第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
一の三
「やあ、くたびれた、くたびれた」
足袋 ( たび ) 草鞋 ( わらじ ) 脱 ( ぬ ) ぎすてて、出迎う 二人 ( ふたり ) にちょっと会釈しながら、廊下に上りて来し二十三四の洋服の男、 提燈 ( ちょうちん ) 持ちし若い者を見返りて、
「いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか」
「まあ、きれい!」
「本当にま、きれいな 躑躅 ( つつじ ) でございますこと! 旦那様、どちらでお採り遊ばしました?」
「きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉が 石楠 ( しゃくなげ ) に似とるだろう。 明朝 ( あす ) 浪 ( なみ ) さんに 活 ( い ) けてもらおうと思って、折って来たんだ。……どれ、すぐ湯に入って来ようか」
*
「本当に旦那様はお活発でいらっしゃいますこと! どうしても軍人のお方様はお違い遊ばしますねエ、奥様」
奥様は丁寧に 畳 ( たた ) みし 外套 ( がいとう ) をそっと 接吻 ( せっぷん ) して 衣桁 ( いこう ) にかけつつ、ただほほえみて無言なり。
階段 ( はしご ) も 轟 ( とどろ ) と上る足音障子の外に絶えて、「ああいい 心地 ( きもち ) !」と入り来る先刻の 壮夫 ( わかもの ) 。
「おや、旦那様もうお上がり遊ばして?」
「男だもの。あはははは」と快く笑いながら、妻がきまりわるげに 被 ( はお ) る 大縞 ( おおじま ) の 褞袍 ( どてら ) 引きかけて、「失敬」と座ぶとんの上にあぐらをかき、両手に 頬 ( ほお ) をなでぬ。 栗虫 ( くりむし ) のように肥えし五分刈り頭の、日にやけし顔はさながら熟せる桃のごとく、 眉 ( まゆ ) 濃く目いきいきと、鼻下にうっすり毛虫ほどの 髭 ( ひげ ) は見えながら、まだどこやらに幼な顔の残りて、ほほえまるべき男なり。
「あなた、お手紙が」
「あ、 乃舅 ( おとっさん ) だな」
壮夫 ( わかもの ) はちょいといずまいを直して、封を切り、なかを 出 ( いだ ) せば落つる別封。
「これは浪さんのだ――ふむ、お変わりもないと見える……はははは 滑稽 ( こっけい ) をおっしゃるな……お話を聞くようだ」 笑 ( えみ ) を含んで読み終えし手紙を巻いてそばに置く。
「おまえにもよろしく。場所が変わるから、持病の起こらぬように用心おしっておっしゃってよ」と「浪さん」は 饌 ( ぜん ) を運べる老女を顧みつ。
「まあ、さようでございますか、ありがとう存じます」
「さあ、飯だ、飯だ、 今日 ( きょう ) は握り飯二つで 終日 ( いちんち ) 歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。……ははは。こらあ何ちゅう 魚 ( さかな ) だな、 鮎 ( あゆ ) でもなしと……」
「 山女 ( やまめ ) とか申しましたっけ――ねエばあや」
「そう? うまい、なかなかうまい、それお代わりだ」
「ほほほ、旦那様のお早うございますこと」
「そのはずさ。今日は 榛名 ( はるな ) から 相馬 ( そうま ) が 嶽 ( たけ ) に上って、それから 二 ( ふた ) ツ 嶽 ( だけ ) に上って、 屏風岩 ( びょうぶいわ ) の下まで来ると迎えの者に会ったんだ」
「そんなにお歩き遊ばしたの?」
「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は 茫々 ( ぼうぼう ) たる平原さ、 利根 ( とね ) がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも 詠 ( よ ) めたら、ひとつ 人麿 ( ひとまろ ) と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
「そんなに 景色 ( けしき ) がようございますの。行って見とうございましたこと!」
「ふふふふ。浪さんが上れたら、 金鵄 ( きんし ) 勲章をあげるよ。そらあ 急嶮 ( ひど ) い山だ、 鉄鎖 ( かなぐさり ) が十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ 江田島 ( えたじま ) で鍛い上げたからだで、今でもすわというとマストでも 綱 ( リギング ) でもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい」
「まあ、あんな事を」にっこり顔をあからめ「これでも学校では体操もいたしましたし――」
「ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて、一方で『地球の上に国という 国 ( くうに ) は』何とか歌うと、 女生 ( みんな ) が扇を持って 起 ( た ) ったりしゃがんだりぐるり回ったりしとるから、踊りの 温習 ( さらい ) かと思ったら、あれが体操さ! あはははは」
「まあ、お口がお悪い!」
「そうそう。あの時山木の 女 ( むすめ ) と並んで、 垂髪 ( おさげ ) に 結 ( い ) って、ありあ何とか言ったっけ、 葡萄色 ( ぶどういろ ) の 袴 ( はかま ) はいて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ」
「ほほほほ、あんな 言 ( こと ) を! あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?」
「山木はね、うちの 亡父 ( おや ) が世話したんで、今に出入りしとるのさ。はははは、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね」
「あんな 言 ( こと ) !」
「おほほほほ。そんなに御夫婦げんかを遊ばしちゃいけません。さ、さ、お仲直りのお茶でございますよ。ほほほほ」
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