして 戯談 ( じょうだん ) の間に軍国の大事もあるいは耳に入るうらやましき地位に巣くいたり。
この上は結婚なり。 猿猴 ( えんこう ) のよく水に下るはつなげる手あるがため、人の立身するはよき縁あるがためと、早くも知れる彼は、戸籍吏ならねども、某男爵は某侯爵の婿、某学士兼高等官は某伯の婿、某富豪は某伯の子息の養父にて、某侯の子息の 妻 ( さい ) も某富豪の 女 ( むすめ ) と暗に指を折りつつ、早くもそこここと配れる 眼 ( まなこ ) は 片岡 ( かたおか ) 陸軍中将の家に注ぎぬ。片岡中将としいえば、当時予備にこそおれ、 驍名 ( ぎょうめい ) 天下に隠れなく、 畏 ( かしこ ) きあたりの 御覚 ( おんおぼ ) えもいとめでたく、度量 濶大 ( かつだい ) にして、誠に国家の干城と言いつべき将軍なり。千々岩は早くこの将軍の隠然として天下に重き勢力を見ぬきたれば、いささかの 便 ( たより ) を求めて次第に近寄り、如才なく奥にも取り入りつ。目は直ちに第一の令嬢浪子をにらみぬ。一には父中将の愛おのずからもっとも深く浪子の上に注ぐをいち早く 看 ( み ) て取りしゆえ、二には今の奥様はおのずから浪子を 疎 ( うと ) みてどこにもあれ縁あらば早く片づけたき様子を見たるため、三にはまた浪子のつつしみ深く 気高 ( けだか ) きを好ましと思う念もまじりて、すなわちその人を目がけしなり。かくて様子を見るに中将はいわゆる喜怒容易に色にあらわれぬ太腹の人なれば、何と思わるるかはちと測り難けれど、奥様の気には確かに入りたり。二番目の令嬢の名はお 駒 ( こま ) とて少し 跳 ( は ) ねたる三五の 少女 ( おとめ ) はことにわれと仲よしなり。その下には今の奥様の腹にて、 二人 ( ふたり ) の子供あれど、こは問題のほかとしてここに老女の 幾 ( いく ) とて先の奥様の時より勤め、今の奥様の 輿入 ( こしいれ ) 後奥台所の大更迭を行われし時も中将の声がかりにて 一人 ( ひとり ) 居残りし女、これが終始浪子のそばにつきてわれに好意の乏しきが邪魔なれど、なあに、本人の浪子さえ攻め落とさばと、千々岩はやがて一年ばかり機会をうかがいしが、今は待ちあぐみてある日宴会帰りの 酔 ( え ) いまぎれ、大胆にも一通の 艶書 ( えんしょ ) 二重 ( ふたえ ) 封 ( ふう ) にして表書きを女 文字 ( もじ ) に、ことさらに郵便をかりて浪子に送りつ。
その日命ありてにわかに遠方に出張し、三月あまりにして帰れば、わが留守に浪子は貴族院議員 加藤 ( かとう ) 某 ( なにがし ) の 媒酌 ( ばいしゃく ) にて、人もあるべきにわが 従弟 ( いとこ ) 川島武男と結婚の式すでに済みてあらんとは! 思わぬ不覚をとりし千々岩は、腹立ちまぎれに、色よき返事このようにと心に祝いて 土産 ( みやげ ) に京都より 買 ( こ ) うて来し 友染縮緬 ( ゆうぜんちりめん ) ずたずたに引き裂きて 屑籠 ( くずかご ) に投げ込みぬ。
さりながら千々岩はいかなる場合にも全くわれを忘れおわる男にあらざれば、たちまちにして敗余の兵を収めつ。ただ心外なるはこの上かの 艶書 ( ふみ ) の一条もし浪子より中将に武男に漏れなば大事の 便宜 ( たより ) を失う恐れあり。持ち込みよき浪子の事なれば、まさかと思えどまたおぼつかなく、高崎に用ありて行きしを幸い、それとなく伊香保に滞留する武男夫妻を 訪 ( と ) うて、やがて探りを入れたるなり。
いまいましきは武男――
*
「武男、武男」と耳近にたれやら呼びし 心地 ( ここち ) して、 愕 ( がく ) と目を開きし千々岩、窓よりのぞけば、列車はまさに 上尾 ( あげお ) の 停車場 ( ステーション ) にあり。駅夫が、「上尾上尾」と呼びて過ぎたるなり。
「ばかなッ!」
ひとり自らののしりて、千々岩は 起 ( た ) ちて二三度車室を 往 ( ゆ ) き戻りつ。心にまとう 或 ( あ ) るものを振り落とさんとするように身震いして、座にかえりぬ。冷笑の影、目にも 唇 ( くちびる ) にも浮かびたり。
列車はまたも上尾を 出 ( い ) でて、疾風のごとく 馳 ( は ) せつつ、幾駅か過ぎて、 王子 ( おうじ ) に着きける時、プラットフォムの砂利踏みにじりて、五六人ドヤドヤと中等室に入り込みぬ。なかに五十あまりの男の、 一楽 ( いちらく ) の 上下 ( にまい ) ぞろい 白縮緬 ( しろちりめん ) の 兵児帯 ( へこおび ) に岩丈な金鎖をきらめかせ、 右手 ( めて ) の指に 分厚 ( ぶあつ ) な金の 指環 ( ゆびわ ) をさし、あから顔の目じり著しくたれて、左の目下にしたたかなる 赤黒子 ( あかぼくろ ) あるが、腰かくる拍子にフット目を見合わせつ。
「やあ、千々岩さん」
「やあ、これは……」
「どちらへおいででしたか」言いつつ赤黒子は立って千々岩がそばに腰かけつ。
「はあ、高崎まで」
「高崎のお 帰途 ( かえり ) ですか」ちょっと千々岩の顔をながめ、少し声を低めて「時にお急ぎですか。でなけりゃ夜食でもごいっしょにやりましょう」
千々岩はうなずきたり。
四の二
橋場の渡しのほとりなるとある水荘の門に 山木兵造 ( やまきひょうぞう ) 別邸とあるを見ずば、 某 ( なにがし ) の 待合 ( まちあい ) かと思わるべき 家作 ( やづく ) りの、しかも 音締 ( ねじ ) めの 響 ( おと ) しめやかに 婀娜 ( あだ ) めきたる島田の 障子 ( しょうじ ) に映るか、さもなくば 紅 ( くれない ) の 毛氈 ( もうせん ) 敷かれて 花牌 ( はなふだ ) など落ち散るにふさわしかるべき二階の 一室 ( ひとま ) に、わざと電燈の 野暮 ( やぼ ) を避けて例の 和洋行燈 ( あんどうらんぷ ) を据え、取り散らしたる杯盤の間に、あぐらをかけるは千々岩と今 一人 ( ひとり ) の赤黒子は問うまでもなき当家の主人山木兵造なるべし。
遠ざけにしや、そばに 侍 ( はんべ ) る女もあらず。赤黒子の前には小形の手帳を広げたり、鉛筆を添えて。番地官名など細かに肩書きして姓名 数多 ( あまた ) 記 ( しる ) せる上に、鉛筆にてさまざまの 符号 ( しるし ) つけたり。丸。四角。三角。イの字。ハの字。五六七などの数字。あるいはローマ数字。点かけたるもあり。ひとたび消してイキルとしたるもあり。
「それじゃ千々岩さん。その方はそれと決めて置いて、いよいよ 定 ( き ) まったらすぐ知らしてくれたまえ。――大丈夫間違はあるまいね」
「大丈夫さ、もう大臣の手もとまで出ているのだから。しかし何しろ 競争者 ( あいて ) がしょっちゅう運動しとるのだから例のも思い切って 撒 ( ま ) かんといけない。これだがね、こいつなかなか食えないやつだ。しッかり 轡 ( くつわ ) をかませんといけないぜ」と千々岩は手帳の上の 一 ( いつ ) の名をさしぬ。
「こらあどうだね?」
「そいつは話せないやつだ。僕はよくしらないが、ひどく 頑固 ( がんこ ) なやつだそうだ。まあ正面から平身低頭でゆくのだな。悪くするとしくじるよ」
「いや陸軍にも、わかった人もあるが、実に話のできン男もいるね。去年だった、師団に服を納めるンで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのはよかッたが。あら何とか言ッたッけ、 赤髯 ( あかひげ ) の大佐だったがな、そいつが何のかの難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、ばかめ、 賄賂 ( わいろ ) なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、とどのつまりあ菓子箱を 蹴 ( け ) 飛ばしたと思いなさい。例の 上層 ( うえ ) が干菓子で、下が 銀貨 ( しろいの ) だから、たまらないさ。 紅葉 ( もみじ ) が散る雪が降る、座敷じゅう――の雨だろう。するとそいつめいよいよ腹あ立てやがッて、汚らわしいの、やれ告発するのなんのぬかしやがるさ。やっと 結局 ( まとめ ) をつけはつけたが、大骨折らしアがッたね。こんな先生がいるからばかばかしく事が面倒になる。いや面倒というと武男さんなぞがやっぱりこの流で、実に話せないに困る。こないだも――」
「しかし武男なんざ 親父 ( おやじ ) が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だッて正直だッて好きなまねしていけるのだがね。 吾輩 ( ぼく ) のごときは腕一本――」
「いやすっかり忘れていた」と赤黒子はちょいと千々岩の顔を見て、懐中より十円 紙幣 ( さつ ) 五枚取り 出 ( いだ ) し「いずれ何はあとからとして、まあ車代に」
「遠慮なく 頂戴 ( ちょうだい ) します」手早くかき集めて 内 ( うち ) ポケットにしまいながら「しかし山木さん」
「?」
「なにさ、 播 ( ま ) かぬ種は 生 ( は ) えんからな!」
山木は 苦笑 ( にがわら ) いしつ。千々岩が肩ぽんとたたいて「食えン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長ぐらいに!」
「はははは。山木さん、 清正 ( きよまさ ) の短刀は子供の三尺三寸よりか切れるぜ」
「うまく言ったな――しかし君、 蠣殻町 ( かきがらちょう ) だけは用心したまえ、 素人 ( しろうと ) じゃどうしてもしくじるぜ」
「なあに、 端金 ( はしたがね ) だからね――」
「じゃいずれ近日、様子がわかり次第――なに、車は出てから乗った方が大丈夫です」
「それじゃ――家内も 御挨拶 ( ごあいさつ ) に出るのだが、娘が手離されんでね」
「お 豊 ( とよ ) さんが? 病気ですか」
「実はその、何です。この一月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて 此家 ( ここ ) へ来ているですて。いや千々岩さん、 妻 ( かか ) だの子だの滅多に持つもんじゃないね。金もうけは独身に限るよ。はッははは」
主人 ( あるじ ) と 女中 ( おんな ) に玄関まで見送られて、千々岩は山木の別邸を 出 ( い ) で行きたり。
四の三
千々岩を送り終わりて、山木が奥へ帰り入る時、かなたの 襖 ( ふすま ) すうと開きて、色白きただし髪薄くしてしかも前歯二本不行儀に 反 ( そ ) りたる四十あまりの女入り来たりて山木のそばに座を占めたり。
「千々岩さんはもうお帰り?」
「今追っぱらったとこだ。どうだい、 豊 ( とよ ) は?」
反歯 ( そっぱ ) の女はいとど顔を長くして「ほんまに 良人 ( あんた ) 。 彼女 ( あれ ) にも困り切りますがな。―― 兼 ( かね ) 、 御身 ( おまえ ) はあち 往 ( い ) っておいで。 今日 ( きょう ) もなあんた、ちいと何かが気に食わんたらいうて、お 茶碗 ( ちゃわん ) を投げたり、着物を裂いたりして、しようがありまへんやった。ほんまに十八という年をして――」
「いよいよもって 巣鴨 ( すがも ) だね。困ったやつだ」
「あんた、そないな 戯談 ( じょうだん ) どころじゃございませんがな。――でもかあいそうや、ほんまにかあいそうや、今日もな、あんた、 竹 ( たけ ) にそういいましたてね。ほんまに憎らしい武男はんや、ひどいひどいひどいひどい人や、去年のお正月には 靴下 ( くつした ) を編んであげたし、それからハンケチの縁を縫ってあげたし、それからまだ毛糸の手袋だの、腕ぬきだの、それどころか今年の御年始には赤い毛糸でシャツまで編んであげたに、 皆 ( みいな ) 自腹ア切ッて編んであげたのに、 何 ( なアん ) の 沙汰 ( さた ) なしであの不器量な 意地 ( いじ ) わるの威張った浪子はんをお嫁にもらったり、ほんまにひどい人だわ、ひどいわひどいわひどいわひどいわ、あたしも山木の 女 ( むすめ ) やさかい、浪子はんなんかに負けるものか、ほんまにひどいひどいひどいひどいッてな、あんた、こないに言って泣いてな。そないに思い込んでいますに、あああ、どうにかしてやりたいがな、あんた」
「ばかを言いなさい。勇将の 下 ( もと ) に弱卒なし。 御身 ( おまえ ) はさすがに豊が 母 ( おっか ) さんだよ。そらア川島だッて新華族にしちゃよっぽど財産もあるし、武男さんも 万更 ( まんざら ) ばかでもないから、おれもよほどお豊を入れ込もうと骨折って見たじゃないか。しかしだめで、もうちゃんと婚礼が済んで見れば、何もかも御破算さ。お浪さんが死んでしまうか、離縁にでもならなきゃア仕方がないじゃないか。それよりもばかな事はいい加減に思い切ッてさ、ほかに 嫁 ( かたづ ) く分別が肝心じゃないか、ばかめ」
「何が 阿呆 ( あほう ) かいな? はい、あんた見たいに利口やおまへんさかいな。 好年配 ( えいとし ) をして、 彼女 ( あれ ) や 此女 ( これ ) や 足袋 ( たび ) とりかえるような――」
「そう雄弁 滔々 ( とうとう ) まくしかけられちゃア困るて。 御身 ( おまえ ) は本当に 馬 ( ば ) ――だ。すぐむきになりよる。なにさ、おれだッて、お豊は子だもの、かあいがらずにどうするものか、だからさ、そんなくだらぬ繰り言ばっかり言ってるよりも、別にな、立派なとこに、な、生涯楽をさせようと思ってるのだ。さ、おすみ、来なさい、 二人 ( ふたり ) でちっと説諭でもして見ようじゃないか」
と夫婦打ち連れ、廊下伝いに娘お豊の 棲 ( す ) める 離室 ( はなれ ) におもむきたり。
山木兵造というはいずこの人なりけるにや、出所定かならねど、今は世に知られたる紳商とやらの一 人 ( にん ) なり。出世の初め、今は故人となりし武男が父の世話を受けしこと少なからざれば、今も川島家に出入りすという。それも川島家が新華族中にての財産家なるがゆえなりという者あれど、そはあまりに酷なる評なるべし。本宅を 芝桜川町 ( しばさくらがわちょう ) に構えて、別荘を橋場の渡しのほとりに持ち、昔は高利も貸しけるが、今はもっぱら陸軍その他官省の請負を業とし、嫡男を米国ボストンの商業学校に入れて、 女 ( むすめ ) お豊はつい先ごろまで華族女学校に通わしつ。妻はいついかにして持ちにけるや、ただ京都者というばかり、すこぶる醜きを、よくかの山木は辛抱するぞという人もありしが、実は意気 婀娜 ( あだ ) など形容詞のつくべき女諸処に 家居 ( いえい ) して、 輪番 ( かわるがわる ) 行く山木を待ちける由は妻もおぼろげならずさとりしなり。
四の四
床には琴、月琴、ガラス箱入りの大人形などを置きたり。すみには美しき女机あり、こなたには 姿見鏡 ( すがたみ ) あり。いかなる高貴の姫君や住みたもうらんと見てあれば、八畳のまんなかに絹ぶとん敷かせて、 玉蜀黍 ( とうもろこし ) の毛を 束 ( つか ) ねて結ったようなる島田を 大童 ( おおわらわ ) に振り乱し、ごろりと横に 臥 ( ふ ) したる十七八の娘、色白の 下豊 ( しもぶくれ ) といえばかあいげなれど、その 下豊 ( しもぶくれ ) が少し過ぎて 頬 ( ほお ) のあたりの肉今や落ちんかと危ぶまるるに、ちょっぽりとあいた口は閉ずるも面倒といい 貌 ( がお ) に始終 洞門 ( どうもん ) を形づくり、うっすりとあるかなきかの 眉 ( まゆ ) の下にありあまる肉をかろうじて二三 分 ( ぶ ) 上下 ( うえした ) に押し分けつつ開きし目のうちいかにも春がすみのかけたるごとく、前の世からの長き眠りがとんと今もってさめぬようなり。
今何かいいつけられて笑いを忍んで立って行く女の 背 ( せな ) に、「ばか」と一つ後ろ矢を射つけながら、 女 ( むすめ ) はじれったげに 掻巻 ( かいまき ) 踏みぬぎ、床の間にありし大形の―― 袴 ( はかま ) はきたる女生徒の多くうつれる写真をとりて、糸のごとき目にまばたきもせず見つめしが、やがてその 一人 ( ひとり ) の顔と覚しきあたりをしきりに 爪弾 ( つまはじ ) きしつ。なおそれにも飽き足らでや、 爪 ( つめ ) もてその顔の上に縦横に 疵 ( きず ) をつけぬ。
襖 ( ふすま ) の開く音。
「たれ? 竹かい」
「うん竹だ、頭の 禿 ( は ) げた竹だ」
笑いながら 枕 ( まくら ) べにすわるは、父の山木と母なり。娘はさすがにあわてて写真を押し隠し、起きもされず寝もされずといわんがごとく横になりおる。
「どうだ、お豊、気分は? ちっとはいいか? 今隠したのは何だい。ちょっと見せな、まあ見せな。これさ見せなといえば。――なんだ、こりア、浪子さんの顔じゃないか、ひどく爪かたをつけたじゃないか。こんな事するよりか 丑 ( うし ) の時参りでもした方がよっぽど気がきいてるぜ!」
「あんたまたそないな事を!」
「どうだ、お豊、 御身 ( おまえ ) も山木兵造の娘じゃないか。ちっと気を大きくして 山気 ( やまき ) を出せ、山気を出せ、あんなけちけちした男に心中立て――それもさこっちばかりでお相手なしの心中立てするよりか、こら、お豊、 三井 ( みつい ) か 三菱 ( みつびし ) 、でなけりゃア大将か総理大臣の 息子 ( むすこ ) 、いやそれよりか外国の皇族でも引っかける分別をしろ。そんな肝ッ玉の小せエ事でどうするものか。どうだい、お豊」
母の前では縦横に 駄々 ( だだ ) をこねたまえど、お豊姫もさすがに父の前をば 憚 ( はばか ) りたもうなり。突っ伏して答えなし。
「どうだ、お豊、やっぱり武男さんが恋しいか。いや困った 小浪 ( こなみ ) 御寮 ( ごりょう ) だ。小浪といえば、ねエお豊、ちっと気晴らしに京都にでも行って見んか。そらアおもしろいぞ。 祇園 ( ぎおん ) 清水 ( きよみず ) 知恩院 ( ちおんいん ) 、 金閣寺 ( きんかくじ ) 拝見がいやなら 西陣 ( にしじん ) へ行って、帯か三 枚襲 ( まいがさね ) でも見立てるさ。どうだ、あいた口に 牡丹餅 ( ぼたもち ) よりうまい話だろう。 御身 ( おまえ ) も久しぶりだ、お豊を連れて道行きと出かけなさい、なあおすみ」
「あんたもいっしょに行きなはるのかいな」
「おれ? ばかを言いなさい、この 忙 ( せわ ) しいなかに!」
「それならわたしもまあ見合わせやな」
「なぜ? 飛んだ義理立てさするじゃないか。なぜだい?」
「おほ」
「なぜだい?」
「おほほほほほ」
「気味の 悪 ( わり ) い笑い方をするじゃないか。なぜだい?」
「あんた 一人 ( ひとり ) の留守が心配やさかい」
「ばかをいうぜ。お豊の前でそんな事いうやつがあるものか。お豊、 母 ( おっか ) さんの言ってる 事 ( こた ) ア皆うそだぜ、 真 ( ま ) に受けるなよ」
「おほほほ。どないに口で言わはってもあかんさかいなア」
「ばかをいうな。それよりか――なお豊、気を広く持て、広く。待てば甘露じゃ。今におもしれエ事が出て来るぜ」
五の一
赤坂 氷川町 ( ひかわまち ) なる片岡中将の邸内に 栗 ( くり ) の花咲く六月半ばのある土曜の 午後 ( ひるすぎ ) 、主人子爵片岡中将はネルの 単衣 ( ひとえ ) に 鼠縮緬 ( ねずみちりめん ) の 兵児帯 ( へこおび ) して、どっかりと書斎の 椅子 ( いす ) に 倚 ( よ ) りぬ。
五十に間はなかるべし。額のあたり少し 禿 ( は ) げ、 両鬢 ( りょうびん ) 霜ようやく 繁 ( しげ ) からんとす。体量は二十二貫、アラビア 種 ( だね ) の 逸物 ( いちもつ ) も将軍の座下に汗すという。両の肩怒りて 頸 ( くび ) を没し、 二重 ( ふたえ ) の 顋 ( あぎと ) 直ちに胸につづき、 安禄山 ( あんろくざん ) 風の腹便々として、牛にも似たる 太腿 ( ふともも ) は行くに 相擦 ( あいす ) れつべし。 顔色 ( いろ ) は思い切って 赭黒 ( あかぐろ ) く、鼻太く、 唇 ( くちびる ) 厚く、 鬚 ( ひげ ) 薄く、 眉 ( まゆ ) も薄し。ただこのからだに似げなき両眼細うして光り和らかに、さながら象の目に似たると、今にも 笑 ( え ) まんずる 気 ( け ) はいの断えず口もとにさまよえるとは、いうべからざる 愛嬌 ( あいきょう ) と 滑稽 ( こっけい ) の 嗜味 ( しみ ) をば著しく描き 出 ( いだ ) しぬ。
ある年の秋の事とか、中将微服して山里に 猟 ( か ) り暮らし、 姥 ( ばば ) ひとり住む山小屋に渋茶一 碗 ( わん ) 所望しけるに、 姥 ( ばば ) つくづくと中将の様子を見て、
「でけえ 体格 ( からだ ) だのう。 兎 ( うさぎ ) のひとつもとれたんべいか?」
中将 莞爾 ( かんじ ) として「ちっともとれない」
「そねエな 殺生 ( せっしょう ) したあて、あにが商売になるもんかよ。その 体格 ( からだ ) で 日傭 ( ひよう ) 取りでもして見ろよ、五十両は大丈夫だあよ」
「月にかい?」
「あに! 年によ。 悪 ( わり ) いこたあいわねえだから、日傭取るだあよ。いつだあておらが世話あしてやる」
「おう、それはありがたい。また頼みに来るかもしれん」
「そうしろよ、そうしろよ。そのでけえ 体格 ( からだ ) で殺生は惜しいこんだ」
こは中将の知己の間に一つ話として時々 出 ( い ) づる佳話なりとか。知らぬ目よりはさこそ見ゆらめ。知れる目よりはこの 大山 ( たいさん ) 巌々 ( がんがん ) として物に動ぜぬ大器量の将軍をば、まさかの時の鉄壁とたのみて、その二十二貫小山のごとき体格と常に 怡然 ( いぜん ) たる神色とは 洶々 ( きょうきょう ) たる三軍の心をも安からしむべし。
肱近 ( ひじちか ) のテーブルには 青地交趾 ( せいじこうち ) の 鉢 ( はち ) に植えたる 武者立 ( むしゃだち ) の 細竹 ( さいちく ) を置けり。頭上には高く両陛下の 御影 ( ぎょえい ) を掲げつ。下りてかなたの一面には「 成仁 ( じんをなす ) 」の額あり。落款は 南洲 ( なんしゅう ) なり。架上に書あり。 暖炉縁 ( マンテルピース ) の上、すみなる三角 棚 ( だな ) の上には、内外人の写真七八枚、軍服あり、平装のもあり。
草色のカーテンを絞りて、東南二方の窓は六つとも朗らかに明け放ちたり。東の 方 ( かた ) は眼下に人うごめき家かさなれる谷町を見越して、青々としたる霊南台の上より、 愛宕塔 ( あたごとう ) の 尖 ( さき ) 、尺ばかりあらわれたるを望む。 鳶 ( とび ) ありてその上をめぐりつ。南は 栗 ( くり ) の花咲きこぼれたる庭なり。その絶え間より 氷川社 ( ひかわやしろ ) の 銀杏 ( いちょう ) の 梢 ( こずえ ) 青鉾 ( あおほこ ) をたてしように見ゆ。
窓より見晴らす初夏の空あおあおと 浅黄繻子 ( あさぎじゅす ) なんどのように光りつ。見る目 清々 ( すがすが ) しき 緑葉 ( あおば ) のそこここに、 卵白色 ( たまごいろ ) の栗の花ふさふさと 満樹 ( いっぱい ) に咲きて、 画 ( えが ) けるごとく空の 碧 ( みどり ) に映りたり。窓近くさし 出 ( い ) でたる一枝は、枝の武骨なるに似ず、 日光 ( ひ ) のさすままに緑玉、 碧玉 ( へきぎょく ) 、 琥珀 ( こはく ) さまざまの色に透きつ 幽 ( かす ) めるその葉の 間々 ( あいあい ) に、 肩総 ( エポレット ) そのままの花ゆらゆらと枝もたわわに咲けるが、吹くとはなくて大気のふるうごとに 香 ( か ) は忍びやかに書斎に音ずれ、薄紫の影は窓の 閾 ( しきみ ) より主人が 左手 ( ゆんで ) に持てる「 西比利亜 ( サイベリア ) 鉄道の現況」のページの上にちらちらおどりぬ。
主人はしばしその細き目を閉じて、 太息 ( といき ) つきしが、またおもむろに開きたる目を冊子の上に注ぎつ。
いずくにか、 車井 ( くるまい ) の 響 ( おと ) からからと 珠 ( たま ) をまろばすように聞こえしが、またやみぬ。
午後の 静寂 ( しずけさ ) は一邸に満ちたり。
たちまち 虚 ( すき ) をねらう 二人 ( ふたり ) の 曲者 ( くせもの ) あり。尺ばかり透きし 扉 ( とびら ) よりそっと 頭 ( かしら ) をさし入れて、また引き込めつ。忍び笑いの声は戸の外に渦まきぬ。 一人 ( ひとり ) の曲者は八つばかりの 男児 ( おのこ ) なり。 膝 ( ひざ ) ぎりの水兵の服を着て、編み上げ靴をはきたり。一人の曲者は五つか、六つなるべし、紫 矢絣 ( やがすり ) の 単衣 ( ひとえ ) に 紅 ( くれない ) の帯して、髪ははらりと目の上まで散らせり。
二人の曲者はしばし戸の外にたゆたいしが、今はこらえ兼ねたるように四つの手ひとしく扉をおしひらきて、一斉に突貫し、室のなかほどに横たわりし新聞 綴込 ( とじこみ ) の 堡塁 ( ほうるい ) を難なく乗り越え、真一文字に中将の 椅子 ( いす ) に攻め寄せて、水兵は右、振り分け髪は左、小山のごとき中将の膝を生けどり、
「おとうさま!」
五の二
「おう、帰ったか」
いかにもゆったりとその便々たる腹の底より押しあげたようなる 乙音 ( ベース ) を発しつつ、中将はにっこりと 笑 ( え ) みて、その重やかなる手して右に水兵の肩をたたき、左に振り分け髪のその前髪をかいなでつ。
「どうだ、小試験は? でけたか?」
「僕アね、僕アね、おとうさま、僕ア算術は甲」
「あたしね、おとうさま、 今日 ( きょう ) は縫い取りがよくできたッて先生おほめなすッてよ」
と振り分け髪はふところより幼稚園の 製作物 ( こしらえもの ) を取り 出 ( いだ ) して中将の膝の上に置く。
「おう、こら立派にでけたぞ」
「それからね、習字に読書が乙で、あとはみんな丙なの、とうと 水上 ( みなかみ ) に負けちゃッた。僕アくやしくッて仕方がないの」
「勉強するさ――今日は修身の話は何じゃッたか?」
水兵は快然と 笑 ( え ) みつつ、「今日はね、おとうさま、 楠正行 ( くすのきまさつら ) の話よ。僕正行ア大好き。正行とナポレオンはどっちがエライの?」
「どっちもエライさ」
「僕アね、おとうさま、正行ア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ア海軍になるンだ」
「はははは。川島の 兄君 ( にいさん ) の 弟子 ( でし ) になるのか?」
「だッて、川島の 兄君 ( にいさん ) なんか少尉だもの。僕ア中将になるンだ」
「なぜ大将にやならンか?」
「だッて、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま」
「少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ」
「あたしね、おとうさま、おとうさまてばヨウおとうさま」と振り分け髪はつかまりたる中将の膝を 頡頏台 ( はねだい ) にしてからだを 上下 ( うえした ) に揺すりながら、「今日はね、おもしろいお話を聞いてよ、あの 兎 ( うさぎ ) と 亀 ( かめ ) のお話を聞いてよ、言って見ましょうか、――ある所に一ぴきの兎と亀がおりました――あらおかあさまいらッしてよ」
柱時計の午後 二点 ( にじ ) をうつ拍子に、入り来たりしは三十八九の 丈 ( たけ ) 高き婦人なり。束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、 隆 ( たか ) き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目少しく釣りて、どこやらちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり 刷 ( は ) きて、 唇 ( くちびる ) をまれに漏るる歯はまばゆきまで 皓 ( しろ ) くみがきぬ。パッとしたお召の 単衣 ( ひとえ ) に 黒繻子 ( くろじゅす ) の丸帯、左右の指に 宝石 ( たま ) 入りの金環 価 ( あたえ ) 高かるべきをさしたり。
「またおとうさまに甘えているね」
「なにさ、今学校の成績を聞いてた所じゃ。――さあ、これからおとうさんのおけいこじゃ。みんな外で遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ」
「まあ、うれしい」
「万歳!」
両児 ( ふたり ) は 嬉々 ( きき ) として、互いにもつれつ、からみつ、前になりあとになりて、室を 出 ( い ) で去りしが、やがて「万歳!」「 兄 ( にい ) さまあたしもよ」と叫ぶ声はるかに聞こえたり。
「どんなに申しても、 良人 ( あなた ) はやっぱり甘くなさいますよ」
中将はほほえみつ。「何、そうでもないが、子供はかあいがッた方がいいさ」
「でもあなた、厳父慈母と俗にも申しますに、あなたがかあいがッてばかりおやンなさいますから、ほんとに逆さまになッてしまッて、わたくしは始終しかり通しで、 悪 ( にく ) まれ役はわたくし 一人 ( ひとり ) ですわ」
「まあそう 短兵急 ( たんぺいきゅう ) に攻めンでもええじゃないか。どうかお手柔らかに――先生はまずそこにおかけください。はははは」
打ち笑いつつ中将は立ってテーブルの上よりふるきローヤルの第三 読本 ( リードル ) を取りて、 片唾 ( かたず ) をのみつつ、 薩音 ( さつおん ) まじりの怪しき英語を読み始めぬ。静聴する婦人――夫人はしきりに発音の誤りを正しおる。
こは中将の日課なり。維新の騒ぎに一介の武夫として身を起こしたる子爵は、身生の
※忙 ( そうぼう ) に 逐 ( お ) われて外国語を修むるのひまもなかりしが、昨年来予備となりて少し閑暇を得てければ、このおりにとまず英語に攻めかかれるなり。教師には手近の夫人 繁子 ( しげこ ) 。長州の名ある 士人 ( さむらい ) の娘にて、久しく英国ロンドンに留学しつれば、英語は大抵の男子も及ばぬまで達者なりとか。げにもロンドンの 煙 ( けむ ) にまかれし夫人は、何事によらず洋風を重んじて、家政の整理、子供の教育、皆わが洋のほかにて見もし聞きもせし通りに行わんとあせれど、事おおかたは志と 違 ( たが ) いて、 僕婢 ( おとこおんな ) は陰にわが世なれぬをあざけり、子供はおのずから寛大なる父にのみなずき、かつ 良人 ( おっと ) の何事も 鷹揚 ( おうよう ) に東洋風なるが、まず夫人不平の 種子 ( たね ) なりけるなり。中将が千辛万苦して一ページを読み終わり、まさに訳読にかからんとする所に、 扉 ( と ) 翻りて 紅 ( くれない ) のリボンかけたる 垂髪 ( さげがみ ) の――十五ばかりの 少女 ( おとめ ) 入り来たり、中将が大の手に 小 ( ち ) さき読本をささげ読めるさまのおかしきを、ほほと笑いつ。
「おかあさま、 飯田町 ( いいだまち ) の 伯母 ( おば ) 様がいらッしゃいましてよ」
「そう」と見るべく見るべからざるほどのしわを 眉 ( まゆ ) の間に寄せながら、ちょっと中将の顔をうかがう。
中将はおもむろにたち上がりて、椅子を片寄せ「こちへ御案内申しな」
五の三
「御免ください」
とはいって来しは四十五六とも見ゆる品よき婦人、目 病 ( や ) ましきにや、水色の 眼鏡 ( めがね ) をかけたり。顔のどことなく伊香保の三階に見し人に似たりと思うもそのはずなるべし。こは片岡中将の先妻の姉 清子 ( せいこ ) とて、貴族院議員子爵 加藤俊明 ( かとうとしあき ) 氏の夫人、 媒妁 ( なかだち ) として浪子を川島家に 嫁 ( とつ ) がしつるもこの夫婦なりけるなり。
中将はにこやかにたちて椅子をすすめ、椅子に向かえる窓の 帷 ( とばり ) を少し引き立てながら、
「さあ、どうか。非常にごぶさたをしました。 御主人 ( おうち ) じゃ相変わらずお 忙 ( せわ ) しいでしょうな。ははははは」
「まるで
※駝師 ( うえきや ) でね、 木鋏 ( はさみ ) は放しませんよ。ほほほほ。まだ 菖蒲 ( しょうぶ ) には早いのですが、自慢の朝鮮 柘榴 ( ざくろ ) が花盛りで、 薔薇 ( ばら ) もまだ残ってますからどうかおほめに来てくださいまして、ね、くれぐれ申しましたよ。ほほほほ。――どうか、 毅一 ( きい ) さんや 道 ( みい ) ちゃんをお連れなすッて」と水色の眼鏡は片岡夫人の 方 ( かた ) に向かいぬ。打ち明けていえば、子爵夫人はあまり水色の眼鏡をば好まぬなり。教育の 差 ( ちがい ) 、気質の異なり、そはもちろんの事として、先妻の姉――これが始終心にわだかまりて、不快の 種子 ( たね ) となれるなり。われひとり主人中将の心を占領して、われひとり家に女 主人 ( あるじ ) の威光を振るわんずる鼻さきへ、先妻の姉なる人のしばしば出入して、 亡 ( な ) き妻の 面影 ( おもかげ ) を主人の 眼前 ( めさき ) に浮かぶるのみか、口にこそ 出 ( いだ ) さね、わがこれをも昔の 名残 ( なごり ) とし 疎 ( うと ) める浪子、 姥 ( うば ) の幾らに同情を寄せ、死せる 孔明 ( こうめい ) のそれならねども、何かにつけてみまかりし人の影をよび起こしてわれと争わすが、はなはだ快からざりしなり。今やその浪子と姥の幾はようやくに去りて、治外の法権 撤 ( と ) れしはやや心安きに似たれど、今もかの水色眼鏡の顔見るごとに、 髣髴 ( ほうふつ ) 墓中の人の 出 ( い ) で来たりてわれと 良人 ( おっと ) を争い、主婦の権力を争い、せっかく立てし教育の方法家政の 経綸 ( けいりん ) をも争わんずる 心地 ( ここち ) して、おのずから安からず覚ゆるなりけり。
水色の眼鏡は 蝦夷錦 ( えぞにしき ) の 信玄袋 ( しんげんぶくろ ) より 瓶詰 ( びんづめ ) の菓子を取り 出 ( いだ ) し
「もらい物ですが、 毅一 ( きい ) さんと 道 ( みい ) ちゃんに。まだ学校ですか、見えませんねエ。ああ、そうですか。――それからこれは 駒 ( こま ) さんに」
と紅茶を持て来し 紅 ( くれない ) のリボンの少女に 紫陽花 ( あじさい ) の 花簪 ( はなかんざし ) を与えつ。
「いつもいつもお気の毒さまですねエ、どんなに喜びましょう」と言いつつ子爵夫人は 件 ( くだん ) の瓶をテーブルの上に置きぬ。
おりから 婢 ( おんな ) の来たりて、赤十字社のお方の奥様に御面会なされたしというに、子爵夫人は会釈して場をはずしぬ。室を 出 ( い ) でける時、あとよりつきて 出 ( い ) でし 少女 ( おとめ ) を小手招きして、何事をかささやきつ。小戻りして、窓のカーテンの陰に 内 ( うち ) の話を立ち聞く 少女 ( おとめ ) をあとに残して、夫人は廊下伝いに応接間の 方 ( かた ) へ行きたり。紅のリボンのお駒というは、今年十五にて、これも先妻の腹なりしが、夫人は姉の浪子を 疎 ( うと ) めるに引きかえてお駒を愛しぬ。 寡言 ( ことばすくな ) にして何事も内気なる浪子を、意地わるき 拗 ( す ) ね者とのみ思い誤りし夫人は、姉に比してやや 侠 ( きゃん ) なる 妹 ( いもと ) のおのが気質に似たるを喜び、一は姉へのあてつけに、一はまた 継子 ( ままこ ) とて愛せぬものかと世間に見せたき心も――ありて、父の愛の姉に注げるに対しておのずから味方を妹に求めぬ。
私強 ( わたくしづよ ) き人の 性質 ( たち ) として、ある 方 ( かた ) には人の思わくも思わずわが思うままにやり通すこともあれど、また思いのほかにもろくて人の評判に気をかねるものなり。 畢竟 ( ひっきょう ) 名と利とあわせ収めて、好きな事する上に人によく思われんとするは、わがまま者の常なり。かかる人に限りて、おのずからへつらいを喜ぶ。子爵夫人は男まさりの、しかも洋風仕込みの、議論にかけては威命天下に響ける夫中将にすら 負 ( ひけ ) を取らねど、中将のいたるところ友を作り 逢 ( あ ) う人ごとに慕わるるに引きかえて、愛なき身には味方なく、心さびしきままにおのずからへつらい寄る人をば喜びつ。召使いの 僕婢 ( おとこおんな ) も 言 ( こと ) に 訥 ( おそ ) きはいつか退けられて、世辞よきが用いられるようになれば、幼き駒子も必ずしも姉を忌むにはあらざれど、姉を 譏 ( そし ) るが継母の気に入るを覚えてより、ついには告げ口の癖をなして、 姥 ( うば ) の幾に顔しかめさせしも一度二度にはあらず。されば姉は 嫁 ( とつ ) ぎての今までも、継母のためには細作をも務むるなりけり。
東側の縁の、二つ目の窓の陰に身を 側 ( そば ) めて、聞きおれば、時々腹より押し出したような父の笑い声、 凛 ( りん ) とした伯母の笑い声、かわるがわる聞こえしが、後には話し声のようやく 低音 ( こえひく ) になりて、「 姑 ( しゅうとめ ) 」「浪さん」などのとぎれとぎれに聞こゆるに、 紅 ( あか ) リボンの 少女 ( おとめ ) はいよよ耳傾けて聞き居たり。
五の四
「 四 ( し ) イ 百 ( しゃア ) く余州を 挙 ( こ ) うぞる、十う万ン余騎の敵イ、なんぞおそれンわアれに、 鎌倉 ( かまくーら ) ア男児ありイ」
と足拍子踏みながらやって来しさっきの水兵、目早く縁側にたたずめる 紅 ( あか ) リボンを見つけて、紅リボンがしきりに手もて口をおおいて見せ、 頭 ( かしら ) を 掉 ( ふ ) り手を振りて見せるも委細かまわず「 姉 ( ねえ ) さま姉さま」と走り寄り「何してるの?」と問いすがり、姉がしきりに 頭 ( かしら ) をふるを「何? 何?」と問うに、紅リボンは顔をしかめて「いやな人だよ」と思わず声高に言って、しまったりと言い顔に肩をそびやかし、
※々 ( そうそう ) に去り行きたり。「ヤアイ、逃げた、ヤアイ」
と叫びながら、水兵は父の書斎に入りつ。来客の顔を見るよりにっこと笑いて、ちょっと 頭 ( かしら ) を下げながらつと父の 膝 ( ひざ ) にすがりぬ。
「おや 毅一 ( きい ) さん、すこし見ないうちに、また大きくなったようですね。毎日学校ですか。そう、算術が甲? よく勉強しましたねエ。近いうちにおとうさまやおかあさまと伯母さンとこにおいでなさいな」
「 道 ( みい ) はどうした? おう、そうか。そうら、伯母様がこんなものをくださッたぞ。うれしいか、あはははは」と菓子の 瓶 ( びん ) を見せながら「かあさんはどうした? まだ客か? 伯母様がもうお帰りなさる、とそう言って来い」
出 ( い ) で行く子供のあと見送りながら、主人中将はじっと水色眼鏡の顔を見つめて、
「じゃ幾の事はそうきめてどうか 角立 ( かどだ ) たぬように――はあそう願いましょう。いや実はわたしもそんな事がなけりゃいいがと思ったくらいで、まあやらない方じゃったが、浪がしきりに言うし、自身も 懇望 ( こんもう ) しちょったものじゃから――はあ、そう、はあ、はあ、何分願います」
語半ばに 入 ( はい ) り来し子爵夫人 繁子 ( しげこ ) 、水色眼鏡の 方 ( かた ) をちらと見て「もうお帰りでございますの? あいにくの来客で――いえ、今帰りました。なに、また慈善会の相談ですよ。どうせ物にもなりますまいが。本当に 今日 ( きょう ) はお 愛想 ( あいそ ) もございませんで、どうぞ 千鶴子 ( ちずこ ) さんによろしく――浪さんがいなくなりましたらちょっとも遊びにいらッしゃいませんねエ」
「こないだから少し加減が悪かッたものですから、どこにもごぶさたばかりいたします――では」と信玄袋をとりておもむろに立てば、
中将もやおら 体 ( たい ) を起こして「どれそこまで運動かたがた、なにそこまでじゃ、そら 毅一 ( きい ) も 道 ( みい ) も運動に行くぞ」
出 ( い ) づるを送りし夫人繁子はやがて居間の安楽椅子に腰かけて、慈善会の趣意 書 ( がき ) を見ながら、駒子を手招きて、
「駒さん、何の話だったかい?」
「あのね、おかあさま、よくはわからなかッたけども、何だか幾の事ですわ」
「そう? 幾」
「あのね、川島の 老母 ( おばあさん ) がね、リュウマチで肩が痛んでね、それでこのごろは大層気むずかしいのですと。それにね、幾が 姉 ( ねえ ) さんにね、姉さんのお 部屋 ( へや ) でね、あの、奥様、こちらの御隠居様はどうしてあんなに 御癇癪 ( ごかんしゃく ) が出るのでございましょう、本当に奥様お 辛 ( つろ ) うございますねエ、でもお年寄りの事ですから、どうせ 永 ( なが ) い事じゃございません、てね、そんなに言いましたとさ。本当にばかですよ、幾はねエ、おかあさま」
「どこに行ってもいい事はしないよ。困った 姥 ( ばあ ) じゃないかねエ」
「それからねエ、おかあさま、ちょうどその時縁側を 老母 ( おばあさん ) が通ってね、すっかり聞いてしまッて、それはそれはひどく 怒 ( おこ ) ってね」
「 罰 ( ばち ) だよ!」
「怒ってね、それで姉さんが心配して、 飯田町 ( いいだまち ) の伯母様に相談してね」
「伯母様に!?」
「だッて姉さんは、いつでも伯母様にばかり何でも相談するのですもの」
夫人は 苦笑 ( にがわら ) いしつ。
「それから?」
「それからね、おとうさまが幾は別荘番にやるからッてね」
「そう」と額をいとど曇らしながら「それッきりかい?」
「それから、まだ聞くのでしたけども、ちょうど 毅一 ( きい ) さんが来て――」
六の一
武男が母は、名をお 慶 ( けい ) と言いて今年五十三、時々リュウマチスの起これど、そのほかは無病息災、 麹町上 ( こうじまちかみ ) 二 番町 ( ばんちょう ) の 邸 ( やしき ) より亡夫の眠る 品川 ( しながわ ) 東海寺 ( とうかいじ ) まで 徒歩 ( かち ) の往来容易なりという。体重は十九貫、公侯伯子男爵の 女性 ( にょしょう ) を通じて、 体格 ( がら ) にかけては 関脇 ( せきわき ) は確かとの評あり。しかしその肥大も実は五六年前 前 ( ぜん ) 夫 通武 ( みちたけ ) の病没したる後の事にて、その以前はやせぎすの色 蒼 ( あお ) ざめて、病人のようなりしという。されば 圧 ( お ) しつけられしゴム 球 ( まり ) の手を離されてぶくぶくと 膨 ( ふく ) れ上がる 類 ( たぐい ) にやという者もありき。
亡夫は 麑藩 ( げいはん ) の軽き城下 士 ( さむらい ) にて、お慶の縁づきて来し時は、 太閤 ( たいこう ) 様に少しましなる婚礼をなしたりしが、維新の風雲に際会して身を起こし、 大久保甲東 ( おおくぼこうとう ) に見込まれて久しく各地に 令尹 ( れいいん ) を務め、一時探題の名は世に聞こえぬ。しかも 特質 ( もちまえ ) のわがまま剛情が累をなして、明治政府に友少なく、浪子を 媒 ( なかだち ) せる加藤子爵などはその少なき友の一 人 ( にん ) なりき。甲東没後はとかく志を得ずして世をおえつ。男爵を得しも、実は生まれ所のよかりしおかげ、という者もありし。されば剛情者、わがまま者、 癇癪 ( かんしゃく ) 持ちの通武はいつも 怏々 ( おうおう ) として不平を 酒杯 ( さけ ) に漏らしつ。三合入りの大杯たてつけに五つも重ねて、赤鬼のごとくなりつつ、肩を 掉 ( ふ ) って県会に臨めば、議員に 顔色 ( がんしょく ) ある者少なかりしとか。さもありつらん。
されば川島家はつねに戒厳令の 下 ( もと ) にありて、家族は避雷針なき大木の下に夏住むごとく、戦々 兢々 ( きょうきょう ) として明かし暮らしぬ。父の 膝 ( ひざ ) をばわが舞踏 場 ( ば ) として、父にまさる遊び相手は世になきように幼き時より思い込みし武男のほかは、夫人の慶子はもとより 奴婢 ( ぬひ ) 出入りの者果ては居間の柱まで主人が 鉄拳 ( てっけん ) の味を知らぬ者なく、今は紳商とて世に知られたるかの山木ごときもこの 賜物 ( たまもの ) を 頂戴 ( ちょうだい ) して痛み入りしこともたびたびなりけるが、何これしきの下され物、もうけさして賜わると思えば、なあに 廉 ( やす ) い所得税だ、としばしば伺候しては 戴 ( いただ ) きける。右の通りの次第なれば、それ御前の 御機嫌 ( ごきげん ) がわるいといえば、台所の 鼠 ( ねずみ ) までひっそりとして、 迅雷 ( じんらい ) 一声奥より響いて耳の太き下女手に持つ 庖丁 ( ほうちょう ) 取り落とし、用ありて私宅へ来る属官などはまず裏口に回って 今日 ( きょう ) の天気予報を聞くくらいなりし。
三十年から連れ添う夫人お慶の身になっては、なかなかひと通りのつらさにあらず。嫁に来ての当座はさすがに 舅 ( しゅうと ) や 姑 ( しゅうとめ ) もありて夫の気質そうも覚えず過ごせしが、ほどなく姑舅と相ついで果てられし後は、夫の本性ありありと拝まれて、夫人も胸をつきぬ。初め五六 度 ( たび ) は夫人もちょいと 盾 ( たて ) ついて見しが、とてもむだと悟っては、もはや争わず、 韓信 ( かんしん ) 流に負けて 匍伏 ( ほふく ) し、さもなければ三十六計のその随一をとりて逃げつ。そうするうちにはちっとは呼吸ものみ込みて三度の事は二度で済むようになりしが、さりとて夫の気質は年とともに改まらず。末の三四年は別してはげしくなりて、不平が 煽 ( あお ) る無理酒の 焔 ( ほのお ) に、燃ゆるがごとき癇癪を、二十年の上もそれで鍛われし夫人もさすがにあしらいかねて、武男という子もあり、 鬢 ( びん ) に 白髪 ( しらが ) もまじれるさえ打ち忘れて、知事様の奥方男爵夫人と人にいわるる 栄耀 ( えいよう ) も物かは、いっそこのつらさにかえて 墓守爺 ( はかもり ) の 嬶 ( かか ) ともなりて世を楽に過ごして見たしという考えのむらむらとわきたることもありしが、そうこうする 間 ( ま ) につい三十年うっかりと過ごして、そのつれなき夫通武が目を 瞑 ( ねぶ ) って棺のなかに仰向けに 臥 ( ね ) し姿を見し時は、ほっと息はつきながら、さて偽りならぬ涙もほろほろとこぼれぬ。
涙はこぼれしが、息をつきぬ。息とともに勢いもつきぬ。夫通武存命の間は、その大きなる体と大きなる声にかき消されてどこにいるとも知れざりし夫人、奥の間よりのこのこ 出 ( い ) で来たり、見る見る家いっぱいにふくれ出しぬ。いつも主人のそばに肩をすぼめて細くなりて居し夫人を見し 輩 ( もの ) は、いずれもあきれ果てつ。もっとも西洋の学者の説にては、夫婦は永くなるほど 容貌 ( かおかたち ) 気質まで似て来るものといえるが、なるほど近ごろの夫人が物ごし格好、その濃き 眉毛 ( まゆげ ) をひくひく動かして、 煙管 ( きせる ) 片手に相手の顔をじっと見る様子より、 起居 ( たちい ) の荒さ、それよりも第一 癇癪 ( かんしゃく ) が似たとは愚か亡くなられし男爵そのままという者もありき。
江戸の 敵 ( かたき ) を長崎で 討 ( う ) つということあり。「世の中の事は概して江戸の敵を長崎で討つものなり。在野党の代議士今日議院に 慷慨 ( こうがい ) 激烈の演説をなして、盛んに政府を攻撃したもう。至極結構なれども、実はその 気焔 ( きえん ) の一半は、昨夜 宅 ( うち ) にてさんざんに 高利貸 ( アイスクリーム ) を 喫 ( く ) いたまいし 鬱憤 ( うっぷん ) と聞いて知れば、ありがた味も半ば減ずるわけなり。されば南シナ海の低気圧は 岐阜 ( ぎふ ) 愛知 ( あいち ) に洪水を起こし、タスカローラの陥落は三陸に 海嘯 ( かいしょう ) を見舞い、 師直 ( もろなお ) はかなわぬ恋のやけ腹を「物の用にたたぬ 能書 ( てかき ) 」に立つるなり。宇宙はただ平均、物は皆その平を求むるなり。しこうしてその平均を求むるに、 吝嗇者 ( りんしょくもの ) の 日済 ( ひなし ) を 督促 ( はた ) るように、われよりあせりて今戻せ 明日 ( あす ) 返せとせがむが 小人 ( しょうじん ) にて、いわゆる 大人 ( たいじん ) とは一切の勘定を 天道様 ( てんとうさま ) の銀行に任して、われは真一文字にわが分をかせぐ者ぞ」とある人情 博士 ( はかせ ) はのたまいける。
しかし 凡夫 ( ぼんぷ ) は平均を目の前に求め、その求むるや物体運動の法則にしたがいて、水の低きにつくがごとく、障害の少なき方に向かう。されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし 堪忍 ( かんにん ) の水門、夫の棺の 蓋 ( ふた ) 閉ずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。世に恐ろしと思う 一人 ( ひとり ) は、もはやいかに 拳 ( こぶし ) を伸ばすもわが 頭 ( こうべ ) には届かぬ遠方へ 逝 ( ゆ ) きぬ。今まで黙りて居しは 意気地 ( いくじ ) なきのにはあらず、夫死してもわれは生きたりと言い顔に、知らず知らず積みし貸し金、利に利をつけてむやみに手近の者に 督促 ( はた ) り始めぬ。その癇癪も、亡くなられし男爵は英雄 肌 ( はだ ) の人物だけ、迷惑にもまたどこやらに小気味よきところもありたるが、それほどの 力量 ( ちから ) はなしにわけわからず、狭くひがみてわがまま強き奥様より 出 ( い ) でては、ただただむやみにつらくて、奉公人は故男爵の時よりも泣きける。
浪子の姑はこの通りの人なりき。
六の二
丸髷 ( まるまげ ) を 揚巻 ( あげまき ) にかえしそのおりなどは、まだ「お嬢様、おやすくお 伴 ( とも ) いたしましょう」と見当違いの 車夫 ( くるまや ) に言われて、召使いの者に奥様と呼びかけられて返事にたゆとう事はなきようになれば、花嫁の心もまず少しは落ちつきて、 初々 ( ういうい ) しさ恥ずかしさの 狭霧 ( さぎり ) に 朦朧 ( ぼいやり ) とせしあたりのようすもようよう目に 分 ( わか ) たるるようになりぬ。
家ごとに変わるは家風、 御身 ( おんみ ) には言って聞かすまでもなけれど、構えて 実家 ( さと ) を背負うて 先方 ( さき ) へ行きたもうな、片岡浪は今日限り亡くなって今よりは川島浪よりほかになきを忘るるな。とはや晴れの衣装着て馬車に乗らんとする前に父の書斎に呼ばれてねんごろに言い聞かされしを忘れしにはあらねど、さて来て見れば、家風の相違も大抵の事にはあらざりけり。
資産 ( しんだい ) はむしろ 実家 ( さと ) にも 優 ( まさ ) りたらんか。新華族のなかにはまず 屈指 ( ゆびおり ) といわるるだけ、武男の父が久しく県令知事務めたる 間 ( ま ) に積みし 財 ( たから ) は 鉅万 ( きょまん ) に上りぬ。さりながら 実家 ( さと ) にては、父中将の名声 海内 ( かいだい ) に 噪 ( さわ ) ぎ、今は予備におれど交際広く、 昇日 ( のぼるひ ) の勢いさかんなるに引きかえて、こなたは武男の父通武が没後は、 存生 ( ぞんじょう ) のみぎり何かとたよりて来し大抵の 輩 ( やから ) はおのずから足を遠くし、その上 親戚 ( しんせき ) も少なく、知己とても多からず、 未亡人 ( おふくろ ) は人好きのせぬ方なる上に、これより家声を興すべき当主はまだ年若にて官等も 卑 ( ひく ) き家にあることもまれなれば、家運はおのずから 止 ( よど ) める水のごとき模様あり。 実家 ( さと ) にては、継母が派手な西洋好み、もちろん経済の講義は得意にて妙な所に節倹を行ない「奥様は 土産 ( みやげ ) のやりかたもご存じない」と 婢 ( おんな ) どもの陰口にかかることはあれど、そこは軍人 交際 ( づきあい ) の概して何事も派手に押し出してする方なるが、こなたはどこまでも昔風むしろ 田舎風 ( いなかふう ) の、よくいえば昔忘れぬたしなみなれど、実は趣味も理屈もやはり米から自分に 舂 ( つ ) いたる時にかわらぬ未亡人、何でもかでも自分でせねば頭が痛く、亡夫の時 僕 ( ぼく ) かなんぞのように使われし 田崎某 ( たざきなにがし ) といえる正直一図の男を執事として、これを相手に月に 薪 ( まき ) が何 把 ( ば ) 炭が何俵の勘定までせられ、「 母 ( おっか ) さん、そんな事しなくたって、菓子なら 風月 ( ふうげつ ) からでもお取ンなさい」と時たま帰って来て武男が言えど、やはり手製の 田舎羊羹 ( いなかようかん ) むしゃりむしゃりと 頬 ( ほお ) ばらるるというふうなれば、 姥 ( うば ) の幾が浪子について来しすら「 大家 ( たいけ ) はどうしても違うもんじゃ、武男が五器 椀 ( わん ) 下げるようにならにゃよいが」など常に当てこすりていられたれば、幾の排斥もあながち障子の外の立ち聞きゆえばかりではあらざりしなるべし。
悧巧 ( りこう ) なようでも十八の花嫁、まるきり違いし家風のなかに突然入り込みては、さすが事ごとに惑えるも無理にはあらじ。されども浪子は父の 訓戒 ( いましめ ) ここぞと、われを 抑 ( おさ ) えて何も家風に従わんと決心の 臍 ( ほぞ ) を固めつ。その決心を試むる機会は 須臾 ( すゆ ) に来たりぬ。
伊香保より帰りてほどなく、武男は遠洋航海におもむきつ。軍人の妻となる身は、留守がちは覚悟の上なれど、新婚間もなき別離はいとど 腸 ( はらわた ) を断ちて、その当座は手のうちの玉をとられしようにほとほと何も手につかざりし。
おとうさまが縁談の初めに 逢 ( あ ) いたもうて至極気に入ったとのたまいしも、添って見てげにと思い当たりぬ。 鷹揚 ( おうよう ) にして男らしく、さっぱりとして情け深く寸分 鄙吝 ( いや ) しい所なき、本当に若いおとうさまのそばにいるような、そういえば肩を揺すってドシドシお歩きなさる様子、子供のような笑い声までおとうさまにそっくり、ああうれしいと浪子は一心にかしずけば、武男も初めて持ちし妻というものの限りなくかわゆく、 独子 ( ひとりご ) の身は妹まで添えて得たらん 心地 ( ここち ) して「浪さん、浪さん」といたわりつ。まだ三月に足らぬ契りも、過ぐる世より相知れるように親しめば、しばしの 別離 ( わかれ ) もかれこれともに限りなき傷心の 種子 ( たね ) とはなりけるなり。さりながら浪子は 永 ( なが ) く 別離 ( わかれ ) を 傷 ( いた ) む暇なかりき。武男が出発せし後ほどもなく姑が持病のリュウマチスはげしく起こりて例の 癇癪 ( かんしゃく ) のはなはだしく、幾を 実家 ( さと ) へ戻せし後は、別して辛抱の力をためす機会も多かりし。
新入の学生、その当座は故参のためにさんざんにいじめられるれど、のちにはおのれ故参になりて、あとの新入生をいじめるが、何よりの楽しみなりと書きし人もありき。綿帽子 脱 ( と ) っての心細さ、たよりなさを覚えているほどの姑、義理にも嫁をいじめられるものでなけれど、そこは 凡夫 ( ぼんぷ ) のあさましく、花嫁の花落ちて、姑と名がつけば、さて手ごろの嫁は来るなり、わがままも出て、いつのまにかわがつい先年まで大の大の大きらいなりし姑そのままとなるものなり。「それそれその 衽 ( おくみ ) は四寸にしてこう返して、イイエそうじゃありません、こっちよこしなさい、 二十歳 ( はたち ) にもなッて、お嫁さまもよくできた、へへへへ」とあざ笑う声から目つき、われも 二十 ( はたち ) の花嫁の時ちょうどそうしてしかられしが、ああわれながら恐ろしいとはッと思って改むるほどの姑はまだ上の上、目にて目を償い、歯にて歯を償い、いわゆる江戸の姑のその 敵 ( かたき ) を長崎の嫁で 討 ( う ) って、知らず知らず平均をわが一代のうちに求むるもの少なからぬが世の中。浪子の姑もまたその 一人 ( ひとり ) なりき。
西洋流の継母に鍛われて、今また昔風の姑に 練 ( ね ) らるる浪子。病める 老人 ( としより ) の用しげく 婢 ( おんな ) を呼ばるるゆえ、しいて「わたくしがいたしましょう」と引き取ってなれぬこととて意に満たぬことあれば、こなたには礼を言いてわざと召使いの者を例の 大音声 ( だいおんじょう ) にしかり飛ばさるるその声は、十年がほども継母の雄弁冷語を聞き尽くしたる耳にも今さらのように聞こえぬ。それも初めしばしがほどにて、後には 癇癪 ( かんしゃく ) の 鋒 ( ほこさき ) 直接に 吾身 ( われ ) に向かうようになりつ。幾が去りし後は、たれ慰むる者もなく、時々はどうやらまた昔の日陰に立ち戻りし 心地 ( ここち ) もせしが、 部屋 ( へや ) に帰って机の上の銀の写真掛けにかかったたくましき海軍士官の 面影 ( おもかげ ) を見ては、うれしさ恋しさなつかしさのむらむらと込み上げて、そっと手にとり、食い入るようにながめつめ、キッスし、 頬 ( ほお ) ずりして、今そこにその人のいるように「早く帰ッてちょうだい」とささやきつ。 良人 ( おっと ) のためにはいかなる辛抱も楽しと思いて、われを捨てて姑に 事 ( つか ) えぬ。
七の一
先日のお手紙は佐世保にて落手、一読再読いたし候。母上リョウマチス、年来の御持病、誠に困りたる事に候。しかし今年は浪さんが控えられ候事ゆえ、小生も大きに安心に候。何とぞ小生に代わりてよくよく心を 御用 ( おんもち ) いくださるべく候。御病気の節は別して御気分よろしからざる方なれば、浪さんも定めていろいろと骨折らるべく 遙察 ( ようさつ ) いたし候。赤坂の方も定めておかわりもなかるべくと存じ申し候。加藤の伯父さんは相変わらず 木鋏 ( きばさみ ) が手を放れ申すまじきか。
幾姥 ( いくばあ ) は帰り候由。何ゆえに候や存ぜず候えども、実に残念の事どもに候。浪さんより 便 ( たより ) あらばよろしくよろしく伝えらるべく、帰りには 姥 ( ばあ ) へ沢山 土産 ( みやげ ) を持って来ると 御伝 ( おんつた ) えくだされたく候。実に愉快な女にて小生も大好きに候ところ、赤坂の方に帰りしは残念に候。浪さんも何かと不自由にさびしかるべくと存じ候。加藤の伯母様や 千鶴子 ( ちずこ ) さんは時々まいられ候や。
千々岩 ( ちぢわ ) はおりおりまいり候由。小生らは誠に親類少なく、千々岩はその少なき親類の一 人 ( にん ) なれば、母上も自然頼みに 思 ( おぼ ) す事に候。同人をよく 待 ( たい ) するも母上に孝行の一に 有之 ( これある ) べく候。同人も才気あり胆力ある男なれば、まさかの時の頼みにも相成るべく候。(下略)
香港にて
七月 日
武 男
お浪どの
当池には四五日 碇泊 ( ていはく ) 、食糧など買い入れ、それよりマニラを経て豪州シドニーへ、それよりニューカレドニア、フィジー諸島を経て、サンフランシスコへ、それよりハワイを経て帰国のはずに候。帰国は多分秋に相成り申すべく候。
手紙はサンフランシスコ日本領事館留め置きにして出したまえ。
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シドニー港内には夫婦、家族、他人交えずヨットに乗りて遊ぶ者多し。他日功成り名遂げて小生も浪さんも 白髪 ( しらが ) の 爺姥 ( じじばば ) になる時は、あにただヨットのみならんや、五千トンぐらいの汽船を 一艘 ( いっそう ) こしらえ、小生が船長となって、子供や孫を乗組員として世界週航を企て申すべく候。その節はこのシドニーにも来て、何十年 前 ( ぜん ) 血気盛りの海軍少尉の夢を白髪の浪さんに話し申すべく候(下略)
シドニーにて
八月 日
武 男 生
浪子さま
七の二
赤坂の方も何ぞかわり候事も 無之 ( これなく ) 先日より 逗子 ( ずし ) の別荘の方へ 一同 ( みなみな ) まいり加藤家も皆々 興津 ( おきつ ) の方へまいり東京はさびしきことに相成り参らせ候 幾 ( いく ) も一緒に逗子に 罷 ( まか ) り越し無事相つとめおり参らせ候 御伝言 ( おんことづけ ) の趣申しつかわし候ところ当人も涙を流して喜び申し候由くれぐれもよろしく 御 ( おん ) 礼申し上げ候よう申し越し参らせ候
わたくし事も今になりていろいろ勉強の足らざりしを 憾 ( うら ) み参らせ候 家政の事は女の本分なればよくよく心を用い候よう 平生 ( かねがね ) 父より戒められ候事とて宅におり候ころよりなるたけそのつもりにて 居 ( い ) 参らせ候えども何を申しても女のあさはかにそのような事はいつでもできるように思いいたずらに過ごし参らせ候より今となりてあの事も習って置けばよかりしこの事も忘れしと思いあたる事のみ多く困り入り参らせ候 英語の勉強も 御仰 ( おんおお ) せの 言 ( こと ) も 有之 ( これあり ) 候えばぜひにと心がけ参らせ候えども机の前にばかりすわり候ては母上様の 御思召 ( おぼしめし ) もいかがと存ぜられ今しばらくは何よりもまず家政のけいこに打ちかかり申したく何とぞ何とぞ 悪 ( あ ) しからず 思召 ( おぼしめし ) のほど願い上げ参らせ候
誠におはずかしき事に候えどもどうやらいたし候節はさびしさ悲しさのやる瀬なく早く早く早く 御 ( おん ) 目にかかりたく翼あらばおそばに飛んでも行きたく存じ参らせ候事も 有之 ( これあり ) 夜ごと日ごとにお写真とお 艦 ( ふね ) の写真を取り 出 ( い ) でてはながめ入り参らせ候 万国地理など学校にては何げなく 看過 ( みす ) ごしにいたし候ものの近ごろは忘れし地図など今さらにとりいでて今日はお 艦 ( ふね ) のこのあたりをや過ぎさせたまわん 明日 ( あす ) は 明後日 ( あさって ) はと鉛筆にて地図の上をたどり居参らせ候 ああ男に生まれしならば水兵ともなりて始終おそば離れずおつき申さんをなどあらぬ事まで心に浮かびわれとわが身をしかり候ても日々物思いに沈み参らせ候 これまで何心なく目もとめ申さざりし新聞の天気予報など今 在 ( いま ) すあたりはこのほかと知りながら風など警戒のいで候節は実に実に気にかかり参らせ候 何とぞ何とぞお 尊体 ( からだ ) を 御 ( おん ) 大切に……(下文略)
浪より
恋しき
武男様
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十月 日 浪より
恋しき恋しき恋しき
武男様
御もとへ
第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||