University of Virginia Library

三の一

 伊香保より 水沢 ( みさわ ) 観音 ( かんのん ) まで一里あまりの間は、 一条 ( ひとすじ ) の道、 ( へび ) のごとく 禿山 ( はげやま ) の中腹に沿うてうねり、ただ二か所ばかりの山の裂け目の谷をなせるに陥りてまた ( ) い上がれるほかは、目をねむりても行かるべき道なり。下は 赤城 ( あかぎ ) より 上毛 ( じょうもう ) の平原を見晴らしつ。ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒める土より、さまざまの草 ( かや ) ( はぎ ) 桔梗 ( ききょう ) 女郎花 ( おみなえし ) の若芽など、 ( ) ( ) でて 毛氈 ( もうせん ) を敷けるがごとく、美しき草花その間に咲き乱れ、綿帽子着た 銭巻 ( ぜんまい ) 、ひょろりとした ( わらび ) 、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば春の日の ( なが ) きも忘るべき所なり。

  武男 ( たけお ) 夫婦は、 今日 ( きょう ) の晴れを 蕨狩 ( わらびが ) りすとて、 ( うば ) ( いく ) と宿の女中を 一人 ( ひとり ) つれて、 午食後 ( ひるご ) よりここに来つ。はやひとしきり採りあるきて、少しくたびれが来しと見え、女中に持たせし 毛布 ( けっと ) を草のやわらかなるところに敷かせて、武男は ( くつ ) ばきのままごろりと横になり、 浪子 ( なみこ ) 麻裏草履 ( あさうら ) を脱ぎ 桃紅色 ( ときいろ ) のハンケチにて二つ三つ ( ひざ ) のあたりをはらいながらふわりとすわりて、

 「おおやわらか! もったいないようでございますね」

 「ほほほお嬢――あらまた、御免遊ばせ、お奥様のいいお 顔色 ( いろ ) におなり遊ばしましたこと! そしてあんなにお唱歌なんぞお歌い遊ばしましたのは、本当にお久しぶりでございますねエ」と幾はうれしげに浪子の横顔をのぞく。

 「あんまり歌ってなんだか ( かわ ) いて来たよ」

 「お茶を持ってまいりませんで」と女中は 風呂敷 ( ふろしき ) 解きて 夏蜜柑 ( なつみかん ) 、袋入りの 乾菓子 ( ひがし ) 、折り詰めの 巻鮓 ( まきずし ) など取り出す。

 「何、これがあれば茶はいらんさ」と武男はポッケットよりナイフ取り出して蜜柑をむきながら「どうだい浪さん、僕の手ぎわには驚いたろう」

 「あんな ( こと ) をおっしゃるわ」

 「 旦那 ( だんな ) 様のおとり遊ばしたのには、

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杪※ ( へご ) がどっさりまじっておりましてございますよ」と、女中が口を出す。

 「ばかを言うな。負け惜しみをするね。ははは。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか」

 「きれいな空ですこと、 碧々 ( あおあお ) して、本当に 小袖 ( こそで ) にしたいようでございますね」

 「水兵の服にはなおよかろう」

 「おおいい ( かおり ) ! 草花の香でしょうか、あ、 雲雀 ( ひばり ) が鳴いてますよ」

 「さあ、お ( すし ) をいただいてお ( なか ) ができたから、もうひとかせぎして来ましょうか、ねエ女中さん」と ( うば ) の幾は宿の女を促し立てて、また蕨採りにかかりぬ。

 「すこし残しといてくれんとならんぞ―― ( まめ ) ( ばあ ) じゃないか、ねエ浪さん」

 「本当に ( まめ ) でございますよ」

 「浪さん、くたびれはしないか」

 「いいえ、ちっとも今日は疲れませんの、わたくしこんなに楽しいことは始めて!」

 「遠洋航海なぞすると随分いい 景色 ( けしき ) を見るが、しかしこんな高い山の見晴らしはまた別だね。実にせいせいするよ。そらそこの左の方に白い壁が 閃々 ( ちらちら ) するだろう。あれが来がけに浪さんと昼飯を食った 渋川 ( しぶかわ ) さ。それからもっとこっちの ( あお ) いリボンのようなものが 利根川 ( とねがわ ) さ。あれが 坂東太郎 ( ばんどうたろう ) た見えないだろう。それからあの、 赤城 ( あかぎ ) の、こうずうと ( たれ ) とる、それそれ煙が見えとるだろう、あの下の方に何だかうじゃうじゃしてるね、あれが 前橋 ( まえばし ) さ。何? ずっと向こうの銀の ( びん ) のようなの? そうそう、あれはやっぱり利根の流れだ。ああもう先はかすんで見えない。両眼鏡を持って来るところだったねエ、浪さん。しかし ( かすみ ) がかけて、先がはっきりしないのもかえっておもしろいかもしれん」

 浪子はそっと武男の ( ひざ ) に手を投げて 溜息 ( といき ) つき

 「いつまでもこうしていとうございますこと!」

 「黄色の蝶二つ浪子の袖をかすめてひらひらと飛び行きしあとより、さわさわと草踏む音して、帽子かぶりし影法師だしぬけに夫婦の 眼前 ( めさき ) に落ち来たりぬ。

 「武男君」

 「やあ!  千々岩 ( ちぢわ ) 君か。どうしてここに?」