第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
八の一
山木が車赤坂 氷川町 ( ひかわちょう ) なる片岡中将の門を入れる時、あたかも英姿 颯爽 ( さっそう ) たる一将軍の 栗毛 ( くりげ ) の馬にまたがりつつ 出 ( い ) で来たれるが、車の駆け込みし 響 ( おと ) にふと驚きて、馬は 竿立 ( さおだ ) ちになるを、馬上の将軍は馬丁をわずらわすまでもなく、
※ ( たづな ) を絞りて容易に乗り静めつつ、一回圏を 画 ( えが ) きて、 戞々 ( かつかつ ) と歩ませ去りぬ。みごとの武者ぶりを見送りて、 声 ( こわ ) づくろいしていかめしき中将の玄関にかかれる山木は、幾多の権門をくぐりなれたる身の、常にはあるまじく 胆 ( たん ) 落つるを覚えつ。昨夜川島家に呼ばれて、その使命を託されし時も、 頭 ( かしら ) をかきつるが、今現にこの場に臨みては彼は実に大なりと誇れる 胆 ( きも ) のなお小にして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを 憾 ( うら ) みしなり。
名刺一たび入り、書生二たび 出 ( い ) でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には 清韓 ( しんかん ) の地図一葉広げられたるが、まだ清めもやらぬ 火皿 ( ひざら ) のマッチ 巻莨 ( シガー ) のからとともに、先座の話をほぼ 想 ( おも ) わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ、相ついで 海内 ( かいだい ) の注意一に朝鮮問題に集まれる 今日 ( きょう ) このごろは、主人中将も予備にこそおれおのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの 暇 ( いとま ) あるべくも思われず。
山木が 椅子 ( いす ) に 倚 ( よ ) りて、ぎょろぎょろあたりをながめおる時、遠雷の鳴るがごとき足音次第に近づきて、やがて小山のごとき人はゆるやかに入りて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて 起 ( た ) てる拍子に、わがかけて居し椅子をば後ろざまにどうと 蹴 ( け ) 倒しつ。「あっ、これは
疎※ ( そそう ) を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかる後二つ三つ四つ続けざまに主人に向かいて 叮重 ( ていちょう ) に辞儀をなしぬ。今の 疎忽 ( そこつ ) のわびも交れるなるべし。「さあ、どうかおかけください。あなたが山木 君 ( さん ) ――お名は承知しちょったですが」
「はッ。これは初めまして……手前は山木 兵造 ( ひょうぞう ) と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……」
避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句――しかる後中将は 言 ( ことば ) をあらためて、山木に来意を問いつ。
山木は口を開かんとしてまず 片唾 ( かたず ) をのみ、片唾をのみてまた片唾をのみ、三たび口を開かんとしてまた片唾をのみぬ。彼はつねに誇るその流滑自在なる舌の今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。
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