University of Virginia Library

一の一

  上州 ( じょうしゅう ) 伊香保千明 ( いかほちぎら ) の三階の 障子 ( しょうじ ) 開きて、 夕景色 ( ゆうげしき ) をながむる婦人。年は十八九。品よき 丸髷 ( まげ ) に結いて、草色の ( ひも ) つけし 小紋縮緬 ( こもんちりめん ) 被布 ( ひふ ) を着たり。

 色白の 細面 ( ほそおもて ) ( まゆ ) ( あわい ) ややせまりて、 ( ほお ) のあたりの肉寒げなるが、 ( きず ) といわば疵なれど、 瘠形 ( やさがた ) のすらりとしおらしき 人品 ( ひとがら ) 。これや 北風 ( ほくふう ) に一輪 ( つよ ) きを誇る梅花にあらず、また ( かすみ ) の春に 蝴蝶 ( こちょう ) と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。

 春の 日脚 ( ひあし ) の西に ( かたぶ ) きて、遠くは日光、 足尾 ( あしお ) 越後境 ( えちござかい ) の山々、近くは、 小野子 ( おのこ ) 子持 ( こもち ) 赤城 ( あかぎ ) の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい下の ( えのき ) 離れて 唖々 ( ああ ) と飛び行く ( からす ) の声までも 金色 ( こんじき ) に聞こゆる時、雲 二片 ( ふたつ ) 蓬々然 ( ふらふら ) と赤城の ( うしろ ) より浮かび ( ) でたり。三階の婦人は、そぞろにその 行方 ( ゆくえ ) をうちまもりぬ。

 両手 ( ゆた ) かにかき ( いだ ) きつべきふっくりとかあいげなる雲は、おもむろに赤城の ( いただき ) を離れて、さえぎる物もなき大空を相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、優々として足尾の ( かた ) へ流れしが、やがて日落ちて 黄昏 ( たそがれ ) 寒き風の立つままに、 二片 ( ふたつ ) の雲今は 薔薇色 ( ばらいろ ) ( うつろ ) いつつ、 上下 ( うえした ) に吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる 一片 ( ひとつ ) はさらに灰色に ( うつろ ) いて 朦乎 ( ぼいやり ) と空にさまよいしが、

 果ては山も空もただ 一色 ( ひといろ ) に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。