第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
五の二
「いや、一向 捗 ( はか ) がいきませんじゃ。金は使う、二月も三月もたったてようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。――こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあの通り子供――」
「そこでございますて、伯母 様 ( さん ) 、実に 小甥 ( わたくし ) もこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、――御恩になった 故叔父様 ( おじさん ) や叔母 様 ( さん ) に対しても、また武男君に対しても、このまま黙って見ていられないのです。実にいわば川島家の一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで――いや、叔母 様 ( さん ) 、この肺病という 病 ( やつ ) ばかりは恐ろしいもんですね、叔母 様 ( さん ) もいくらもご存じでしょう、 妻 ( さい ) の病気が夫に伝染して一家総だおれになるはよくある 例 ( ためし ) です、わたくしも武男君の上が心配でなりませんて、叔母 様 ( さん ) から少し御注意なさらんと大事になりますよ」
「そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい――」
手紙をとりて示しつつ「医者がどうの、やれ看護婦がどうしたの、――ばかが、 妻 ( さい ) の事ばかい」
千々岩はにやり笑いつ。「でも叔母 様 ( さん ) 、それは無理ですよ、夫婦に仲のよすぎるということはないものです。病気であって見ると、武男君もいよいよこらそうあるべきじゃありませんか」
「それじゃてて、 妻 ( さい ) が病気すッから親に不孝をすッ法はなかもんじゃ」
千々岩は慨然として嘆息し「いや実に困った事ですな。せっかく武男君もいい細君ができて、叔母 様 ( さん ) もやっと御安心なさると、すぐこんな事になって――しかし川島家の存亡は実に今ですね――ところでお浪さんの 実家 ( さと ) からは何か 挨拶 ( あいさつ ) がありましたでしょうな」
「挨拶、ふん、挨拶、あの 横柄 ( おうへい ) な 継母 ( かか ) が、ふんちっとばかい 土産 ( みやげ ) を持っての、言い訳ばかいの挨拶じゃ。加藤の 内 ( うち ) から二三度、来は来たがの――」
千々岩は再び 大息 ( たいそく ) しつ。「こんな時にゃ 実家 ( さと ) からちと気をきかすものですが、病人の娘を押し付けて、よくいられるですね。しかし利己主義が本尊の世の中ですからね、叔母 様 ( さん ) 」
「そうとも」
「それはいいですが、心配なのは武男君の健康です。もしもの事があったらそれこそ川島家は破滅です、――そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母 様 ( さん ) が 籬 ( かき ) をお結いなさるわけにも行きませんし――」
「そうじゃ」
「でも、このままになすっちゃ川島家の大事になりますし」
「そうとも」
「子供の言うようにするばかりが親の職分じゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね」
「そうじゃ」
「少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね」
「おおそうじゃ」
「それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底――」
「いや、そこじゃ」
膝乗り出して、がっくりと一つうなずける叔母のようすを見るより、千々岩は心の膝をうちて、翻然として話を転じつ。彼はその 注 ( つ ) ぎ込みし薬の見る見る回るを認めしのみならず、叔母の 心田 ( しんでん ) もとすでに一種子の落ちたるありて、いまだ 左右 ( とこう ) の顧慮におおわれいるも、その 土 ( ど ) を破りて芽ぐみ長じ花さき実るにいたるはただ時日の問題にして、その時日も勢いはなはだ長からざるべきを悟りしなりき。
その真質において悪人ならぬ武男が母は、浪子を愛せぬまでもにくめるにはあらざりき。浪子が家風、教育の異なるにかかわらず、なるべくおのれを 棄 ( す ) てて 姑 ( しゅうと ) に調和せんとするをば、さすがに母も知り、あまつさえそのある点において趣味をわれと同じゅうせるを感じて、口にしかれど心にはわが花嫁のころはとてもあれほどに届かざりしとひそかに思えることもありき。さりながら浪子がほとんど一月にわたるぶらぶら病のあと、いよいよ肺結核の忌まわしき名をつけられて、眼前に 喀血 ( かっけつ ) の恐ろしきを見るに及び、なおその病の少なからぬ費用をかけ時日を費やしてはかばかしき快復を見ざるを見るに及び、失望といわんか 嫌厭 ( けんえん ) と名づけんか自ら 分 ( わか ) つあたわざるある一念の心底に 生 ( は ) え 出 ( い ) でたるを覚えつ。彼を思い 出 ( い ) で、これを思いやりつつ、一種不快なる感情の胸中に
※醸 ( うんじょう ) するに従って、武男が母は 上 ( うわ ) うちおおいたる顧慮の一塊一塊融け去りてかの一念の驚くべき勢いもて日々長じ来たるを覚えしなり。千々岩は 分明 ( ぶんみょう ) に叔母が心の 逕路 ( けいろ ) をたどりて、これよりおりおり足を運びては、たださりげなく微雨軽風の両三点を放って、その顧慮をゆるめ、その 萌芽 ( ほうが ) をつちかいつつ、局面の近くに発展せん時を待ちぬ。そのおりおり武男の留守をうかがいて川島家に往来することのおぼろにほかに漏れしころは、千々岩はすでにその所作の大要をおえて、早くも舞台より足を抜きつつ、かの山木に向かい近きに起こるべき活劇の 予告 ( まえぶれ ) をなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。
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