第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の三
千々岩を送り終わりて、山木が奥へ帰り入る時、かなたの 襖 ( ふすま ) すうと開きて、色白きただし髪薄くしてしかも前歯二本不行儀に 反 ( そ ) りたる四十あまりの女入り来たりて山木のそばに座を占めたり。
「千々岩さんはもうお帰り?」
「今追っぱらったとこだ。どうだい、 豊 ( とよ ) は?」
反歯 ( そっぱ ) の女はいとど顔を長くして「ほんまに 良人 ( あんた ) 。 彼女 ( あれ ) にも困り切りますがな。―― 兼 ( かね ) 、 御身 ( おまえ ) はあち 往 ( い ) っておいで。 今日 ( きょう ) もなあんた、ちいと何かが気に食わんたらいうて、お 茶碗 ( ちゃわん ) を投げたり、着物を裂いたりして、しようがありまへんやった。ほんまに十八という年をして――」
「いよいよもって 巣鴨 ( すがも ) だね。困ったやつだ」
「あんた、そないな 戯談 ( じょうだん ) どころじゃございませんがな。――でもかあいそうや、ほんまにかあいそうや、今日もな、あんた、 竹 ( たけ ) にそういいましたてね。ほんまに憎らしい武男はんや、ひどいひどいひどいひどい人や、去年のお正月には 靴下 ( くつした ) を編んであげたし、それからハンケチの縁を縫ってあげたし、それからまだ毛糸の手袋だの、腕ぬきだの、それどころか今年の御年始には赤い毛糸でシャツまで編んであげたに、 皆 ( みいな ) 自腹ア切ッて編んであげたのに、 何 ( なアん ) の 沙汰 ( さた ) なしであの不器量な 意地 ( いじ ) わるの威張った浪子はんをお嫁にもらったり、ほんまにひどい人だわ、ひどいわひどいわひどいわひどいわ、あたしも山木の 女 ( むすめ ) やさかい、浪子はんなんかに負けるものか、ほんまにひどいひどいひどいひどいッてな、あんた、こないに言って泣いてな。そないに思い込んでいますに、あああ、どうにかしてやりたいがな、あんた」
「ばかを言いなさい。勇将の 下 ( もと ) に弱卒なし。 御身 ( おまえ ) はさすがに豊が 母 ( おっか ) さんだよ。そらア川島だッて新華族にしちゃよっぽど財産もあるし、武男さんも 万更 ( まんざら ) ばかでもないから、おれもよほどお豊を入れ込もうと骨折って見たじゃないか。しかしだめで、もうちゃんと婚礼が済んで見れば、何もかも御破算さ。お浪さんが死んでしまうか、離縁にでもならなきゃア仕方がないじゃないか。それよりもばかな事はいい加減に思い切ッてさ、ほかに 嫁 ( かたづ ) く分別が肝心じゃないか、ばかめ」
「何が 阿呆 ( あほう ) かいな? はい、あんた見たいに利口やおまへんさかいな。 好年配 ( えいとし ) をして、 彼女 ( あれ ) や 此女 ( これ ) や 足袋 ( たび ) とりかえるような――」
「そう雄弁 滔々 ( とうとう ) まくしかけられちゃア困るて。 御身 ( おまえ ) は本当に 馬 ( ば ) ――だ。すぐむきになりよる。なにさ、おれだッて、お豊は子だもの、かあいがらずにどうするものか、だからさ、そんなくだらぬ繰り言ばっかり言ってるよりも、別にな、立派なとこに、な、生涯楽をさせようと思ってるのだ。さ、おすみ、来なさい、 二人 ( ふたり ) でちっと説諭でもして見ようじゃないか」
と夫婦打ち連れ、廊下伝いに娘お豊の 棲 ( す ) める 離室 ( はなれ ) におもむきたり。
山木兵造というはいずこの人なりけるにや、出所定かならねど、今は世に知られたる紳商とやらの一 人 ( にん ) なり。出世の初め、今は故人となりし武男が父の世話を受けしこと少なからざれば、今も川島家に出入りすという。それも川島家が新華族中にての財産家なるがゆえなりという者あれど、そはあまりに酷なる評なるべし。本宅を 芝桜川町 ( しばさくらがわちょう ) に構えて、別荘を橋場の渡しのほとりに持ち、昔は高利も貸しけるが、今はもっぱら陸軍その他官省の請負を業とし、嫡男を米国ボストンの商業学校に入れて、 女 ( むすめ ) お豊はつい先ごろまで華族女学校に通わしつ。妻はいついかにして持ちにけるや、ただ京都者というばかり、すこぶる醜きを、よくかの山木は辛抱するぞという人もありしが、実は意気 婀娜 ( あだ ) など形容詞のつくべき女諸処に 家居 ( いえい ) して、 輪番 ( かわるがわる ) 行く山木を待ちける由は妻もおぼろげならずさとりしなり。
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