第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
八の二
山木はわずかに口を開き、
「実は 今日 ( こんにち ) は川島家の 御名代 ( ごみょうだい ) でまかりいでましたので」
思いがけずといわんがごとく、主人の中将はその 体格 ( がら ) に似合わぬ細き目を山木が 面 ( おもて ) に注ぎつ。
「はあ?」
「実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが――まあ 私 ( わたくし ) がまかりいでました次第で」
「なるほど」
山木はしきりににじみ 出 ( い ) づる額の汗押しぬぐいて「実は加藤様からお話を願いたいと存じましたンでございますが、少し都合もございまして―― 私 ( わたくし ) がまかりいでました次第で」
「なるほど。で御要は?」
「その要と申しますのは、――申し兼ねますが、その実は 川島家 ( あちら ) の奥様浪子様――」
主人中将の目はまばたきもせずしばし 話者 ( あなた ) の 面 ( おもて ) を打ちまもりぬ。
「はあ?」
「その、 浪子様 ( わかおくさま ) でございますが、どうもかような事は実もって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあの御病気につきましては、手前ども――川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快い 方 ( かた ) ではございますが――まあおめでとうございますが――」
「なるほど」
「手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し 条 ( ぶん ) でございますが、実は御病気がらではございますし――御承知どおり川島の方でも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男―― 様 ( さん ) だけでございますンで、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうも実もって申しにくい――いかにも身勝手な話でございますが、御病気が御病気で、その、万一伝染――まあそんな事もめったにございますまいが――しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませンので、その、万一武男――川島の主人に異変でもございますと、まあ川島家も断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが、何分にもその、実もってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、御病気が御病気――」
言いよどみ言いそそくれて一句一句に額より汗を流せる山木が顔うちまもりて黙念と聞きいたる主人中将は、この時 右手 ( めて ) をあげ、
「よろしい。わかいました。つまり浪が病気が 険呑 ( けんのん ) じゃから、引き取ってくれと、おっしゃるのじゃな。よろしい。わかいました」
うなずきて、手もと近く燃えさがれる葉巻をテーブルの上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。
山木は踏み込めるぬかるみより手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。
「さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――」
「で、武男君はもう帰られたですな?」
「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは 同人 ( ほんにん ) 承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――」
「よろしい」
中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかに 笑坪 ( えつぼ ) に入りて目をあげたる山木は、目を閉じ口を結びてさながら 睡 ( ねぶ ) れるごとき中将の 相貌 ( かお ) を仰ぎて、さすがに一種の 畏 ( おそ ) れを覚えつ。
「山木 君 ( さん ) 」
中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。
「はッ」
「山木 君 ( さん ) 、あなたは子を持っておいでかな」
その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに 頭 ( かしら ) を下げつつ「はッ。 愚息 ( せがれ ) が 一人 ( ひとり ) に――娘が一人でございまして、何分お引き立てを――」
「山木 君 ( さん ) 、子というやつはかわい 者 ( もの ) じゃ」
「はッ?」
「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お 使者 ( つかい ) 御苦労じゃった」
使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒とわぶるにか、五つ六つ七八つ続けざまに小腰を 屈 ( かが ) めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰り入る書斎の戸をばはたと 閉 ( さ ) したり。
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