第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
三の三
武男が去りしあとに、浪子は 千々岩 ( ちぢわ ) と一間ばかり離れて無言に立ちたり。やがて谷を 渉 ( わた ) りてかなたの坂を上り果てし武男の姿小さく見えたりしが、またたちまちかなたに向かいて消えぬ。
「浪子さん」
かなたを望みいし浪子は、耳もと近き声に呼びかけられて思わず身を震わしたり。
「浪子さん」
一歩近寄りぬ。
浪子は二三歩引き下がりて、余儀なく顔をあげたりしが、例の黒水晶の目にひたとみつめられて、わき向きたり。
「おめでとう」
こなたは無言、耳までさっと 紅 ( くれない ) になりぬ。
「おめでとう。イヤ、おめでとう。しかしめでたくないやつもどこかにいるですがね。へへへへ」
浪子はうつむきて、 杖 ( つえ ) にしたる 海老色 ( えびいろ ) の 洋傘 ( パラソル ) のさきもてしきりに草の根をほじりつ。
「浪子さん」
蛇 ( へび ) にまつわらるる 栗鼠 ( りす ) の今は是非なく顔を上げたり。
「何でございます?」
「男爵に金、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう」
「何をおっしゃるのです?」
「へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても 唾 ( つばき ) もひッかけん、ね、これが 当今 ( いま ) の 姫御前 ( ひめごぜ ) です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね」
浪子もさすがに血相変えてきっと千々岩をにらみたり。
「何をおっしゃるンです。失敬な。も一度武男の 目前 ( まえ ) で言ってごらんなさい。失敬な。男らしく父に相談もせずに、無礼千万な 艶書 ( ふみ ) を 吾 ( ひと ) にやったりなンぞ……もうこれから決して容赦はしませぬ」
「何ですと?」千々岩の額はまっ暗くなり来たり、 唇 ( くちびる ) をかんで、一歩二歩寄らんとす。
だしぬけにいななく声 足下 ( あしもと ) に起こりて、馬上の半身坂より上に見え来たりぬ。
「ハイハイハイッ。お邪魔でがあすよ。ハイハイハイッ」と馬上なる六十あまりの 老爺 ( おやじ ) 、 頬被 ( ほおかぶ ) りをとりながら、怪しげに 二人 ( ふたり ) のようすを見かえり見かえり行き過ぎたり。
千々岩は立ちたるままに、動かず。額の 条 ( すじ ) はややのびて、結びたる唇のほとりに冷笑のみぞ浮かびたる。
「へへへへ、御迷惑ならお返しなさい」
「何をですか?」
「何が何をですか、おきらいなものを!」
「ありません」
「なぜないのです」
「汚らわしいものは焼きすててしまいました」
「いよいよですな。別に見た者はきっとないですか」
「ありません」
「いよいよですか」
「失敬な」
浪子は 忿然 ( ふんぜん ) として放ちたる眼光の、彼がまっ黒き目のすさまじきに見返されて、不快に 得堪 ( えた ) えずぞっと震いつつ、はるかに目をそらしぬ。あたかもその時谷を隔てしかなたの坂の口に武男の姿見え来たりぬ。顔一点 棗 ( なつめ ) のごとくあかく夕日にひらめきつ。
浪子はほっと息つきたり。
「浪子さん」
千々岩は懲りずまにあちこち 逸 ( そ ) らす浪子の目を追いつつ「浪子さん、 一言 ( ひとこと ) いって置くが、秘密、 何事 ( なに ) も秘密に、な、武男君にも、御両親にも。で、なけりゃ――後悔しますぞ」
電 ( いなずま ) のごとき眼光を浪子の 面 ( おもて ) に射つつ、千々岩は身を転じて、 俛 ( ふ ) してそこらの草花を摘み集めぬ。
靴音 ( くつおと ) 高く、ステッキ打ち振りつつ坂を上り来し武男「失敬、失敬。あ苦しい、走りずめだッたから。しかしあったよ、ステッキは。――う、浪さんどうかしたかい、ひどく 顔色 ( いろ ) が悪いぞ」
千々岩は今摘みし 菫 ( すみれ ) の花を胸の 飾紐 ( ひも ) にさしながら、
「なに、浪子さんはね、君があまりひま取ったもンだから、おおかた 迷子 ( まいご ) になったンだろうッて、ひどく心配しなすッたンさ。はッはははは」
「あはははは。そうか。さあ、そろそろ帰ろうじゃないか」
三人 ( みたり ) の影法師は相並んで道べの草に 曳 ( ひ ) きつつ伊香保の 片 ( かた ) に行きぬ。
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