第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の二
橋場の渡しのほとりなるとある水荘の門に 山木兵造 ( やまきひょうぞう ) 別邸とあるを見ずば、 某 ( なにがし ) の 待合 ( まちあい ) かと思わるべき 家作 ( やづく ) りの、しかも 音締 ( ねじ ) めの 響 ( おと ) しめやかに 婀娜 ( あだ ) めきたる島田の 障子 ( しょうじ ) に映るか、さもなくば 紅 ( くれない ) の 毛氈 ( もうせん ) 敷かれて 花牌 ( はなふだ ) など落ち散るにふさわしかるべき二階の 一室 ( ひとま ) に、わざと電燈の 野暮 ( やぼ ) を避けて例の 和洋行燈 ( あんどうらんぷ ) を据え、取り散らしたる杯盤の間に、あぐらをかけるは千々岩と今 一人 ( ひとり ) の赤黒子は問うまでもなき当家の主人山木兵造なるべし。
遠ざけにしや、そばに 侍 ( はんべ ) る女もあらず。赤黒子の前には小形の手帳を広げたり、鉛筆を添えて。番地官名など細かに肩書きして姓名 数多 ( あまた ) 記 ( しる ) せる上に、鉛筆にてさまざまの 符号 ( しるし ) つけたり。丸。四角。三角。イの字。ハの字。五六七などの数字。あるいはローマ数字。点かけたるもあり。ひとたび消してイキルとしたるもあり。
「それじゃ千々岩さん。その方はそれと決めて置いて、いよいよ 定 ( き ) まったらすぐ知らしてくれたまえ。――大丈夫間違はあるまいね」
「大丈夫さ、もう大臣の手もとまで出ているのだから。しかし何しろ 競争者 ( あいて ) がしょっちゅう運動しとるのだから例のも思い切って 撒 ( ま ) かんといけない。これだがね、こいつなかなか食えないやつだ。しッかり 轡 ( くつわ ) をかませんといけないぜ」と千々岩は手帳の上の 一 ( いつ ) の名をさしぬ。
「こらあどうだね?」
「そいつは話せないやつだ。僕はよくしらないが、ひどく 頑固 ( がんこ ) なやつだそうだ。まあ正面から平身低頭でゆくのだな。悪くするとしくじるよ」
「いや陸軍にも、わかった人もあるが、実に話のできン男もいるね。去年だった、師団に服を納めるンで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのはよかッたが。あら何とか言ッたッけ、 赤髯 ( あかひげ ) の大佐だったがな、そいつが何のかの難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、ばかめ、 賄賂 ( わいろ ) なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、とどのつまりあ菓子箱を 蹴 ( け ) 飛ばしたと思いなさい。例の 上層 ( うえ ) が干菓子で、下が 銀貨 ( しろいの ) だから、たまらないさ。 紅葉 ( もみじ ) が散る雪が降る、座敷じゅう――の雨だろう。するとそいつめいよいよ腹あ立てやがッて、汚らわしいの、やれ告発するのなんのぬかしやがるさ。やっと 結局 ( まとめ ) をつけはつけたが、大骨折らしアがッたね。こんな先生がいるからばかばかしく事が面倒になる。いや面倒というと武男さんなぞがやっぱりこの流で、実に話せないに困る。こないだも――」
「しかし武男なんざ 親父 ( おやじ ) が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だッて正直だッて好きなまねしていけるのだがね。 吾輩 ( ぼく ) のごときは腕一本――」
「いやすっかり忘れていた」と赤黒子はちょいと千々岩の顔を見て、懐中より十円 紙幣 ( さつ ) 五枚取り 出 ( いだ ) し「いずれ何はあとからとして、まあ車代に」
「遠慮なく 頂戴 ( ちょうだい ) します」手早くかき集めて 内 ( うち ) ポケットにしまいながら「しかし山木さん」
「?」
「なにさ、 播 ( ま ) かぬ種は 生 ( は ) えんからな!」
山木は 苦笑 ( にがわら ) いしつ。千々岩が肩ぽんとたたいて「食えン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長ぐらいに!」
「はははは。山木さん、 清正 ( きよまさ ) の短刀は子供の三尺三寸よりか切れるぜ」
「うまく言ったな――しかし君、 蠣殻町 ( かきがらちょう ) だけは用心したまえ、 素人 ( しろうと ) じゃどうしてもしくじるぜ」
「なあに、 端金 ( はしたがね ) だからね――」
「じゃいずれ近日、様子がわかり次第――なに、車は出てから乗った方が大丈夫です」
「それじゃ――家内も 御挨拶 ( ごあいさつ ) に出るのだが、娘が手離されんでね」
「お 豊 ( とよ ) さんが? 病気ですか」
「実はその、何です。この一月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて 此家 ( ここ ) へ来ているですて。いや千々岩さん、 妻 ( かか ) だの子だの滅多に持つもんじゃないね。金もうけは独身に限るよ。はッははは」
主人 ( あるじ ) と 女中 ( おんな ) に玄関まで見送られて、千々岩は山木の別邸を 出 ( い ) で行きたり。
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