第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
六の二
手ずから茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら 煙管 ( きせる ) をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。
「なあ武どん、わたしももう 大分 ( だいぶ ) 弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。 昨日 ( きのう ) お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。年が寄ると何かと心細うなッて困いますよ――武どん、 卿 ( おまえ ) からだを大事にしての、病気をせん 様 ( ごと ) してくれんとないませんぞ」
葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれどさすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ「 私 ( わたくし ) は始終 外 ( ほか ) にいますし、何もかも 母 ( おっか ) さんが総理大臣ですからな――浪でも達者ですといいですが。あれも早くよくなって 母 ( おっか ) さんのお肩を休めたいッてそういつも言ってます」
「さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな」
「でも、大分 快方 ( いいほう ) になりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな」
「さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、武どん―― 医師 ( おいしゃ ) の話じゃったが、浪どんの 母御 ( かさま ) も、やっぱい肺病で 亡 ( な ) くなッてじゃないかの?」
「はあ、そんなことをいッてましたがね、しかし――」
「この病気は親から子に伝わッてじゃないかい?」
「はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く 感冒 ( かぜ ) から引き起こしたンですからね。なあに、 母 ( おっか ) さん用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな 健康 ( じょうぶ ) な 方 ( かた ) ですし、浪の妹――はああのお 駒 ( こま ) さんです――あれも肺のはの字もないくらいです。人間は 医師 ( いしゃ ) のいうほど弱いものじゃありません、ははははは」
「いいえ、笑い事じゃあいません」と母はほとほと 煙管 ( きせる ) をはたきながら
「病気のなかでもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。 卿 ( おまえ ) も知っとるはずじゃが、あの知事の 東郷 ( とうごう ) 、な、 卿 ( おまえ ) がよくけんかをしたあの 児 ( こ ) の 母御 ( かさま ) な、どうかい、あの 母 ( ひと ) が肺病で死んでの、 一昨年 ( おととし ) の四月じゃったが、その年の暮れに、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの 息子 ( むすこ ) さん――どこかの技師をしとったそうじゃがの――もやっぱい肺病でこのあいだ亡くなッた、な。みいな 母御 ( かさま ) のがうつッたのじゃ。まだこんな話が幾つもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」
母は煙管をさしおきて、少し 膝 ( ひざ ) をすすめ、黙して聞きおれる武男の横顔をのぞきつつ
「実はの、わたしもこの間から相談したいしたい思っ 居 ( お ) い申したが――」
少し言いよどんで、武男の顔しげしげとみつめ、
「浪じゃがの――」
「はあ?」
武男は顔をあげたり。
「浪を――引き取ってもろちゃどうじゃろの?」
「引き取る? どう引き取るのですか」
母は武男の顔より目をはなさず、「 実家 ( さと ) によ」
「 実家 ( さと ) に? 実家 ( さと ) で養生さすのですか」
「養生もしようがの、とにかく引き取って――」
「養生には 逗子 ( ずし ) がいいですよ。 実家 ( さと ) では子供もいますし、 実家 ( さと ) で養生さすくらいなら 此家 ( うち ) の方がよっぽどましですからね」
冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震い声に「武どん、 卿 ( おまえ ) 酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはな、浪を―― 実家 ( さと ) に戻すのじゃ」
「戻す? ……戻す? ――離縁ですな!!
」「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て
「 離縁 ( じえん ) 、そうじゃ、まあ 離縁 ( じえん ) よ」
「 離縁 ( りえん ) ! 離縁!!
――なぜですか」「なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」
「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」
「そうよ、かあいそうじゃがの――」
「離縁!!!
」武男の手よりすべり落ちたる葉巻は火鉢に落ちておびただしくうち 煙 ( けぶ ) りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。
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