第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
七の二
「お嬢様、お奥でちょいといらッしゃいましッて」
と小間使いの竹が 襖 ( ふすま ) を明けて呼ぶ声に、今しも夕化粧を終えてまだ鏡の前を立ち去り兼ねしお豊は、 悠々 ( ゆうゆう ) とふりかえり
「あいよ。今行くよ。――ねエ竹や、ここンとこが」
と 鬢 ( びん ) をかいなでつつ「ちっとそそけちゃいないこと?」
「いいえ、ちっともそそけてはいませんよ。おほほほほ。お 化粧 ( つくり ) がよくできましたこと! ほほほほッ。ほれぼれいたしますよ」
「いやだよ、お世辞なんぞいッてさ」言いながらまた鏡をのぞいてにこりと笑う。
竹は口打ちおおいし 袂 ( たもと ) をとりて、 片唾 ( かたず ) を飲みつつ、
「お嬢様、お待ち兼ねでございますよ」
「いいよ、今行くよ」
ようやく思い切りし 体 ( てい ) にて鏡の前を離れつつ、ちょこちょこ走りに幾 間 ( ま ) か通りて、父の居間に入り行きたり。
「おお、お豊か。待っていた。ここへ来な来な。さ 母 ( おっか ) さんに代わって酌でもしなさい。おっと乱暴な 銚子 ( ちょうし ) の置き方をするぜ。茶の湯生け花のけいこまでした令嬢にゃ似合わンぞ。そうだそうだそう 山形 ( やまがた ) に置くものだ」
はや陶然と色づきし山木は、 妻 ( さい ) の留むるをさらに幾杯か重ねつつ「なあお 隅 ( すみ ) 、お豊がこう 化粧 ( おつくり ) した所は随分 別嬪 ( べっぴん ) だな。色は白し―― 姿 ( なり ) はよし。 内 ( うち ) じゃそうもないが、外に出りゃちょいとお世辞もよし。惜しい事には 母 ( おっか ) さんに 肖 ( に ) て少し 反歯 ( そっぱ ) だが――」
「あんた!」
「目じりをもう三 分 ( ぶ ) 上げると女っぷりが上がるがな――」
「あんた!」
「こら、お豊何をふくれるのだ? ふくれると 嬢 ( むすめ ) っぷりが下がるぞ。何もそう不景気な顔をせんでもいい、なあお豊。 卿 ( おまえ ) がうれしがる話があるのだ。さあ話賃に一杯 注 ( つ ) げ注げ」
なみなみと 注 ( つ ) がせし 猪口 ( ちょこ ) を一息にあおりつつ、
「なあお豊、今も 母 ( おっか ) さんと話したことだが、 卿 ( おまえ ) も知っとるが、武男さんの事だがの――」
むなしき 槽櫪 ( そうれき ) の間に 不平臥 ( ふてね ) したる馬の春草の 香 ( かんば ) しきを聞けるごとく、お豊はふっと 頭 ( かしら ) をもたげて両耳を引っ立てつ。
「 卿 ( おまえ ) が写真を引っかいたりしたもんだからとうとう浪子さんも 祟 ( たた ) られて――」
「あんた!」お隅夫人は三たび 眉 ( まゆ ) をひそめつ。
「これから本題に入るのだ。とにかく浪子さんが 病気 ( あんばい ) が悪い、というンで、まあ離縁になるのだ。いいや、まだ先方に談判はせん、浪子さんも知らんそうじゃが、とにかく近いうちにそうなりそうなのだ。ところでそっちの 処置 ( かた ) がついたら、そろそろ 後釜 ( あとがま ) の売りつけ――いやここだて、おれも 母 ( おっか ) さんも 卿 ( おまえ ) をな、まあお浪さんのあとに入れたいと思っているのだ。いや、そうすぐ――というわけにも行くまいから、まあ 卿 ( おまえ ) を小間使い、これさ、そうびっくりせんでもいいわ、まあ候補生のつもりで、行儀見習いという名義で、 川島家 ( あしこ ) に入り込ますのだ。――御隠居に頼んで、ないいかい、ここだて――」
一息つきて、山木は 妻 ( さい ) と娘の顔をかれよりこれと見やりつ。
「ここだて、なお豊。少し早いようだが――いって聞かして置く事があるがの。 卿 ( おまえ ) も知っとる通り、あの武男さんの 母 ( おっか ) さん――御隠居は、評判の 癇癪 ( かんしゃく ) 持ちの、わがまま者の、 頑固 ( がんこ ) の――おっと 卿 ( おまえ ) が 母 ( おっか ) さんを 悪口 ( あっこう ) しちゃ済まんがの――とにかくここにすわっておいでのこの 母 ( おっか ) さんのように――やさしくない人だて。しかし鬼でもない、 蛇 ( じゃ ) でもない、やっぱり人間じゃ。その呼吸さえ飲み込むと、鬼の
※ ( よめ ) でも 蛇 ( じゃ ) の女房にでもなれるものじゃ。なあに、あの隠居ぐらい、おれが女なら二日もそばへいりゃ豆腐のようにして見せる。――と自慢した所で、仕方ないが、実際あんな 老人 ( としより ) でも扱いようじゃ何でもないて。ところで、いいかい、お豊、 卿 ( おまえ ) がいよいよ先方へ、まあ小間使い兼細君候補生として入り込む時になると、第一今のようになまけていちゃならん、朝も早く起きて―― 老人 ( としより ) は目が早くさめるものじゃ――ほかの事はどうでもいいとして、御隠居の用をよく 達 ( た ) すのだ。いいかい。第二にはだ、今のように何といえばすぐふくれるようじゃいけない、何でもかでも負けるのだ。いいかい。しかられても負ける、無理をいわれても負ける、こっちがよけりゃなお負ける、な。そうすると 先方 ( むこう ) で折れて来る、な、ここがよくいう負けて勝つのだ。決して腹を立っちゃいかん、よしか。それから第三にはだ、――これは少し早過ぎるが、ついでだからいっとくがの、無事に婚礼が済んだッて、いいかい、決して武男さんと仲がよすぎちゃいけない。何さ、内々はどうでもいいが、 表面 ( おもてむき ) の所をよく注意しなけりゃいけんぜ。 姑御 ( しゅうとご ) にはなれなれしくさ、なるたけ近くして、婿殿にゃ姑の前で毒にならんくらいの 小悪口 ( わるくち ) もつくくらいでなけりゃならぬ。おかしいもンで、わが子の 妻 ( さい ) だから夫婦仲がいいとうれしがりそうなもんじゃが、実際あまりいいと姑の方ではおもしろく思わぬ。まあ一種の 嫉妬 ( しっと ) ――わがままだな。でなくも、あまり夫婦仲がいいと、自然姑の方が疎略になる――と、まあ姑の方では思うだな。浪子さんも一つはそこでやりそこなったかもしれぬ。仲がよすぎての――おッと、そう角が 生 ( は ) えそうな顔しちゃいけない、なあお豊、今いった負けるのはそこじゃぞ。ところで、いいかい、なるたけ注意して、この 女 ( こ ) は 真 ( ほん ) にわたしの ※ ( よめ ) だ、 子息 ( せがれ ) の 妻 ( さい ) じゃない、というように姑に感じさせなけりゃならん。 姑※ ( しゅうとよめ ) のけんかは大抵この若夫婦の仲がよすぎて、姑に孤立の感を起こさすから起こるのが多いて。いいかい、 卿 ( おまえ ) は御隠居の※だ、とそう思っていなけりゃならん。なあに御隠居が追っつけめでたくなったあとじゃ、武男さんの首ッ玉にかじりついて、ぶら下がッてあるいてもかまわンさ。しかし姑の前では、決して武男さんに横目でもつかっちゃならんぞ。まだあるが、それはいざ乗り込みの時にいって聞かす。この三か条はなかなか面倒じゃが、しかし 卿 ( おまえ ) も恋しい武男さんの奥方になろうというンじゃないか、辛抱が大事じゃぞ。 明日 ( あす ) といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」言葉のうちに、 襖 ( ふすま ) 開きて、小間使いの竹「御返事がいるそうでございます」
と一封の 女筆 ( にょひつ ) の手紙を差し 出 ( いだ ) しぬ。
封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙を 妻 ( さい ) と娘の目さきにひけらかしつつ
「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」
第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||