第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の四
床には琴、月琴、ガラス箱入りの大人形などを置きたり。すみには美しき女机あり、こなたには 姿見鏡 ( すがたみ ) あり。いかなる高貴の姫君や住みたもうらんと見てあれば、八畳のまんなかに絹ぶとん敷かせて、 玉蜀黍 ( とうもろこし ) の毛を 束 ( つか ) ねて結ったようなる島田を 大童 ( おおわらわ ) に振り乱し、ごろりと横に 臥 ( ふ ) したる十七八の娘、色白の 下豊 ( しもぶくれ ) といえばかあいげなれど、その 下豊 ( しもぶくれ ) が少し過ぎて 頬 ( ほお ) のあたりの肉今や落ちんかと危ぶまるるに、ちょっぽりとあいた口は閉ずるも面倒といい 貌 ( がお ) に始終 洞門 ( どうもん ) を形づくり、うっすりとあるかなきかの 眉 ( まゆ ) の下にありあまる肉をかろうじて二三 分 ( ぶ ) 上下 ( うえした ) に押し分けつつ開きし目のうちいかにも春がすみのかけたるごとく、前の世からの長き眠りがとんと今もってさめぬようなり。
今何かいいつけられて笑いを忍んで立って行く女の 背 ( せな ) に、「ばか」と一つ後ろ矢を射つけながら、 女 ( むすめ ) はじれったげに 掻巻 ( かいまき ) 踏みぬぎ、床の間にありし大形の―― 袴 ( はかま ) はきたる女生徒の多くうつれる写真をとりて、糸のごとき目にまばたきもせず見つめしが、やがてその 一人 ( ひとり ) の顔と覚しきあたりをしきりに 爪弾 ( つまはじ ) きしつ。なおそれにも飽き足らでや、 爪 ( つめ ) もてその顔の上に縦横に 疵 ( きず ) をつけぬ。
襖 ( ふすま ) の開く音。
「たれ? 竹かい」
「うん竹だ、頭の 禿 ( は ) げた竹だ」
笑いながら 枕 ( まくら ) べにすわるは、父の山木と母なり。娘はさすがにあわてて写真を押し隠し、起きもされず寝もされずといわんがごとく横になりおる。
「どうだ、お豊、気分は? ちっとはいいか? 今隠したのは何だい。ちょっと見せな、まあ見せな。これさ見せなといえば。――なんだ、こりア、浪子さんの顔じゃないか、ひどく爪かたをつけたじゃないか。こんな事するよりか 丑 ( うし ) の時参りでもした方がよっぽど気がきいてるぜ!」
「あんたまたそないな事を!」
「どうだ、お豊、 御身 ( おまえ ) も山木兵造の娘じゃないか。ちっと気を大きくして 山気 ( やまき ) を出せ、山気を出せ、あんなけちけちした男に心中立て――それもさこっちばかりでお相手なしの心中立てするよりか、こら、お豊、 三井 ( みつい ) か 三菱 ( みつびし ) 、でなけりゃア大将か総理大臣の 息子 ( むすこ ) 、いやそれよりか外国の皇族でも引っかける分別をしろ。そんな肝ッ玉の小せエ事でどうするものか。どうだい、お豊」
母の前では縦横に 駄々 ( だだ ) をこねたまえど、お豊姫もさすがに父の前をば 憚 ( はばか ) りたもうなり。突っ伏して答えなし。
「どうだ、お豊、やっぱり武男さんが恋しいか。いや困った 小浪 ( こなみ ) 御寮 ( ごりょう ) だ。小浪といえば、ねエお豊、ちっと気晴らしに京都にでも行って見んか。そらアおもしろいぞ。 祇園 ( ぎおん ) 清水 ( きよみず ) 知恩院 ( ちおんいん ) 、 金閣寺 ( きんかくじ ) 拝見がいやなら 西陣 ( にしじん ) へ行って、帯か三 枚襲 ( まいがさね ) でも見立てるさ。どうだ、あいた口に 牡丹餅 ( ぼたもち ) よりうまい話だろう。 御身 ( おまえ ) も久しぶりだ、お豊を連れて道行きと出かけなさい、なあおすみ」
「あんたもいっしょに行きなはるのかいな」
「おれ? ばかを言いなさい、この 忙 ( せわ ) しいなかに!」
「それならわたしもまあ見合わせやな」
「なぜ? 飛んだ義理立てさするじゃないか。なぜだい?」
「おほ」
「なぜだい?」
「おほほほほほ」
「気味の 悪 ( わり ) い笑い方をするじゃないか。なぜだい?」
「あんた 一人 ( ひとり ) の留守が心配やさかい」
「ばかをいうぜ。お豊の前でそんな事いうやつがあるものか。お豊、 母 ( おっか ) さんの言ってる 事 ( こた ) ア皆うそだぜ、 真 ( ま ) に受けるなよ」
「おほほほ。どないに口で言わはってもあかんさかいなア」
「ばかをいうな。それよりか――なお豊、気を広く持て、広く。待てば甘露じゃ。今におもしれエ事が出て来るぜ」
第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||