第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
五の二
「おう、帰ったか」
いかにもゆったりとその便々たる腹の底より押しあげたようなる 乙音 ( ベース ) を発しつつ、中将はにっこりと 笑 ( え ) みて、その重やかなる手して右に水兵の肩をたたき、左に振り分け髪のその前髪をかいなでつ。
「どうだ、小試験は? でけたか?」
「僕アね、僕アね、おとうさま、僕ア算術は甲」
「あたしね、おとうさま、 今日 ( きょう ) は縫い取りがよくできたッて先生おほめなすッてよ」
と振り分け髪はふところより幼稚園の 製作物 ( こしらえもの ) を取り 出 ( いだ ) して中将の膝の上に置く。
「おう、こら立派にでけたぞ」
「それからね、習字に読書が乙で、あとはみんな丙なの、とうと 水上 ( みなかみ ) に負けちゃッた。僕アくやしくッて仕方がないの」
「勉強するさ――今日は修身の話は何じゃッたか?」
水兵は快然と 笑 ( え ) みつつ、「今日はね、おとうさま、 楠正行 ( くすのきまさつら ) の話よ。僕正行ア大好き。正行とナポレオンはどっちがエライの?」
「どっちもエライさ」
「僕アね、おとうさま、正行ア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ア海軍になるンだ」
「はははは。川島の 兄君 ( にいさん ) の 弟子 ( でし ) になるのか?」
「だッて、川島の 兄君 ( にいさん ) なんか少尉だもの。僕ア中将になるンだ」
「なぜ大将にやならンか?」
「だッて、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま」
「少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ」
「あたしね、おとうさま、おとうさまてばヨウおとうさま」と振り分け髪はつかまりたる中将の膝を 頡頏台 ( はねだい ) にしてからだを 上下 ( うえした ) に揺すりながら、「今日はね、おもしろいお話を聞いてよ、あの 兎 ( うさぎ ) と 亀 ( かめ ) のお話を聞いてよ、言って見ましょうか、――ある所に一ぴきの兎と亀がおりました――あらおかあさまいらッしてよ」
柱時計の午後 二点 ( にじ ) をうつ拍子に、入り来たりしは三十八九の 丈 ( たけ ) 高き婦人なり。束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、 隆 ( たか ) き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目少しく釣りて、どこやらちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり 刷 ( は ) きて、 唇 ( くちびる ) をまれに漏るる歯はまばゆきまで 皓 ( しろ ) くみがきぬ。パッとしたお召の 単衣 ( ひとえ ) に 黒繻子 ( くろじゅす ) の丸帯、左右の指に 宝石 ( たま ) 入りの金環 価 ( あたえ ) 高かるべきをさしたり。
「またおとうさまに甘えているね」
「なにさ、今学校の成績を聞いてた所じゃ。――さあ、これからおとうさんのおけいこじゃ。みんな外で遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ」
「まあ、うれしい」
「万歳!」
両児 ( ふたり ) は 嬉々 ( きき ) として、互いにもつれつ、からみつ、前になりあとになりて、室を 出 ( い ) で去りしが、やがて「万歳!」「 兄 ( にい ) さまあたしもよ」と叫ぶ声はるかに聞こえたり。
「どんなに申しても、 良人 ( あなた ) はやっぱり甘くなさいますよ」
中将はほほえみつ。「何、そうでもないが、子供はかあいがッた方がいいさ」
「でもあなた、厳父慈母と俗にも申しますに、あなたがかあいがッてばかりおやンなさいますから、ほんとに逆さまになッてしまッて、わたくしは始終しかり通しで、 悪 ( にく ) まれ役はわたくし 一人 ( ひとり ) ですわ」
「まあそう 短兵急 ( たんぺいきゅう ) に攻めンでもええじゃないか。どうかお手柔らかに――先生はまずそこにおかけください。はははは」
打ち笑いつつ中将は立ってテーブルの上よりふるきローヤルの第三 読本 ( リードル ) を取りて、 片唾 ( かたず ) をのみつつ、 薩音 ( さつおん ) まじりの怪しき英語を読み始めぬ。静聴する婦人――夫人はしきりに発音の誤りを正しおる。
こは中将の日課なり。維新の騒ぎに一介の武夫として身を起こしたる子爵は、身生の
※忙 ( そうぼう ) に 逐 ( お ) われて外国語を修むるのひまもなかりしが、昨年来予備となりて少し閑暇を得てければ、このおりにとまず英語に攻めかかれるなり。教師には手近の夫人 繁子 ( しげこ ) 。長州の名ある 士人 ( さむらい ) の娘にて、久しく英国ロンドンに留学しつれば、英語は大抵の男子も及ばぬまで達者なりとか。げにもロンドンの 煙 ( けむ ) にまかれし夫人は、何事によらず洋風を重んじて、家政の整理、子供の教育、皆わが洋のほかにて見もし聞きもせし通りに行わんとあせれど、事おおかたは志と 違 ( たが ) いて、 僕婢 ( おとこおんな ) は陰にわが世なれぬをあざけり、子供はおのずから寛大なる父にのみなずき、かつ 良人 ( おっと ) の何事も 鷹揚 ( おうよう ) に東洋風なるが、まず夫人不平の 種子 ( たね ) なりけるなり。中将が千辛万苦して一ページを読み終わり、まさに訳読にかからんとする所に、 扉 ( と ) 翻りて 紅 ( くれない ) のリボンかけたる 垂髪 ( さげがみ ) の――十五ばかりの 少女 ( おとめ ) 入り来たり、中将が大の手に 小 ( ち ) さき読本をささげ読めるさまのおかしきを、ほほと笑いつ。
「おかあさま、 飯田町 ( いいだまち ) の 伯母 ( おば ) 様がいらッしゃいましてよ」
「そう」と見るべく見るべからざるほどのしわを 眉 ( まゆ ) の間に寄せながら、ちょっと中将の顔をうかがう。
中将はおもむろにたち上がりて、椅子を片寄せ「こちへ御案内申しな」
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