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平家物語卷第九
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9. 平家物語卷第九

生食之沙汰

壽永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院なれば、御所の體しかるべからずとて、禮儀行はるべきにあらねば拜禮もなし。院の拜禮無りければ、内裏の小朝拜もおこなはれず。平家は讃岐國八島の磯におくり迎へて、年のはじめなれども元旦元三の儀式事宜からず、主上わたらせ給へども、節會も行はれず、四方拜もなし。はらか魚も奏せず。吉野のくずも參らず。「世亂れたりしかども都にてはさすがかくは無りし者を。」とぞ、各宣ひあはれける。青陽の春も來り、浦吹く風もやはらかに、日影も長閑に成行けど、唯平家の人々は、いつも氷に閉籠られたる心地して、寒苦鳥に異ならず。東岸西岸の柳遲速を交へ、南枝北枝の梅開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠、小弓、扇合、繪合、草盡、蟲盡、樣々興有し事ども思出で語りつゞけて、永き日を暮しかね給ふぞ哀なる。

同正月十一日、木曾左馬頭義仲院參して、平家追討の爲に、西國へ發向すべき由奏聞す。同十三日既に門出と聞えし程に、東國より前兵衞佐頼朝、木曾が狼藉鎭んとて、數萬騎の軍兵を差上せられける。既に美濃國伊勢國に著と聞えしかば、木曾大に驚き、宇治勢田の橋を引いて、軍兵どもを分ち遣す。折節勢も無りけり。勢田の橋は、大手なればとて、今井四郎兼平、八百餘騎で差遣す。宇治橋へは、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎でつかはす。芋洗へは、伯父の志太三郎先生義教、三百餘騎で向けり。東國より攻上る大手の大將軍は、蒲の御曹司範頼、搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、むねとの大名三十餘人、都合其勢六萬餘騎とぞ聞えし。其比鎌倉殿にいけずき摺墨といふ名馬あり。いけずきをば梶原源太景頻に望み申けれども、鎌倉殿「自然の事あらん時、物具して頼朝がのるべき馬なり。する墨も劣ぬ名馬ぞ。」とて、梶原にはする墨をこそ給だりけれ。

佐々木四郎高綱が暇申に參たりけるに、鎌倉殿如何思食されけん、「所望の者はいくらもあれども、存知せよ。」とて、いけずきをば佐々木に給ぶ。佐々木畏て申けるは「高綱此御馬で、宇治川の眞先渡し候べし。宇治河で死で候ときこしめし候はゞ、人に先をせられてけりと思食し候へ。未だ生て候と聞食され候はゞ、定めて先陣はしつらんものをと思食され候へ。」とて、御前を罷り立つ。參會したる大名小名皆「荒凉の申樣哉。」とささやきあへり。

各鎌倉を立て、足柄を歴て行もあり、箱根にかゝる人もあり、思ひ/\に上る程に、駿河國浮島原にて梶原源太景季、高き所に打上り、暫しひかへて、多の馬共を見ければ、思ひ/\の鞍置て、いろ/\の鞦かけ、或は乘り口に引かせ、或はもろ口に引かせ、幾千萬といふ數を知らず、引き通し/\しける中にも、景季が給はたるするすみに、勝る馬こそ無かりけれと、嬉しう思ひて見る處に、いけずきとおぼしき馬こそ出來たれ。

金覆輪の鞍置て、小總の鞦懸け、白沫かませ、舎人あまた附たりけれども、猶引もためず躍らせて出きたり。梶原源太打寄て、「其れは誰が御馬ぞ。」「佐々木殿の御馬候。」其時梶原「安からぬ者なり。おなじやうにめしつかはるゝ景季を佐々木におぼしめしかへられけるこそ遺恨なれ。都へ上て木曾殿の御内に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯、根井に組んで死ぬるか、然らずば西國へ向うて、一人當千と聞る平家の侍共と軍して死なんとこそ思つれども、此御氣色では、それも詮なし。爰で佐々木に引組み刺違へ、好い侍二人死で兵衞佐殿に損とらせ奉らん。」とつぶやいてこそ待懸たれ。佐々木四郎は何心もなく歩せて出來たり。梶原押竝べてやくむ、向うざまにやあて落すと思ひけるが、先詞を懸けり。「いかに佐々木殿、いけずき給はらせ給てさうな。」と言ひければ、佐々木「あはれ此仁も内々所望すると聞し物を。」ときと思ひ出して、「さ候へばこそ此御大事にのぼり候が、定て宇治勢田の橋をばひいて候らん。乘て河渡すべき馬はなし。いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも御許れないと承はる間、まして高綱が申すにもよも給らじと思つゝ後日には如何なる御勘當も有ばあれと存じて、曉立んとての夜、舎人に心をあはせて、さしも御秘藏候いけずきを盗みすまいて上りさうはいかに。」と言ひければ、梶原此詞に腹がゐて、「ねたい、さらば景季も竊むべかりける者を。」とて、どと笑て退にけり。

宇治川先陣

佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、究めて太う逞いが、馬をも人をも傍をはらて食ければ、生食と附られたり。八寸の馬とぞ聞えし。梶原が給たる摺墨も、究めて太う逞きが、誠に黒かりければ、するすみとは附けられたり。何れも劣らぬ名馬なり。

尾張國より大手搦手二手にわかてせめ上る。大手の大將軍、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎、加賀見次郎、一條次郎、板垣三郎、稻毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、都合其勢三萬五千餘騎、近江國、野路、篠原にぞつきにける。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經同く伴ふ人々、安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、澁谷右馬允、平山武者所を始として、都合其勢二萬五千餘騎、伊賀國を經て、宇治橋のつめにぞ押寄せたる。宇治も勢田も橋を引き、水の底には亂杭打て大綱張り、逆茂木つないで流し懸たり。比は睦月廿日餘の事なれば、比良の高峯、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷打解て、水は折節増りたり。白浪おびたゞしう漲り落ち、瀬枕大きに瀧鳴て、逆卷く水も疾かりけり。夜は既にほの%\と明行けど、河霧深く立籠て、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。爰に大將軍九郎御曹司、河の端に進み出で、水の面を見渡して、人々の心を見んとや思はれけん、「如何せん淀芋洗へや回るべき、水の落足をや待べき。」と宣へば、畠山は其比はいまだ生年廿一に成けるが、進出でて申けるは、「鎌倉にて能々此河の御沙汰は候ひしぞかし。知召さぬ海河の俄に出來ても候はばこそ。此河は近江の水海の末なれば、待とも/\水ひまじ。橋をば又誰か渡いて參らすべき。治承の合戰に、足利又太郎忠綱は、鬼神でわたしけるか。重忠瀬蹈仕らん。」とて、丹の黨を宗として、五百餘騎ひし/\と轡を竝ぶる處に、平等院の丑寅、橘の小島が崎より、武者二騎引かけ引かけ出來たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも見えざりけれども、内々先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段許ぞ進だる。佐々木四郎、「此河は西國一の大河ぞや。腹帶の延て見えさうぞ。しめ給へ。」と言はれて梶原さもあるらんとや思ひけん、左右の鎧を踏すかし、手綱を馬のゆがみに捨て、腹帶を解てぞ縮めたりける。その間に佐々木は、つと馳ぬいて、河へさとぞ打入たる。梶原謀れぬとや思ひけん、やがて續て打入たり。「いかに佐々木殿、高名せうとて不覺し給ふな。水の底には大綱あるらん。」といひければ、佐々木、太刀を拔き、馬の足に懸りける大綱共をふつ/\と打切打切、いけずきといふ世一の馬には乘たりけり、宇治川はやしといへども一文字にさと渡いて、向への岸に打上る。梶原が乘たりける摺墨は、河中よりのだめ形に押流されて遙の下より打上げたり。佐々木鐙蹈張立上り、大音聲を揚て名乘りけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。吾と思はん人々は高綱に組めや。」とておめいてかく。畠山五百餘騎で軈て渡す。向への岸より、山田次郎が放つ矢に、畠山馬の額を篦ぶかに射させて弱れば、河中より弓杖を突て下立たり。岩浪甲の手先へ颯と押上けれども事ともせず。水の底を潜て、向の岸へぞ著にける。上らむとすれば後に物こそむずと引へたれ。「誰そ。」と問へば、「重親。」と答ふ。「いかに大串か。」「さ候。」大串の次郎は、畠山には烏帽子子にてぞありける。「餘に水が疾うて、馬は押流され候ぬ。力及ばで著參らせて候。」と言ひければ、「いつも和殿原は、重忠が樣なる者にこそ助られむずれ。」と云ふまゝに、大串を提て岸の上へぞ投上たる。投上られて、たゝ直て、「武藏國の住人大串次郎重親、宇治河の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。敵も御方も是を聞いて一度にどとぞ笑ける。其後畠山乘替に乘て打上る。魚綾の直垂に緋威の鎧著て、連錢葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘たる、敵の眞先にぞ進だるを「爰にかくるは如何なる人ぞ。名乘れや。」と言ひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱。」と名乘る。畠山今日の軍神祝はんとて、押竝てむずと捕て引落し、頸ねぢ切て、本田次郎が鞍のとつけにこそ附させけれ。是を始て、木曾殿の方より宇治橋固たる勢も、暫さゝへてふせぎけれども、東國の大勢渡いて攻ければ、散散に懸成され、木幡山、伏見を指いてぞ落行ける。勢田をば稻毛三郎重成が計らひにて、田上供御瀬をこそ渡しけれ。

河原合戰

軍破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、合戰の次第を記し申されけるに、鎌倉殿先づ御使に、「佐々木は如何に。」と御尋有ければ、「宇治川の眞先候。」と申す。日記を披いて御覽ずれば、「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季。」とこそ書れたれ。

宇治勢田破れぬと聞えしかば、木曾左馬頭最後の暇申さんとて、院の御所六條殿へ馳參る。御所には法皇を始め參せて公卿殿上人「世は只今失せなんず。如何せん。」とて手を握り立てぬ願もましまさず。木曾門前まで參たれども、東國の勢、既に河原迄責入たる由聞えしかば、さいて奏する旨もなくて、取てかへす。六條高倉なる所に始めて見そめたる女房のおはしければ、其へ打いり、最後の名殘惜まんとて、とみに出もやらざりけり。今參したりける越後中太家光と云ふ者有り、「如何にかうは打解て渡せ給候ぞ。御敵既に河原まで攻入て候に、犬死せさせ給なんず。」と申けれども、猶出でもやらざりければ、「さ候はば、先づ先き立參せて、死出の山でこそ待參せ候はめ。」とて、腹掻切てぞ死にける。木曾殿「我をすゝむる自害にこそ。」とて、やがて打立けり。上野國の住人那波太郎廣純を先として、其勢百騎ばかりには過ざりけり。六條河原に打出で見れば、東國の勢と覺くて、先三十騎計出來たり。其中に武者二騎進んだり。一騎は鹽屋五郎惟廣、一騎は勅使河原五三郎有直也。鹽屋が申けるは、「後陣の勢をや待つべき。」勅使河原が申けるは、「一陣破ぬれば殘黨全からず、唯懸よ。」とて、をめいてかく。木曾は今日を限りと戰かへば、東國の勢は、我討取んとぞ進ける。

大將軍九郎義經、軍兵共に軍をばせさせ、院御所の覺束なきに、守護し奉らんとて、先づ我身共に直甲五六騎、六條殿へ馳參る。御所には、大膳大夫成忠、御所の東築垣の上に上て、わなゝくわなゝく見まはせば、白旗さと差上、武士ども五六騎のけ甲に戰成て、射向の袖吹靡させ、黒煙蹴立て馳參る。成忠「又木曾が參り候、あなあさまし。」と申ければ、「今度ぞ世の失はて。」とて君も臣も噪がせ給ふ。成忠重て申けるは、「只今馳參る武士ども、笠驗のかはて候、今日始て都へ入る東國の勢と覺候。」と申も果ねば、九郎義經門前へ馳參て馬より下り、門を扣かせ、大音聲を揚て、「東國より前兵衞佐頼朝が舎弟九郎義經こそ參て候へ。明させ給へ。」と申ければ、成忠餘りの嬉しさに、築垣より急ぎ跳りおるゝとて、腰をつき損じたりけれども、痛さは嬉さに紛て覺えず、這々參て、此由奏聞してければ、法皇大に御感在てやがて門を開かせて入られけり。九郎義經其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裳濃の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の鳥打を紙を廣さ一寸許に切て、左卷にぞ卷たりける。今日の大將軍の驗とぞ見えし。法皇は中門の櫺子より叡覽有て、「ゆゝしげなる者どもかな、皆名乘せよ。」と仰ければ、先づ大將軍九郎義經、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、澁谷右馬允重資とこそ名乘たれ。義經具して武士は六人鎧は色々也けれども、頬魂事柄何れも劣らず。大膳太夫成忠仰せを承て、九郎義經を大床の際へ召て、合戰の次第を委く御尋あれば、義經畏て申けるは、「義仲が謀叛の事、頼朝大に驚き、範頼義經を始めとして、むねとの兵三十餘人其勢六萬餘騎を參せ候。範頼は勢田より參り候が未參り候はず。義經は宇治の手を責め落いて、先づ此御所守護の爲に馳參じて候。義仲は河原を上りに落候つるを、兵共に追せ候つれば、今は定めて討取候ぬらん。」と、いと事もなげにぞ申されたる。法皇大に御感有て、「神妙也。木曾が餘黨など參て、狼藉もぞ仕る。汝等此御所能々守護せよ。」と仰ければ義經畏り承はて、四方の門を固めて待程に、兵共馳集て、程なく一萬騎許に成にけり。

木曾は若しの事あらば、法皇を取參らせて、西國へ落下り、平家と一つに成らんとて、力者廿人汰へて持たりけれども、御所には九郎義經馳參て、守護し奉る由聞えしかば、「さらば」とて、數萬騎の大勢の中へをめいて懸入る。既に討れんとする事度々に及ぶといへども、懸け破り懸け破り通りけり。木曾涙を流て、「かかるべしとだに知たらば、今井を勢田へは遣ざらまし。幼少竹馬の昔より、死ならば一所で死なんとこそ契しに、所々で討れん事こそ悲しけれ。今井が行末を聞かばや。」とて、河原を上りに懸る程に、六條河原と三條河原との間に敵襲て懸れば、取て返し取て返し、僅なる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞ追返す。鴨河さと打渡し粟田口松坂にぞ懸ける。去年信濃を出しには、五萬餘騎と聞えしに今日四宮河原を過るには、主從七騎に成にけり。まして中有の旅の空、思ひやられて哀なり。

木曾最後

木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、都に留りぬ。中にも巴は色白く髮長く、容顏誠に勝れたり。ありがたき強弓、精兵、馬の上、歩立、打物持ては鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。究竟の荒馬乘り、惡所落し、軍と云へば、實より鎧著せ、大太刀強弓持せて、先づ一方の大將には向けられけり。度々の高名肩を竝ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行討れける中に、七騎が中まで、巴は討れざりけり。

木曾は長坂を經て、丹波路へ趣くとも聞えけり。又龍華越に懸て、北國へとも聞えけり。かかりしかとも、「今井が行へを聞ばや。」とて、勢田の方へ落行程に、今井四郎兼平も、八百餘騎で勢田を固めたりけるが僅に五十騎許に打なされ、旗をば卷せて主の覺束なきに、都へとて歸す程に、大津の打出濱にて、木曾殿に行合奉る。互に中一町許より、其と見知て、主從駒を疾めて寄り合たり。木曾殿今井が手を取て宣けるは、「義仲六條河原で如何にも成べかりつれ共、汝が行末の戀しさに、多くの敵の中を懸け破て、是迄は逃たる也。」今井四郎、「御諚誠に忝なう候

[_]
[1]
兼平も勢田で討死仕るべう候つれ共、御行末の覺束なさに、是迄參て候。」とぞ申ける。木曾殿「契は未だ朽せざりけり。義仲が勢は敵に押隔てられ林に馳散て、此邊にもあるらんぞ。汝が卷せて持せたる旗上させよ。」と宣へば、今井が旗を差し上たり。京より落る勢ともなく、勢田より落る者ともなく、今井が旗を見附けて、三百餘騎ぞ馳集る。木曾殿大に悦で「此勢あらば、などか最後の軍せざるべき。爰にしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん。」「甲斐の一條次郎殿とこそ承候へ。」「勢は幾等程有やらん」「六千餘騎とこそ聞え候ヘ。」「さらばよい敵ごさんなれ。同う死なば、よからう敵に懸合て大勢の中でこそ討死をもせめ。」とて眞先にこそ進みけれ。

木曾左馬頭其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、いか物作の大太刀帶き、石打の矢の、其日の軍に射て、少々殘たるを、首高に負なし、滋籐の弓持て、聞る木曾の鬼葦毛と云ふ馬の究て太う逞に金覆輪の鞍置て乘たりける。鐙蹈張立上り、大音聲を揚て名乘けるは、「日比は聞けん物を、木曾冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊豫守朝日將軍源義仲ぞや。甲斐の一條次郎とこそきけ。互に好い敵ぞ。義仲討て兵衞佐に見せよや。」とて喚いて懸く。一條次郎、「唯今名乘は、大將軍ぞ。餘すな、洩すな、若黨、討や。」とて大勢の中に取籠て、我討取んとぞ進ける。木曾三百餘騎、六千餘騎が中を堅ざま横ざま蜘蛛手十文字に懸破て、後へつと出たれば、五十騎許に成にけり。そこを破て行く程に、土肥次郎實平、二千餘騎で支たり。そこをも破て行く程に、あそこでは四五百騎、こゝでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を、懸け破り々々行く程に、主從五騎にぞ成にける。五騎が中迄、巴は討れざりけり。木曾殿「おのれは、とう/\、女なれば、何地へも落ゆけ。義仲は討死せんと思ふ也。若し人手に懸らば、自害をせんずれば、木曾殿の最後の軍に、女を具せられたりけりなど言れん事も、然るべからず。」と宣ひけれども、猶落も行ざりけるが、餘りに言はれ奉て、「あはれ好らう敵がな。最後の軍して見せ奉らん。」とて、引へたる處に武藏國に聞えたる大力、御田八郎師重、三十騎許で出來たり。巴其中へ懸入、御田八郎に押ならべ、むずと取て引き落し、我が乘たる鞍の前輪に押つけて、ちとも働かさず頸ねぢ切て捨てけり。其後物具脱棄て、東國の方へ落ぞ行く。手塚太郎討死す。手塚の別當落にけり。

今井四郎、木曾殿、主從二騎に成て宣けるは、「日來は何とも覺えぬ鎧が、今日は重う成たるぞや。」今井四郎申けるは、「御身も未疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。何に依てか一領の御著背長を重うは思食候べき。其は御方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さは思召候へ。兼平一人候とも、餘の武者千騎と思召せ。矢七八候へば、暫く防ぎ矢仕らん。あれに見え候は、粟津の松原と申。あの松の中で、御自害候へ。」とて、打て行く程に、又荒手の武者五十騎許出來たり。「君はあの松原へ入せ給へ。兼平は此敵防ぎ候はん。」と申ければ、木曾殿のたまひけるは「義仲都にて如何にも成べかりつるが、是迄逃れ來るは汝と一所で死なんと思ふ爲也。所々で討れんより一所でこそ討死をもせめ。」とて、馬の鼻を竝て、懸んとし給へば、今井四郎馬より飛下、主の馬の口に取附て申けるは「弓矢取りは、年比日比如何なる高名候へども、最後の時不覺しつれば、永き瑕にて候也。御身は疲させ給ひて候。續く勢は候はず。敵に押隔てられ、いふかひなき人の郎等に組落されさせ給て討れさせ給なば、さばかり日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、何某が郎等の討奉たるなど申さん事こそ口惜う候へ。唯あの松原へ入せ給へ。」と申ければ、木曾「さらば」とて、粟津の松原へぞ駈け給ふ。

今井四郎唯一騎、五十騎許が中へかけ入り、鐙蹈張立上り、大音聲揚て、名乘けるは、「日比は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の乳母子今井の四郎兼平、生年三十三に罷成る。さる者ありとは、鎌倉殿までも知召されたるらんぞ。兼平討て、見參に入よ。」とて、射殘たる八筋の矢を、指つめ引詰散々に射る。死生は知らず、矢庭に敵八騎射落す。其後打物ぬいであれに馳あひ、是に馳合ひ、切て回るに、面を合する者ぞなき。分捕餘たしたりけり。「唯射取や。」とて、中に取籠め雨の降樣に射けれども、鎧好れば裏かゝず、明間を射ねば手も負はず。

木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈給ふが、正月廿一日、入相許の事なるに、薄氷は張たりけり。深田有とも知らずして、馬を颯とうち入たれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれども/\、打ども/\動かず。今井が行末の覺束なさに、振あふぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎爲久追懸て、よ引てひやうと射る。痛手なれば、まかふを馬の首に當て俯し給へる處に、石田が郎等二人落合て、終に木曾殿の頸をとてけり。太刀の鋒に貫ぬき、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦石田次郎爲久が討奉たるぞや。」と名のりければ、今井四郎軍しけるが、是を聞き、「今は誰をかばはむとて軍をもすべき。是を見給へ、東國の殿原、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛落ち、貫かてぞ失にける。去てこそ粟津の軍は無りけれ。

[_]
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。 at this point.

樋口誅罰

今井が兄樋口次郎兼光は、十郎藏人討んとて、河内國長野城へ越たりけるが、其にては討漏しぬ。紀伊國名草に有りと聞えしかば、やがて續いて越たりけるが、都に軍有りと聞て、馳上る。淀の大渡の橋で、今井が下人行合たり。「あな心憂、是は何地へとて渡せ給ひ候ぞ。君は討れさせ給ぬ。今井殿は自害。」と申ければ、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「是聞給へ、殿原、君に御志思ひ參せ給はん人人は、是より何地へも落行き、出家入道して、乞食頭陀の行をも立て、後世をも弔參せ給へ。兼光は都へ上り討死して、冥途にて君の見參に入、今井四郎を今一度見んと思ふぞ。」と云ければ、五百餘騎の勢あそこに引へ、こゝに引へ、落ゆく程に、鳥羽の南の門を出けるには、其勢僅に廿餘騎にぞ成にける。樋口次郎今日既に都へ入と聞えしかば、黨も高家も、七條、朱雀、四塚さまへ馳向ふ。樋口が手に、茅野太郎と云ふ者有り。四塚に幾も馳向うたる敵の中へ馳入り、大音聲を揚て、「此御中に甲斐の一條次郎殿の御手の人やまします。」と問ければ、「強一條次郎殿の手で、軍をばするか、誰にも合へかし。」とて、どと笑ふ。笑はれて名のりけるは、「かう申す者は信濃國諏訪上宮の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光廣、必ず一條の次郎殿の御手を尋るには非ず、弟の茅野七郎それにあり。光廣が子共二人信濃國に候が、あはれ我父は、好てや死にたるらん。惡てや死にたるらんと歎かん處に、弟の七郎が前で討死して、子共にたしかに聞せんと思ふ爲也。敵をば嫌まじ。」とて、あれに馳合ひ、これに馳合ひ、敵三騎きて落し、四人に當る敵に押雙べ引組でどうと落ち刺違てぞ死にける。

樋口次郎は兒玉黨に結ほれたりければ、兒玉の人ども寄合て、「弓矢取習ひ我も人も廣い中へ入らんとするは、自然の事の在ん時の一まとの息をも休め、暫しの命をも續んと思ふ爲也。されば樋口次郎が我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度の我等が勳功には樋口が命を申請ん。」とて使者を立てゝ、「日比は木曾殿の御内に、今井、樋口とて聞え給しかども、今は木曾殿討れさせ給ひぬ。何か苦かるべき、我等が中へ降人に成給へ。勳功の賞に申かへて命ばかり助奉らん。出家入道をもして後世を弔ひ參せ給へ。」と云ければ、樋口次郎聞ゆる兵なれども、運や盡にけん、兒玉黨の中へ降人にこそ成にけれ。是を九郎御曹司に申す。御所へ奏聞して宥められたりしを傍の公卿殿上人、局の女房達、「木曾が法住寺殿へ寄せて、鬨を作り君をも惱し參らせ、火をかけて、多の人々を滅し失ひしには、あそこにもこゝにも、今井樋口といふ聲のみこそ有しか。これらを宥められんは口惜かるべし。」と、面々に申されければ、又死罪に定めらる。

同二十二日、新攝政殿とどめられ給ひ、本の攝政還著し給ふ。僅六十日の内に替られ給へば、未だ見果ぬ夢の如し。昔粟田の關白は、悦申の後唯七箇日だにこそおはせしか。是は六十日とは云へども、其間に節會も除目も行はれしかば、思出なきにもあらず。

同廿四日、木曾左馬頭、幵餘黨五人が頸、大路を渡さる。樋口次郎は降人なりしが、頻に頸の伴せんと申ければ、藍摺の水干立烏帽子で渡されけり。同廿五日、樋口次郎終に斬られぬ。範頼義經樣々に申されけれども、「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王の其一つ也。是等を宥められんは、養虎の愁有るべし。」と、殊に沙汰有て斬られけるとぞ聞えし。傳に聞く、虎狼の國衰て諸侯蜂の如く起し時、はい公先に咸陽宮へ入と云へども、項羽が後に來らん事を恐て、妻は美人をも犯かさず、金銀珠玉をも掠めず、徒に凾谷の關を守て、漸漸に敵を滅して天下を治する事を得たりき。されば木曾左馬頭、先都へ入といふとも、頼朝朝臣の命に從がはましかば、彼はい公が謀には劣らざらまし。

平家は去年の冬の比より、讃岐國八島磯を出て、攝津國難波潟へ押渡り、福原の舊都に居住して、西は一谷を城郭に構へ、東は生田森を大手の木戸口とぞ定めける。其内、福原、兵庫、板宿、須磨に籠る勢、是は山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國を打隨へて、召るゝ所の軍兵也。十萬餘騎とぞ聞えし。一谷は北は山、南は海、口は狹くて奧廣し。岸高くして屏風を立たるに異ならず。北の山際より、南の海の遠淺迄、大石を重上げ、大木を伐て逆茂木にひき、深き所には大船どもをそばだてて掻楯にかき、城の面の高櫓には、一人當千と聞ゆる四國鎭西の兵ども甲冑弓箭を帶して、雲霞の如くになみ居たり。やぐらの下には、鞍置馬共、十重廿重に引立てたり。常に大皷を打て亂聲を爲す。一張の弓の勢は、半月胸の前に懸り、三尺の劍の光は、秋の霜腰の間に横へたり。高き所には赤旗多く打立たれば、春風に吹れて天に翻るは、火の燃上るに異ならず。

六箇度軍

平家福原へ渡給ひて後は、四國の兵ども隨ひ奉らず。中にも阿波讃岐の在廳ども、平家を背いて、源氏に付むとしけるが、「抑我等は昨日今日まで、平家に隨うたるものの、今日始めて源氏の方へ参りたりとも、よも用ゐられじ。いざや平家に矢一つ射懸て、其を面にして參らん。」とて、門脇中納言、子息越前三位、能登守父子三人、備前國下津井にましますと聞えしかば討たてまつらんとて、兵船十餘艘で寄せたりける。能登守是を聞き、「惡い奴原かな。昨日今日迄、我等が馬の草切たる奴原が、既に契りを變ずるにこそ有なれ。其儀ならば、一人も洩さず討てや。」とて、小船共に取乘て、「餘すな、漏すな。」とて攻め給へば、四國の兵共、人目ばかりに矢一つ射て、退んとこそ思ひけるに、手痛う攻られ奉て、叶はじとや思ひけん、遠負にして引退き、都の方へ逃上るが、淡路國福良の泊に著にけり。其國に源氏二人有り、故六條判官爲義が末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを、西國の兵共大將に憑んで、城廓を構へて待處に、能登殿やがて押寄攻給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負て、自害してけり。能登殿、防ぎ矢射ける兵ども、百三十餘人が頸切て、討手の交名記いて、福原へ參らせらる。

門脇中納言其より福原へ上り給ふ。子息達は伊豫の河野四郎召せども參らぬを責んとて、四國へぞ渡られける。先づ兄の越前三位通盛卿、阿波國花園城に著給ふ。弟能登守、讃岐の八島へ渡り給ふと聞えしかば、河野四郎通信は、安藝國の住人沼田次郎は母方の伯父

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[2]なりけりば
、一つに成んとて、安藝國へ推渡る。能登守是を聞き、やがて讃岐の八島を出でて追はれけるが、既に備後國蓑島に懸て、次の日沼田城へ寄せ給ふ。沼田次郎、河野四郎一つに成て、防ぎ戰ふ。能登殿やがて押寄て攻給へば、一日一夜ふせぎ戰ひ沼田次郎叶はじとや思ひけん、甲を脱いで、降人に參る。河野四郎は猶從ひ奉らず、其勢五百餘騎有けるが、僅に五十騎許に討成れ、城を出て行く程に、能登殿の侍、平八兵衞爲員二百騎許が中に取籠られて主從七騎に討成れ、助け船に乘んと、細道に懸て渚の方へ落行程に、平八兵衞が子息、讃岐七郎義範、究竟の弓の上手ではあり、追懸て七騎を矢庭に五騎射落す。河野四郎只主從二騎になりにけり。河野が身に替へて思ひける郎等を讃岐七郎押竝べて組で落ち、取て押て頸を掻んとする所に、河野四郎取て返し、郎等が上なる讃岐七郎が頸掻切て深田へ投入、大音聲を揚て、「河野四郎越智通信、生年廿一、かうこそ軍をばすれ。我と思はん人々は留よや。」とて、郎等を肩に引懸け、そこをつと迯て小舟に乘り、伊豫國へぞ渡りける。能登殿河野をも打漏されたれども、沼田次郎が降人たるを召具して、福原へぞ參られける。

又淡路國の住人安摩六郎忠景、平家を背いて、源氏に心を通しけるが、大船二艘に兵粮米物具、積で都の方へ上る程に、能登殿福原にて、これをきゝ、小舟十艘計おし浮べて追はれけり。安摩六郎、西宮の沖にて返し合せて防戰ふ。手痛う責められ奉て、叶はじとや思ひけん、引退て和泉國吹飯浦に著にけり。紀伊國の住人園邊兵衞忠康、これも平家を背いて源氏につかんとしけるが、安摩六郎が能登殿に攻られ奉て、吹飯に有と聞えしかば、其勢百騎計で馳來て一つになる。能登殿やがて續いて攻給へば、一日一夜防ぎ戰ひ、安摩六郎、園邊兵衞、叶はじとや思ひけん、家子郎等に防矢射させ、身がらは迯て京へ上る。能登殿防矢射ける兵ども、二百餘人が頸切りかけて、福原へこそ參られけれ。又伊豫國の住人河野四郎通信、豐後國の住人臼杵次郎惟高、緒方三郎惟義、同心して都合其勢二千餘人、備前國へ押渡り、今木城にぞ籠ける。能登守是を聞き、福原より三千餘騎で馳下り、今木城を攻め給ふ。能登殿「彼奴原はこはい御敵で候。重て勢を給はらん。」と申されければ、福原より數萬騎の大勢を向らるゝ由聞えし程に、城の内の兵ども、手のきは戰ひ、分捕高名し究て、「平家は大勢でまします也。我等は無勢也。如何にも叶まじ。こゝをば落て、暫く息を續がん。」とて、臼杵次郎、緒方三郎舟に取り乘り、鎭西へ押し渡る。河野は伊豫へぞ渡りける。能登殿「今は討つべき敵なし。」とて、福原へこそ參られけれ。大臣殿を始め奉て平家一門の公卿殿上人寄合ひて、能登殿毎度の高名をぞ一同に感じ合れける。

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[2] NKBT reads なりければ.

三草勢揃

正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞しけるに、「本朝には神代より傳れる三の御寶あり。内侍所、神璽、寶劍是也。相構て事故なく都へ歸入れ奉れ。」と仰下さる。兩人畏り承て罷出でぬ。

同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く行はる。朝夕の軍立に過行く月日は知らね共、去年は今年に回り來て、憂かりし春にも成にけり。世の世にて有ましかば、如何なる起立塔婆の企、供佛施僧の營みも有べかりしかども、唯男女の君達指し聚ひて、泣より外の事ぞなき。

此次でに叙位除目行はれて、僧も俗も皆司なされけり。門脇中納言、正二位大納言に成給ふべき由、大臣殿よりの給ひければ、教盛卿、

けふまでも有ばあるかの我身かは、夢の中にも夢をみるかな。

と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給はず、大外記中原師直が子、周防介師純大外記になる。兵部少輔正明、五位藏人になされて、藏人少輔とぞ云はれける。昔將門が東八箇國を討從へて、下總相馬郡に都を立て、我身を平親王と稱して百官をなしたりしには、歴博士ぞ無りける。是は其には似るべからず。舊都をこそ落給ふと云へども、主上三種神器を帶して、萬乘の位に備り給へり。叙位除目行れんも僻事にはあらず。

平氏既に福原迄攻上て都へ歸り入べき由聞えしかば、故郷に殘とゞまる人々、勇み悦ぶ事斜ならず。二位僧都專親は、梶井宮の年來の御同宿也ければ、風の便には申されけり。宮よりも又常は音信在けり。「旅の空の在樣、思召遣るこそ心苦しけれ。都も靜まらず。」などもあそばいて、奧には一首の歌ぞありける。

人しれず其方をしのぶ心をば、傾く月にたぐへてぞやる。

僧都是を顏に推當て、悲の涙塞あへず。

さる程に小松三位中將維盛卿は、年隔り日重るに隨ひて、故郷に留め置給ひし北の方少き人々の事をのみ歎き悲み給ひけり。商人の便に、おのづから文などの通ふにも、北方の都の御在樣、心苦う聞給ふに、さらば迎へとて、一所でいかにも成らばやとは思へども、我身こそあらめ、人の爲痛くてなど、思召し忍びて、明し暮し給ふにこそ、責ての志の深さの程も露れけれ。

さる程に源氏は四日寄べかりしが、故入道相國の忌日と聞て、佛事を遂させんが爲に寄ず。五日は西塞り、六日は道虚日、七日の卯刻一谷の東西の木戸口にて、源平矢合とこそ定めけれ。さりながらも四日は吉日なればとて、大手搦手の大將軍、軍兵二手に分て都を立つ。大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同小次郎長清、山名次郎教義、同三郎義行、侍大將には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、同三郎景家、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫廣綱、小野寺前司太郎道綱、曾我太郎資信、中村太郎時經、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎廣行、庄三郎忠家、同四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先として、都合其勢五萬餘騎二月四日の辰の一點に都を立て、其日の申酉の刻に、攝津國昆陽野に陣を取る。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、同く伴ふ人々、安田三郎義貞、大内太郎惟義、村上判官代康國、田代冠者信綱、侍大將には土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、佐原十郎義連、

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[3]和田小太郎義盛同次郎義茂同三郎宗實、
佐々木四郎高綱、同五郎義清、熊谷次郎直實、子息小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直經、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同與一親範、渡柳彌五郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、其子太郎光義、片岡太郎經春、源八廣綱、伊勢三郎義盛、奧州佐藤三郎嗣信、同四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶を先として、都合其勢一萬餘騎、同日の同時に都を立て、丹波路に懸り、二日路を一日に打て、播磨と丹波と境なる三草の山の東の山口、小野原にこそ著にけれ。

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[3] NKBT reads 和田小太郎義盛。同次郎義茂。同三郎宗實、.

三草合戰

平家の方には大將軍小松新三位中將資盛、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、侍大將には平内兵衞清家、海老次郎盛方を初として、都合其勢三千餘騎、小野原より三里隔てゝ三草山の西の山口に陣をとる。其夜の戌の刻ばかり、九郎御曹司、土肥次郎を召て、「平家は是より三里隔てて、三草山の西の山口に、大勢で引へたんなるは今夜夜討によすべきか、明日の軍か」と宣へば、田代冠者進み出でて申けるは、「明日の軍と延られなば、平家勢附候なんず。平家は三千餘騎、御方の御勢は一萬餘騎、遙の利に候。夜討好んぬと覺候。」と申ければ、土肥次郎、「いしうも申させ給ふ田代殿哉。さらば軈て寄せさせ給へ。」とて打立けり。兵共「暗さは暗し、如何せんずる。」と口々に申ければ、九郎御曹司「例の大たいまつは如何に。」と宣まへば、土肥次郎「さる事候。」とて、小野原の在家に火をぞ懸たりける。是を始て、野にも山にも草にも木にも火を付たれば、晝にはちとも劣らずして、三里の山をこえゆきけり。

此田代冠者と申は、父は伊豆國の先の國司、中納言爲綱の末葉也。母は狩野介茂光が娘を思うて設たりしを、母方の祖父に預けて、弓矢取にはしたてたりけり。俗姓を尋ぬれば、後三條院の第三の王子、資仁親王より五代の孫也。俗姓も好き上、弓矢を取ても好りけり。

平家の方には、其夜、夜討にせんずるをば知らずして、「軍は定めて明日の軍でぞ有んずらん。軍にも睡たいは大事の事ぞ。好う寢て軍せよ。」とて先陣は自用心するもありけれども、後陣の者ども、或は甲を枕にし、或は鎧の袖箙などを枕にして、先後も知らずぞ臥たりける。夜半ばかりに、源氏一萬騎、おしよせて、鬨をどと作る。平家の方には、餘りに遽噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、馬に當られじと中を明てぞ通しける。源氏は落行く敵をあそこに追懸け、こゝに追詰め攻ければ、平家の軍兵矢庭に五百餘騎討れぬ。手負者ども多かりけり。大將軍小松新三位中將、同少將、丹後侍從、面目なうや思はれけん、播磨國高砂より舟に乘て、讃岐の八島へ渡給ひぬ。備中守は平内兵衞海老次郎を召具して、一谷へぞ參られける。

老馬

大臣殿は安藝右馬助能行を使者で、平家の君達の方々へ、「九郎義經こそ三草の手を責落いて、既に亂入候なれ。山の手は大事に候。各向はれ候へ。」と宣ひければ、皆辭し申されけり。能登殿の許へ、「度々の事で候へども、御邊向はれ候なんや。」と、宣ひ遣されたりければ、能登殿の返事には「軍をば我身一つの大事ぞと思うてこそ好う候へ。獵漁などの樣に、足立ちの好らう方へは向はん、惡からん方へは向はじなど候はんには、軍に勝つ事よも候はじ。幾度でも候へ、強からん方へは教經承はて、向ひ候はん。一方ばかりは打破り候べし。御心安う思召され候へ。」と憑し氣にぞ申されける。大臣殿斜ならず悦で、越中前司盛俊を先として、能登殿に一萬餘騎をぞ附られける。兄の越前三位通盛卿相具して、山の手をぞ固め給ふ。山の手と申は、鵯越の麓也。通盛卿は能登殿の假屋に、北方迎へ奉て、最後の名殘惜まれけり。能登殿大に怒て、「此手は強い方とて、教經を向けられて候也。誠に強う候べし。唯今も上の山より源氏さと落し候なば、取る物も取あへ候はじ。縱弓を持たりとも、矢を番ずば叶ひがたし。縱矢を番たりとも、引ずば猶惡かるべし。ましてさ樣に打解させ給ては、何の用にか立せ給ふべき。」と諫められて、げにもと思はれけん、急ぎ物具して、人をば歸し給ひけり。五日の暮方に、源氏昆陽野を立て、漸々生田森に攻近づく。雀松原、御影の松、昆陽野の方を見渡せば、源氏手々に陣を取て、遠火を燒く。深行まゝに眺むれば山の端出る月の如し。平家も「遠火燒や。」とて、生田森にも形の如くぞ燒たりける。明行まゝに見渡せば晴たる空の星の如し。是や昔河邊の螢と詠じ給ひけんも、今こそ思ひ知れけれ。源氏は、あそこに陣取て馬休め、こゝに陣取て馬飼などしける程に急がず。平家の方には「今や寄する、今や寄する。」と安い心も無りけり。

六日の明ぼのに、九郎御曹司、一萬餘騎を二手に分け、先づ土肥次郎實平をば七千餘騎で一谷の西の手へ差遣はす。我身は三千餘騎で、一谷のうしろ鵯越を落さんと、丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵共「是は聞ゆる惡所で有なり。同う死ぬるとも敵に逢うてこそ死たけれ惡所に落ては死たからず。あはれ此山の案内者やあるらん。」と面々に申ければ、武藏國の住人平山武者所進み出でて、申けるは、「季重こそ案内は知て候へ。」御曹司、「和殿は東國生立の者の、今日始めて見る西國の山の案内者、大に實しからず。」と宣へば、平山重ねて申けるは、「御諚とも覺候はぬ者哉。吉野泊瀬の花をば歌人が知り、敵の籠たる城の後の案内をば剛の者が知候。」と申ければ、是又傍若無人にぞ聞えける。

又武藏國の住人別府小太郎清重とて、生年十八歳に成る小冠者進出て申けるは、「父で候し義重法師が教候しは、『敵にも襲はれよ、又山越の狩をもせよ、深山に迷ひたらん時は、老馬に手綱を打懸て、先に追立て行け、必道へ出うずるぞ。』とこそ教候しか。」御曹司、「優うも申たる者哉。雪は野原を埋めども、老たる馬ぞ道は知ると云ふ樣有り。」とて、白葦毛なる老馬に鏡鞍置き、白轡はげ、手綱結で打懸け、先に追立て、未知ぬ深山へこそ入給へ。比は二月初の事なれば、峯の雪村消て、花かと見ゆる所も有り。谷の鶯音信て、霞に迷ふ所も有り。上れば白雪皓々として聳え、下れば青山峨々として岸高し。松の雪だに消やらで、苔の細道幽なり。嵐にたぐふ折々は、梅花とも又疑はれ、東西に鞭を上、駒をはやめて行く程に、山路に日暮ぬれば、皆下居て陣をとる。武藏坊辨慶、老翁を一人具して參りたり。御曹司、「あれは何者ぞ。」と問たまへば、「此山の獵師で候。」と申。「さて案内は知たるらん。在の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。「爭か存知仕らで候べき。」「是より平家の城廓一谷へ落さんと思ふは如何に。」「努々叶ひ候まじ。三十丈の谷十五丈の岩崎など申處は人の通べき樣候はず。まして御馬などは思ひも寄り候はず。其うへ城のうちにはおとしあなをもほり、ひしをもうゑて待まゐらせ候らんと申。」「さてさ樣の所は鹿は通ふか。」「鹿は通ひ候。世間だにも暖に成候へば、草の深いに臥うとて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だにも寒う成り候へば、雪の淺きに食んとて、丹波の鹿は播磨の印南野へかよひ候。」と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿の通はう所を、馬の通はぬ樣や有る。軈て汝案内者つかまつれ。」とぞ宣ひける。此身は年老て叶うまじい由を申す。「汝は子は無か。」「候」とて、熊王と云童の生年十八歳になるをたてまつる。やがて髻取あげ父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、是をば鷲尾三郎義久と名乘せ、先打せさせて、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に中違うて、奧州で討れ給ひし時鷲尾三郎義久とて、一所で死ける兵也。

一二之懸

六日の夜半ばかりまでは、熊谷平山搦手にぞ候ける。熊谷次郎、子息の小次郎を喚で云けるは、「此手は惡所を落さんずる時に、誰先といふ事も有まじ。いざうれ是より土肥が承はて向うたる播磨路へ向うて、一谷の眞先懸う。」と云ひければ、小次郎、「然べう候。直家もかうこそ申たう候つれ。さらばやがて寄せさせ給へ。」と申す。熊谷、「誠や平山も此手にあるぞかし、打込の軍好まぬ者也。平山が樣見て參れ。」とて、下人を遣はす。案の如く平山は、熊谷より先に出立て、「人をば知らず、季重に於ては一引も引まじい者を。」と、獨り言をぞし居たりける。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食哉。」とて、打ければ、「かうなせそ、其馬の名殘も、今夜ばかりぞ。」とて打立けり。下人走歸て、急ぎ此由告たりければ、「さればこそ。」とて、やがて是も打出けり。熊谷は、かちの直垂に、赤革威の鎧著て、紅の母衣を懸け、ごんだ栗毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乘たりける。小次郎は、澤潟を一しほすたる直垂に、節繩目の鎧著て、西樓と云ふ白月毛なる馬に乘たりけり。旗差はきぢんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、黄河原毛なる馬にぞ乘たりける。落さんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆく程に、年比人も通はぬ田井の畑と云ふ古道を經て、一谷の波打際へぞ出たりける。一谷の近く鹽屋と云ふ處に未だ夜深かりければ、土肥次郎實平、七千餘騎で引へたり。熊谷は波打際より夜に紛て、そこをつと打通り、一谷の西の木戸口にぞ押寄たる。其時は未だ夜ふかゝりければ敵の方にも靜返て音もせず。御方一騎もつゞかず。熊谷次郎子息の小次郎を喚で云ひけるは、「我も/\と先に心を懸たる人々は多かるらん。心狹う直實計とは思ふべからず。既に寄せたれども、未だ夜の明るを相待て、此邊にも引へたるらん。いざ名乘う。」とて、掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、「武藏國の住人熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には、「よし/\音なせそ。敵に馬の足を疲かせよ。矢種をば射盡させよ。」とて、會釋ふ者も無りけり。

さる程に又後に武者こそ一騎續いたれ。「誰そ。」と問へば「季重」と答ふ。「問は誰そ。」「直實ぞかし。」「如何に熊谷殿はいつよりぞ。」「直實は宵よりよ。」とぞ答へける。「季重もやがて續て寄べかりけるを、成田五郎に謀れて、今迄遲々したる也。成田が死ば一所で死なうと契る間、『去らば。』とて打連寄る間『痛う平山殿、先懸早りなし給ひそ。先きを蒐ると云は、御方の勢を後に置て、蒐たればこそ、高名不覺も人に知るれ。唯一騎大勢の中にかけ入て討れたらんは、何の詮か在んずるぞ。』と制する間、げにもと思ひ、小坂の有るを先に打上せ、馬の首を下樣に引立て、御方の勢をまつ處に、成田も續て出來たり、打竝て軍の樣をも言合せんずるかと思ひたれば、さはなくて、季重をばすげなげに打見て、やがてつと馳拔通る間、あはれ此者は謀て、先懸けうとしけるよと思ひ、五六段ばかり先立たるを、あれが馬は我馬よりは弱げなる者をと目をかけ、一もみもうで追著て、『正なうも季重程の者をば謀り給ふ者哉。』と言ひかけ、打捨て寄つれば、遙に下りぬらん、よも後影をも見たらじ。」とぞ云ひける。

さる程にしのゝめ漸明行けば、熊谷平山彼是五騎でぞ控たる。熊谷は先に名乘たれとも、平山が聞くに名乘んとや思ひけん、又掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、 「以前に名乘つる武藏國の住人、熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。 我と思はん平家の侍共、直家に落合へや落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞て、「い ざや通夜名乘る熊谷親子をひさげて來ん。」とて、進む平家の侍誰々ぞ。越中次郎兵 衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、後藤内定經、是を始めてむねとの兵廿餘 騎、木戸を開いて懸出たり。こゝに平山滋目結の直垂に、緋威の鎧著て、二つ引兩の 母衣をかけ、目糟毛と云ふ聞る名馬にぞ乘たりける。旗差は黒革縅の鎧に、甲猪頸に 著ないて、さび月毛なる馬にぞ乘たりける。「保元平治兩度の合戰に先がけたりし武 藏國の住人、平山武者所季重。」と名乘て、旗差と二騎馬の鼻をならべてをめいてか く。熊谷蒐れば、平山續き、平山蒐れば熊谷續く。互にわれ劣じと、入替々々、もみもうで、火出る程ぞ攻たりける。平家の侍共、手痛うかけられて、叶はじとや思ひけん、城の内へさと引き、敵を外樣に成てぞ塞ぎける。熊谷は馬の太腹射させて、はぬれば、足をこえて下立たり。子息小次郎直家も、生年十六歳と名乘て掻楯の際に馬のはなを突する程責寄て戰ひけるが、弓手の肘を射させて、馬より飛び下、父と竝でぞ立たりける。「如何に小次郎手負たか。」「さ候。」「常に鎧つきせよ、裏掻すな、錣を傾よ、内甲射さすな。」とぞ教へける。熊谷鎧に立たる矢どもかなぐり捨て、城の内を睨まへ、大音聲を揚て、「去年の冬の比鎌倉を出しより、命をば兵衞佐殿に奉り、屍をば一谷で曝さんと思切たる直實ぞや。室山水島二箇度の合戰に高名したりと名乘る越中次郎兵衞はないか。上總五郎兵衞、惡七兵衞はないか。能登殿はましまさぬか。高名も敵に依てこそすれ。人毎に逢てはえせじ物を。直實に落合や落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞いて、越中次郎兵衞、好む裝束なれば、紺村濃の直垂に、赤威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、熊谷父子に目を懸て、歩ませ寄る。熊谷父子は中を破れじと、立竝んで、太刀を額に當て、後へは一引も引かず、彌前へぞ進みける。越中次郎兵衞叶はじとや思ひけん、取て返す。熊谷、是を見て、「如何に、あれは、越中次郎兵衞とこそ見れ。敵にはどこを嫌はうぞ。直實に押竝べて組や組め。」と云ひけれども、「さもさうず。」とて引返す。惡七兵衞是を見て、「きたない殿原の振舞やう哉。」とて、既に組んとかけ出けるを鎧の袖を引へて。「君の御大事是に限るまじ。有べうもなし。」と制せられて、組ざりけり。其後熊谷は乘替に乘て、喚いてかく。平山も熊谷父子が戰ふ紛れに、馬の息を休めて是も亦續いたり。平家の方には馬に乘たる武者はすくなし、やぐらの上に兵ども矢先を汰へて雨の降樣に射けれども、敵はすくなし、御方は多し、勢にまぎれて矢にも當らず。「唯押竝べて組や組め。」と下知しけれども、平家の馬は、乘る事は繁く、飼事は稀なり、舟には久しう立たり、彫きたる樣なりけり。熊谷平山が馬は飼に飼たる大の馬どもなり、一當當ては皆蹴倒れぬべき間、押竝べて組む武者一騎も無りけり。平山は身に替て思ひける旗差を射させて敵の中へ破て入り、やがて其敵の頸を取てぞ出たりける。熊谷も、分捕あまたしたりけり。熊谷先に寄せたれど、木戸を開ねば懸入らず。平山後に寄たれど、木戸を開たれば懸入ぬ。さてこそ熊谷平山が、一二懸をば爭けれ。

二度之懸

さる程に成田五郎も出來たり。土肥次郎眞先懸け、其勢七千餘騎色々の旗差上げ、をめき叫で攻戰ふ。大手生田森にも、源氏五萬餘騎で固たりけるが、其勢の中に、武藏國の住人、河原太郎、河原次郎といふ者有り。河原太郎弟の次郎を呼で云ひけるは、 「大名は我と手を下さねども、家人の高名を以て名譽とす。我等は自手を下さずは叶 ひがたし。敵を前に置ながら、矢一つだにも射ずして待居たるが、餘りに心もとなく 覺ゆるに、高直は先づ城の中へ紛れ入て、一矢射んと思ふなり。されば千萬が一も生 て歸らん事有がたし。わ殿は殘り留て、後の證人にたて。」と云ひければ、河原次郎 涙をはら/\と流いて「口惜い事を宣ふ者哉。唯兄弟二人有る者が兄を討せて、弟が一人殘り留またらば、幾程の榮花をか保つべき。所々で討れんよりも、一所でこそ如何にも成らめ。」とて、下人共呼寄せ、最後の有樣妻子の許へ、言遣はし、馬にも乘ず、げゞをはき、弓杖を突て、生田森の逆茂木を上こえ、城の中へぞ入たりける。星明りに鎧の毛もさだかならず。河原太郎大音聲を揚て、「武藏國の住人、河原太郎私市高直、同次郎盛直、源氏の大手生田森の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には是を聞いて、「東國の武士程怖しかりける者はなし。是程の大勢の中へ唯二人入たらば、何程の事をかし出すべき。好好暫し愛せよ。」とて、射んと云ふ者無りけり。是等兄弟は究竟の弓の上手なれば、指詰引詰散々に射る間、「愛しにくし、討や。」と云程こそ有けれ、西國に聞えたる強弓精兵、備中國の住人、眞名邊四郎、眞名邊五郎とて兄弟有り、四郎は一谷に置れたり、五郎は生田森に有けるが、是を見て能彎てひやうふつと射る。河原太郎が鎧の胸板後へつと射拔れて弓杖にすがりすくむ所を、弟の次郎走り寄て、兄を肩に引懸け、逆茂木を上り越えんとしけるが眞名邊が二の矢に、鎧の草摺の外を射させて、同枕に臥にけり。眞名邊が下人落合うて、河原兄弟が頸を取る。是を新中納言の見參に入たりければ、「あはれ剛の者哉。是等をこそ一人當千の兵とも云べけれ、可惜者共を助て見で。」とぞ宣ひける。

其時下人ども、「河原殿兄弟唯今城の内へ眞先懸て討れ給ひぬるぞや。」とよばはりければ、梶原是を聞き、「私の黨の殿原の不覺でこそ河原兄弟をば討せたれ。今は時能く成ぬ、寄よや。」とて閧をどと作る。やがて續いて五萬餘騎、一度にときをぞ作りける。足輕共に逆茂木とり除けさせ、梶原五百餘騎喚いてかく。次男平次景高餘に先を懸んと進みければ、父の平三使者を立てて、「後陣の勢の續ざらんに、先懸たらん者は、勸賞有まじき由、大將軍の仰せぞ。」と云ひければ、平次暫引へて、

「武士のとりつたへたる梓弓、ひいては人のかへすものかは。

と申させ給へ。」とて喚いてかく。「平次討すな、續けや者共。景高討すな、續けや者共。」とて父の平三、兄の源太、同三郎續いたり。梶原五百餘騎大勢の中へかけ入り散々に戰ひ、僅に五十騎計に討成され、颯と引いてぞ出たりける。如何したりけん、其中に景季は見ざりけり。「如何に源太は、郎等共。」と問ければ、「深入して討れさせ給ひて候ごさめれ。」と申。梶原平三是を聞き、「世にあらんと思ふも、子共がため、源太討せて命生ても、何かはせん、回せや。」とて取て回す。梶原大音聲を揚て名乘けるは、「昔八幡殿の後三年の御戰に、出羽國千福金澤城を攻させ給ひける時、生年十六歳で、眞先かけて、弓手の眼を甲の鉢附の板に射附られ、當の矢を射て、其敵を射落し、後代に名を揚たりし鎌倉權五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人當千の兵ぞや。我と思はん人々は景時討て見參に入れよや。」とて、喚いてかく。新中納言「梶原は東國に聞えたる兵ぞ。餘すな、漏すな、討や。」とて、大勢の中に取籠めて責給へば、梶原先づ我身の上をば知らずして、源太は何くに有やらんとて、數萬騎の中を縱さま横さま、蛛手、十文字に懸破りかけまはり尋ぬる程に、源太はのけ甲に戰ひなて、馬をも射させ徒立になり、二丈計有ける岸を後に當て、敵五人が中に取籠られ郎等二人左右にたてて、面もふらず命も惜まず、爰を最後と防ぎ戰ふ。梶原是を見付けて、「未討たれざりけり。」と、急ぎ馬より飛で下り、「景時こゝに有り、如何に源太死ぬるとも、敵に後を見すな。」とて、親子して、五人の敵を三人討取り、二人に手負せ、「弓矢取は懸るも引くも折にこそよれ、いざうれ源太。」とて、かい具してぞ出きたりける。梶原が二度の懸とは是也。

坂落

是を初めて秩父、足利、三浦、鎌倉、黨には、猪俣、兒玉、野井與、横山、西黨、都筑黨、私黨の兵ども、惣して源平亂あひ、入替/\、名乘替/\、喚叫ぶ聲山を響かし、馬の馳違ふ音は雷の如し。射違る矢は雨の降にことならず。手負をば肩に懸け後へ引退くも在り。薄手負うて戰ふも有り。痛手負て討死するものもあり。或は押双べて組で落ち刺違て死ぬるも有り。或は取て押へて頸を掻もあり、掻かるゝもあり。何れ隙ありとも見えざりけり。かかりしかども、源氏大手ばかりでは叶ふべし共見えざりしに、九郎御曹司搦手に回て七日の日の明ぼのに、一谷の後、鵯越に打上り既に落さんとし給ふに、其勢にや驚たりけん、男鹿二つ妻鹿一つ、平家の城廓一谷へぞ落たりける。城の中の兵共是を見て、「里近からん鹿だにも、我等に恐ては山深うこそ入べきに、是程の大勢の中へ鹿の落合ふこそ怪しけれ。如何樣にも、上の山より源氏落すにこそ。」と騒ぐ處に、伊豫國の住人、武知の武者所清教、進み出で、「何んでまれ、敵の方より出來たらん者を、遁すべき樣なし。」とて、男鹿二つ射留て、妻鹿をば射でぞ通ける。越中の前司、「詮ない殿原の鹿の射樣哉。唯今の矢一つでは、敵十人は防んずる物を、罪作りに、矢だうなに。」とぞ制しける。

御曹司、城廓遙に見渡いておはしけるが、「馬ども落いて見ん。」とて、鞍置馬を追落す。或は足を打折てころんで落つ。或は相違なく落て行もあり。鞍置馬三匹、越中前司が屋形の上に落著て身振してぞ立たりける。御曹司是を見て、「馬共は主々が心得て落さうには、損ずまじいぞ。くは落せ。義經を手本にせよ。」とて、先三十騎ばかり眞先懸て落されけり。大勢皆續いて落す。後陣に落す人人の鎧の鼻は先陣の鎧甲に當る程なり。小石の交りの砂なれば、流れ落しに、二町許さと落いて、壇なる所に引へたり。夫より下を見くだせば、大磐石の苔むしたるが、釣瓶落しに、十四五丈ぞ下たる。兵どもうしろへとてかへすべきやうもなし、又さきへおとすべしとも見えず。「爰ぞ最後。」と申て、あきれて引へたる所に、佐原十郎義連、進出て申けるは、「三浦の方で我等は鳥一つ立ても、朝夕か樣の所をこそは馳ありけ。三浦の方の馬場や。」とて、眞先懸て落しければ、兵者みな續いて落す。えい/\聲を忍びにして、馬に力を附て落す。餘りのいぶせさに目を塞いでぞ落しける。おほかた人の爲態とは見えず、唯鬼神の所爲とぞ見えたりける。落しも果ねば、閧をどと作る。三千餘騎が聲なれど、山彦に答へて、十萬餘騎とぞ聞えける。村上判官代康國が手より火を出し、平家の屋形假屋を皆燒拂ふ。折節風は烈しゝ、黒煙おしかくれば、平氏の軍兵共、餘に遽て噪いで「若や助かる。」と、前の海へぞ多く馳入りける。汀にはまうけ舟どもいくらも有けれども、「我れ先に乘らう。」と船一艘には物具したる者共が、四五百人ばかりこみ乘らうになじかはよかるべき。汀より僅に三町ばかり推出いて、目の前に大船三艘沈みにけり。其後は、好き人をば乘すとも雜人共をばのすべからずとて、太刀長刀でながせけり。かくする事とは知ながら、乘じとする船には取付きつかみ附き、或はうで打切れ、或はひぢ打落されて一谷の汀に、朱になてぞ並臥たる。能登守教經は度々の軍に、一度も不覺せぬ人の、今度は如何思はれけん、薄墨と云馬に乘り、西を指てぞ落給ふ。播磨國明石浦より船にのて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。

越中前司最期

大手にも濱の手にも、武藏相摸の兵ども、命を惜まず攻戰ふ。新中納言は、東に向かて戰ひ給ふ處に、山のそばより寄ける兒玉黨使者を上て、「君は武藏國司でまし/\候し間、是は兒玉の者共が申候。御後をば御覽候ぬやらん。」と申。新中納言以下の人々、後を顧み給へば、黒煙推懸たり。「あはや西の手は破にけるは。」といふ程こそ有けれ、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。

越中前司盛俊は、山手の侍大將にて在けるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、引へて敵を待つ所に、猪俣の小平六則綱、好い敵と目を懸け、鞭鐙を合せて馳來り、押雙べてむずと組でどうと落つ。猪俣は八箇國に聞えたるしたゝか者也。鹿の角の一二の草かりをば、輒引裂けるとぞ聞えし。越中前司は二三十人が力態をする由人目には見えけれども内々は六七十人して上下す船を、唯一人して推上おし下す程の大力也。されば猪俣を取て抑て働さず。猪俣下に伏ながら刀を拔うとすれども、指はだかて、刀の柄を握にも及ばず、物を言はうとすれども、餘に強う推へられて、聲も出でず。既に頸を掻れんとしけるが、力は劣たれども心は剛なりければ、猪俣すこしもさわがず、暫く息をやすめ、さらぬ體にもてなして申けるは、「抑名乘つるは聞給ひて候か。敵をうつと云ふは、我も名乘て聞せ、敵にも名乘せて、頸を捕たればこそ大功なれ。名も知ぬ頸取ては何にかはし給ふべき。」と云はれて、實もとや思ひけん、「是は本平家の一門たりしが、身不肖なるに依て、當時は侍に成たる越中前司盛俊と云ふ者也。和君は何者ぞ、なのれ聞う。」と云ひければ、「武藏國の住人猪俣小平六則綱」と名乘る。「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給たり。今は主の世にましまさばこそ、敵の頸取て參せて、勳功勸賞にも預り給め。理を枉て則綱扶け給へ。御邊の一門、何十人も坐せよ。則綱が勳功の賞に申替て、扶け奉らん。」と云ければ、越中前司大に怒て、「盛俊身こそ不肖なれども、さすが平家の一門也。源氏憑うとは思はず、源氏又盛俊に憑れうともよも思はじ。惡い君が申樣哉。」とて、やがて頸を掻んとしければ、猪俣「まさなや、降人の頸掻樣や候。」越中前司「さらば助けん。」とて引起す。前は畠の樣にひあがて、究て固かりけるが、後は水田のこみ深かりける畔の上に、二人の者腰打懸て、息續居たり。

暫しあて、黒革威の鎧著て、月毛なる馬に乘たる武者一騎、馳來る。越中前司怪氣に見ければ、「あれは則綱が親う候人見四郎と申者で候。則綱が候を見て、詣で來と覺え候。苦う候まじい。」といひながら、「あれが近附たらん時に、越中前司に組んだらば、さりとも、落合はんずらん。」と思ひて待處に一段ばかり近附たり。越中前司、始めは二人を一目づゝ見けるが、次第に近う成ければ馳來る敵をはたと守て、猪俣を見ぬ隙に、力足を蹈で衝立上り、えいと云ひて、もろ手を以て越中前司が鎧の胸板をばはと突て、後の水田へのけに突倒す。起上らんとする處に、猪俣上にむずと乘りかゝり、やがて越中前司が腰の刀を拔き鎧の草摺ひきあげて、柄も拳も透れ/\と、三刀刺て頸を取る。さる程に人見四郎落合たり。か樣の時は論ずる事も有と思ひ、太刀の先に貫き、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比鬼神と聞えつる平家の侍越中前司盛俊をば、猪俣小平六則綱が討たるぞや。」と名乘て、其日の高名の一の筆にぞ附にける。

忠度最期

薩摩守忠度は、一谷の西手の大將軍にて坐けるが、紺地の錦の直垂に、黒絲威の鎧著て黒き馬の太う逞きに、沃懸地の鞍置て乘り給へり。其勢百騎ばかりが中に打圍れて、いと噪がず引へ引へ落給ふを、猪俣黨に岡部六彌太忠純、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追付奉り、「抑如何なる人でましまし候ぞ、名乘らせ給へ。」と申ければ、「是は御方ぞ。」とてふり仰ぎ給へる内甲より見入たれば、銕黒也。「あはれ御方には銕附たる人はない者を、平家の君達でおはするにこそ。」と思ひ、押竝てむずと組む。是を見て百騎ばかりある兵共、國々の假武者なれば一騎も落合はず、我先にとぞ落ゆきける。薩摩守「惡い奴かな。御方ぞと云はゞ云はせよかし。」とて熊野生立大力の疾態にておはしければ、やがて刀を拔き六彌太を馬の上で二刀、おちつく處で一刀、三刀迄ぞ突かれける。二刀は鎧の上なれば、透らず。一刀は、内甲へ突入られたれども、薄手なれば死なざりけるを、捕て押へ頸を掻んとし給ふ處を、六彌太が童、後馳に馳來て、討刀を拔き、薩摩守のかひなをひぢの本よりふと切り落す。今は角とや思はれけん、「暫退け、十念唱ん。」とて、六彌太をつかうで、弓長ばかり投除らる。其後西に向ひ高聲に十念唱へて、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨。」と宣ひも果ねば、六彌太後よりよて、薩摩守の頸を討。好い大將討たりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結び附られたる文を解て見れば、「旅宿花」といふ題にて一首の歌をぞ讀まれける。

ゆきくれて木の下陰を宿とせば、花やこよひの主ならまし。

忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知てけれ。太刀の先に貫ぬき、高く差上げ、大音聲を揚て、「此日來平家の御方と聞えさせ給つる薩摩守殿をば、岡部の六彌太忠純討奉たるぞや。」と名乘ければ、敵も御方も是を聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にも達者にておはしつる人を。あたら大將軍を。」とて、涙を流し袖をぬらさぬは無りけり。

重衡生捕

本三位中將重衡卿は、生田森の副將軍におはしけるが、其勢皆落失せて、只主從二騎になり給ふ。三位中將、その日の裝束にはかちんに白う黄なる絲をもて、群千鳥繍たる直垂に、紫下濃の鎧著て、童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に、乘り給へり。乳母子の後藤兵衞盛長は、滋目結の直垂に、緋威の鎧著て三位中將の秘藏せられたる夜目無月毛に乘せられたり。梶原源太景季、庄の四郎高家、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追懸奉る。汀には助け船幾等も在けれども、後より敵は追懸たり、のがるべき隙も無りければ、湊河、苅藻河をも打渡り、蓮の池をば馬手に見て、駒の林を弓手になし、板宿、須磨をも打過て、西を指てぞ落たまふ。究竟の名馬には乘給へり。もみふせたる馬共、逐著べしとも覺えず、只延に延ければ、梶原源太景季、鐙踏張り立上り、若しやと遠矢によひいて射たりけるに、三位中將の馬の三頭を箆深に射させて弱る處に、後藤兵衞盛長「吾馬召されなんず。」とや思ひけん、鞭を上てぞ落行ける。三位中將是を見て、「如何に盛長、年比日比さは契らざりし者を、我を捨て何くへ行ぞ。」と宣へども、空きかずして、鎧に附たる赤印かなぐり捨て、唯逃にこそ逃たりけれ。三位中將敵は近付く、馬は弱し、海へ打入れ給ひたりけれども、そこしも遠淺にて沈べき樣も無りければ、馬より下、鎧の上帶切り、高紐はづし物具脱ぎ棄、腹を切んとし給ふ處を梶原より先に、庄の四郎高家鞭鐙を合せて馳來り、急ぎ馬より飛下り、「正なう候。何く迄も御供仕らん。」とて、我馬に掻乘せ奉り、鞍の前輪にしめ附て、我身は乘替に乘てぞ歸りける。

後藤兵衞はいき長き究竟の馬には乘たりけり。其をばなく迯延て、後には熊野法師、尾中法橋を憑で居たりけるが、法橋死て後、後家の尼公訴訟の爲に京へ上りたりけるに、盛長供して上りたりければ、三位中將の乳母子にて、上下には多く見知れたり。「あな無慚の盛長や。さしも不便にし給ひしに、一所で如何にも成ずして、思もかけぬ尼公の供したる憎さよ。」とて、爪彈をしければ、盛長もさすが慚し氣にて扇を顏にかざしけるとぞ聞えし。

敦盛最期

軍破れにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達助け船に乘らんと、汀の方へぞ落ち給ふらん。哀れ好らう大將軍に組ばや。」とて、磯の方へ歩まする處に、練貫に鶴縫たる直垂に、萠黄匂の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乘たる武者一騎、沖なる船に目を懸て、海へさと打入れ、五六段計泳がせたるを熊谷、「あれは、大將軍とこそ見參せ候へ。正なうも敵に後を見せさせ給ふ者哉。返させ給へ。」と。扇を揚て招きければ、招かれて取て返す。汀に打上らんとする所に、押竝て、むずと組で、どうと落ち、取て押へて頸を掻んとて、甲を押仰けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄假粧して鐵醤黒也。我子の小次郎が齡程にて、容顏誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覺えず。「抑如何なる人にてましまし候ぞ。名乘せ給へ。扶け參せん。」 と申せば、「汝は誰そ。」と問給ふ。「物其者では候はねども、武藏國の住人熊谷次 郎直實。」と名乘申す。「さては汝に逢うては名乘まじいぞ。汝が爲には好い敵ぞ。 名乘らずとも頸を取て人にとへ、見知うずるぞ。」とぞ宣ひける「あはれ大將軍や、此人一人討奉たりとも、負くべき軍に勝べき樣もなし。又討たてまつらずとも、勝べき軍に負る事もよも有じ。小次郎が薄手負たるをだに直實は心苦しう思ふに、此殿の父、討れぬと聞いて、如何計か歎き給はんずらん。あはれ扶け奉らばや。」と思ひて、後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎計で續いたり。熊谷涙を押て申けるは、「助け參せんとは存候へども、御方の軍兵雲霞の如く候。よも逃させ給はじ。人手にかけ參せんより、同くは、直實が手に懸參せて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申ければ、「唯とう/\頸を取れ。」とぞ宣ひける。熊谷餘にいとほしくて、何に刀を立べしとも覺えず、目もくれ心も消果てゝ、前後不覺に思えけれども、さてしも有るべき事ならねば、泣々頸をぞ掻いてける。「あはれ弓矢取る身程口惜かりける者はなし。武藝の家に生れずば、何とてかゝる憂目をば見るべき。情なうも討奉る者哉」と掻口説き袖を顏に押當てゝ、さめ%\とぞ泣居たる。やゝ久うあて、さても在るべきならねば、鎧直垂を取て、頸を裹まんとしけるに、錦の袋に入たる笛をぞ腰に差されたる。「あないとほし、此曉城の内にて、管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。當時御方に東國の勢何萬騎か有らめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有じ。上臈は猶も優しかりけり。」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是を見る人涙を流さずといふ事なし。後に聞けば、修理大夫經盛の子息に太夫敦盛とて、生年十七にぞ成れける。其よりしてこそ、熊谷が發心の思ひはすゝみけれ。件の笛は、祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられたりしを、敦盛器量たるに依て、持たれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける。狂言綺語の理と云ながら、遂に讃佛乘の因となるこそ哀なれ。

知章最期

門脇中納言教盛卿の末子、藏人大夫成盛は、常陸國の住人土屋五郎重行に組で討たれ給ひぬ。修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正は助け舟に乘らんと汀の方へ落給ひけるが、河越小太郎重房が手に取籠られて、討たれ給ひぬ。其弟、若狹守經俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つれて敵の中へ懸入、散々に戰ひ、分捕數多して、一所で討死してけり。

新中納言知盛卿は、生田森の大將軍にておはしけるが、其勢皆落失て、今は御子武藏守知明侍には監物太郎頼方、只主從三騎に成て助け舟に乘らんと、汀の方へ落給ふ。爰に兒玉黨と覺しくて、團扇の旗差いたる者ども、十騎計、をめいて追懸奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手ではあり、眞先に進んだる旗差がしや頸の骨をひやうふつと射て、馬より倒に射落す。其中の大將と覺しき者、新中納言に組奉らんと馳竝べけるを、御子武藏守知明、中に隔たり、押竝べてむずと組で、どうとおち、取て抑へて頸を掻き、立上んとし給ふ處に、敵が童落合うて、武藏守の頸を討つ。監物太郎落重て、武藏守討奉たる敵が童をも討てけり。其後矢種の有る程射盡して、打物拔で戰ひけるが、敵餘た討とり、弓手の膝口を射させ、立も上らずゐながら討死してけり。此紛れに新中納言は、究竟の名馬には乘給へり、海の面廿餘町泳がせて、大臣殿の御船に著給ひぬ。御船には人多く籠乘て、馬立つべき樣も無りければ、逐返す。阿波民部重能、「御馬敵の者に成り候なんず。射殺候はん。」とて、片手矢はげて出けるを、新中納言、「何の物にも成ばなれ、我命を助けたらん者を。有べうもなし。」と宣へば、力及ばで射ざりけり。此馬主の別れを慕ひつゝ、暫しは船をも放れやらず、沖の方へ泳けるが、次第に遠く成ければ、空しき汀に泳歸る。足立つ程にも成しかば、猶船の方をかへり見て、二三度迄こそいなゝきけれ。其後陸に上て休みけるを、河越小太郎重房、取て院へ參らせたりければ、軈て院の御厩に立てられけり。本も院の御祕藏の御馬にて、一の御厩に立られたりしを、宗盛公内大臣に成て、悦申の時、給られたりけりとぞ聞えし。新中納言に預けられたりしを中納言餘に此馬を秘藏して、馬の祈の爲にとて、毎月朔日毎に、泰山府君をぞ祭られける。其故にや馬の命も延、主の命をも助けるこそ目出たけれ。此馬は信濃國井上だちにて有ければ、井上黒とぞ申ける。後には河越が取て參せたりければ、河越黒とも申けり。

新中納言、大臣殿の御前に參て、申されけるは、「武藏守に後れ候ぬ。監物太郎も討せ候ぬ。今は心細うこそ罷成て候へ。如何なる親なれば、子は有て親を扶けんと、敵に組を見ながら、いかなる親なれば、子の討るゝを扶けずして、か樣に逃れ參て候らん。人の上で候はば、いかばかり、もどかしう存候べきに、我身の上に成ぬれば、よう命は惜い者で候けりと、今こそ思知られて候へ。人々の思はれむ心の内どもこそ慚しう候へ。」とて、袖を顏に押當て、さめざめと泣き給へば、大臣殿是を聞給ひて、「武藏守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。手もきゝ心も剛に、好き大將軍にておはしつる人を、清宗と同年にて、今年は十六な。」とて、御子衞門督のおはしける方を御覽じて、涙ぐみ給へば、幾らも竝居たりける平家の侍ども、心有も心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。

落足

小松殿の末の子備中守師盛は、主從七人小船に乘て落給ふ處に、新中納言の侍、清衞門公長と云ふ者、馳來て、「あれは、備中守殿の御船とこそ見參て候へ。參り候はん。」と申ければ、船を汀にさし寄せたり。大の男の鎧著ながら、馬より船へがばと飛乘らうに、なじかは好かるべき。船は小し、くるりと蹈返してけり。備中守浮ぬ沈ぬし給ひけるを、畠山が郎等、本田次郎、十四五騎で馳來り、熊手に懸て引上奉り、 遂に頸をぞ掻てける。生年十四歳とぞ聞えし。

越前三位通盛卿は、山手の大將軍にておはしけるが、其日の裝束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧著て、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍置て乘り給へり。内甲を射させて敵に押隔てられ、弟能登殿には離れ給ひぬ。靜ならん處にて、自害せんとて、東に向て落給ふ程に、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景、彼是七騎が中に取籠られて終に討たれ給ひぬ。其時迄は、侍一人附奉たりけれども其も最後の時は落合はず。

凡東西の木戸口時を移す程也ければ、源平數を盡いて討れにけり。櫓の前逆茂木の下には、人馬のしゝむら山の如し。一谷の小篠原、緑の色を引替へて、薄紅にぞ成にける。一谷、生田森、山の傍、海の汀にて射られ斬られて死ぬるはしらず、源氏の方に斬懸らるゝ頸ども、二千餘人也。今度討れ給へるむねとの人々には、越前三位通盛、弟藏人大夫成盛、薩摩守忠度、武藏盛知明、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正、弟若狹守經俊、其弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞えし。

軍破にければ、主上を始奉て、人々皆御船に召て、出給ふ心の中こそ悲しけれ、汐に引れ風に隨て、紀伊路へ趣く船も有り。葦屋の沖に漕出て、浪にゆらるゝ船も有り。或は須磨より明石の浦傳ひ、泊定めぬ梶枕、片敷袖もしをれつゝ、朧に霞む春の月、心を碎かぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕通り、繪島磯に漂へば、波路幽に鳴渡り、友迷はせる小夜千鳥、是も我身の類哉。行先未何くとも思ひ定ぬかと思しくて、一谷の沖にやすらふ船も有り。か樣に風に任せ、浪に隨ひて、浦々島々に漂よへば、互に死生も知難し。國を從ふる事も十四箇國、勢の附く事も十萬餘騎也。都へ近附く事も僅に一日の道なれば、今度はさりともと憑しう思はれけるに、一谷も攻落され、人々皆心細うぞなられける。

小宰相身投

越前三位通盛卿の侍に、見田瀧口時員と云ふ者有り。北方の御船に參て申けるは、 「君は湊河の下にて、敵七騎が中に取籠られて、終に討れさせ給ぬ。其中に殊に手を 下て討參らせ候つるは、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景とこそ名乘申候つれ。時員も一所で如何にも成り、最後の御供つかまつるべう候しかども、兼てより仰せ候ひしは、『通盛如何に成とも、汝は命を捨べからず、如何にもして長らへて、御向後をたづね參せよ。』と仰せ候し間、かひなき命生て、つれなうこそ是迄逃れ參て候へ。」と申けれども、北方とかうの返事にも及びたまはず、引覆いてぞ伏し給ふ。一定討れぬと聞給へども、若僻事にてもや有らん、生て還らるゝ事もやと、二三日は白地に出たる人を待つ心地しておはしけるが、四五日も過しかば、若やの憑みも弱果てゝ、いとゞ心細うぞ成れける。唯一人附奉りたりける乳母の女房も、同枕に伏沈にけり。かくと聞こえし七日の日の暮方より、十三日の夜までは、起も上り給はず。明れば十四日、八島へ著んとての宵打過ぐるまで臥給ひたりけるが、ふけゆくまゝに舟の中もしづまりければ、北方乳母の女房に宣ひけるは、「このほどは、三位討れぬと聞つれども、誠とも思はで有つるが、此暮程より、さも有らんと思定めて有ぞとよ。人毎に湊河とかやのしもにて討れにしとはいへども、其後生てあひたりといふ者は一人もなし。明日打出んとての夜、白地なる所にて行逢たりしかば、何よりも心細げに打歎いて、『明日の軍には、一定討れなんずと覺ゆるはとよ。我如何にも成なん後、人は如何がし給ふべき。』なんど云ひしかども、軍はいつもの事なれば一定さるべしと思はざりける事の悔しさよ。其を限りとだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲けれ。身のたゞならず成たる事をも、日比はかくして言はざりしかども、心深う思はれじとて、言出したりしかば、斜ならず嬉げにて『通盛既に三十になる迄、子と云ふ者の無りつるに、あはれ男子にて在れかし。浮世の忘形見にも思おくばかり。さて幾月程に成やらん。心地は如何有やらん。いつとなき波の上、船の中の栖ひなれば、閑かに身々と成ん時も如何はせん。』など言ひしは、はかなかりける兼言哉。誠やらん、女はさ樣の時、十に九は必死るなれば、恥がましき目を見て、空しう成んも心憂し。閑に身々と成て後、少き者をも生立て、無き人の形見にも見ばやとは思へども、少者を見ん度毎には、昔の人のみ戀しくて、思ひの數は勝るとも、慰む事はよもあらじ。終には逃るまじき道也。若不思議に此世を忍過すとも、心に任せぬ世の習ひは、思ぬ外の不思議も有ぞとよ。これも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、覺れば面影に立ぞかし。生て居てとにかくに人を戀しと思はんより、只水の底へ入ばやと思定めて有ぞとよ。そこに一人留まて、歎かんずる事こそ心苦しけれども、わらはが裝束の有をば取て、如何ならん僧にもとらせ、無き人の御菩提をも弔ひ、わらはが後世をも助け給へ。書置たる文をば都へ傳てたべ。」など、細々と宣へば、乳人の女房涙をはら/\とながして、「幼き子をも振捨、老たる親をも留置き、はる%\是まで附參せて候ふ志をば、いか計とか思召れ候ふらむ。そのうへ今度一の谷にて討たれさせ給ひし人々の北方の御おもひども何れかおろかにわたらせ給ひ候ふべき。されば御身ひとつのことゝおぼしめすべからず。靜に身々と成せ給ひて後、少き人を生立參せ、如何ならん岩木の狹間にても、御樣を替へ、佛の御名をも唱てなき人の御菩提を弔ひ參させ給へかし。必一蓮へと思召すとも、生替らせ給ひなん後、六道四生の間にて、何の道へか趣せ給はんずらん。行合せ給はん事も不定なれば、御身を投ても由なき事なり。其上都の事なんどをば、誰見續ぎ參せよとてか樣には仰せ候やらん。恨しうも承るものかな。」とて、さめざめと掻口説ければ、北の方此事惡うも聞れぬとや思はれけん、「それは心にかはりても推量給ふべし。人の別の悲さには大方の世の恨めしさにも身を投んなどいふは、常の習ひなり。されども左樣の事は、有難きためし也。げにも思立ならば、そこにしらせずしては有まじきぞ。夜も深ぬ。いざや寢ん。」と宣へば、めのとの女房此四五日は湯水をだに、はか%\しう御覽じ入給はぬ人の、か樣に仰せらるゝは、誠に思ひ立給へるにこそと悲くて、「大形は都の御事もさる御事にて候へ共、左樣に思召立せさせ給はば、千尋の底迄も引こそ具せさせ給はめ。おくれまゐらせて後片時もながらふべしともおぼえず。」なんど申して、御傍に在ながら、ちと、目睡たりける隙に、北方やはら舟端へ起出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知ね共、月の入さの山の端を、そなたの空とや思はれけん、閑に念佛し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天戸渡る楫の音、折から哀や勝けん、忍び聲に念佛百返計唱へ給ひて、「南無西方極樂世界教主、彌陀如來、本願誤たず、淨土へ導びき給ひつゝあかで別れし妹脊のなからひ、必一蓮に迎へ給へ。」と、泣々遙に掻口説き南無と唱る聲共に、海にぞ沈み給ける。

一谷より八島へ推渡る夜半ばかりの事なれば、舟の中靖て、人是をしらざりけり。其中に梶取の一人寢ざりけるが見つけ奉て、「あれは如何に、あの御船より、よにう つくしうまします女房の只今海へ入せ給ひぬるぞや。」と喚ければ、乳母の女房打驚き、傍を探れども、おはせざりければ、「あれよ、あれ。」とぞあきれける。人數多下て、取上奉らんとしけれども、さらぬだに、春の夜の習ひに霞むものなるに、四方の村雲浮れ來て、かづけども/\、月朧にて見えざりけり。やゝあて上げ奉たりけれども、早此世になき人と成給ひぬ。練貫の二つ衣に白き袴著給へり。髮も袴もしほたれて、取上たれどもかひぞなき。乳母の女房手に手を取組み、顏に顏を押當てゝ、「などや是程に思召し立つならば、千尋の底までも引きは具せさせ給はぬぞ。恨しうも留め給ふ者哉。さるにても今一度もの一ことは仰られて、聞せさせ給へ。」とて、悶絶焦れけれども、

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[4]一言の返事にも及はず
、纔に通つる息も、はや絶果ぬ。

さる程に、春の夜の月も雲井に傾き、かすめる空も明行けば、名殘は盡せず思へども、さてしも有るべき事ならねば、うきもやあがりたまふと故三位殿の著背長の一領殘りたりけるに引纏ひ奉り、終に海にぞ沈ける。乳母の女房今度は後奉らじと、續いて入らんとしけるを、人人やう/\に取留めければ、力及ばず。せめての思ひの爲方なさにや、手づから髮をはさみ下し、故三位殿の御弟、中納言律師忠快に剃せ奉り、泣々戒持て、主の後世をぞ弔ひける。昔より男に後る類多と云へども、樣を替は常の習ひ、身を投迄は有難き樣也。忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫に見えずとも、か樣の事をや申べき。

此北方と申は、頭刑部卿則方の女、上西門院の女房、宮中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申ける。此女房十六と申し安元の春の比、女院法勝寺へ花見の御幸有しに、通盛卿其時は未だ中宮の亮にて供奉せられたりけるが、此女房を只一目見て、哀れと思ひ初けるより、其面影のみ身にひしと立傍て、忘るゝ隙も無りければ、常は歌を詠み、文を盡して戀悲しみ給へど、玉章の數のみ積りて、取入給ふ事もなし。既に三年になりしかば、通盛卿今を限りの文を書て、小宰相殿の許へ遣す。をりふし取傳ける女房にも逢はずして、使空しく歸りける道にて小宰相殿は折ふし我里より御所へぞ參り給ひけるが、使道にて行會ひ奉り、空う歸り參らん事の本意なさに、御車のそばをつと走り通る樣にて、通盛の文を小宰相殿の乘給へる車の簾の内へぞ、投げ入ける。伴の者共に問ひ給へば、「知らず」と申す。さて此文を明て見給へば、通盛卿の文にてぞ有ける。車に置くべき樣もなし。大路に捨んもさすがにて、袴の腰に挾みつゝ、御所へぞ參給ひける。さて宮仕給ふ程に、所しもこそ多けれ、御前に文を落されけり。女院これを御覽じて、急ぎ取せおはしまし、御衣の御袂に引藏させ給ひて、「珍敷き物をこそ求めたれ。此主は誰なるらん。」と仰せければ、女房達、萬の神佛に懸て「知ず」とのみぞ申あはれける。其中に小宰相殿は顏打赤めて物も申されず。女院も通盛卿の申とはかねて知召れたりければ、さて此文を明けて御覽ずるに、妓爐の烟の匂ひ殊に馴しく、筆の立ども尋常ならず。あまりに人の心強きも中々今は嬉くてなんど、細々と書いて、奧には一首の歌ぞ有ける。

我戀は細谷川のまろきばし、ふみかへされて濕るゝ袖哉。

女院、「是は逢ぬを恨たる文や。餘りに人の心強きも中々怨と成るものを。」中比小野小町とて、眉目容世に勝れ、情の道有難かりしかば、見る人聞く者、肝魂を痛ましめずといふ事なし。されども、心強き名をや取りたりけん、果てには人の思ひの積りとて、風を防ぐ便りもなく、雨を漏さぬ業もなし。宿にくもらぬ月星を、涙に浮べ、野邊の若菜、澤の根芹を摘てこそ、露の命を過しけれ。女院、「是は如何にも返しあるべきぞ。」とて、かたじけなくも御硯召寄せて自御返事あそばされけり。

只たのめ細谷川の丸木橋、ふみかへしてはおちざらめやは。

胸の中の思ひは富士の烟に露れ、袖の上の涙は清見が關の浪なれや。眉目は幸の花なれば、三位此女房を給て、互に志淺からず。されば西海の旅の空、浪の上、舟の中の住ひ迄も引具して、同じ道へぞ趣れける。門脇中納言は、嫡子越前三位、末子成盛にも後れ給ひぬ。今憑給へる人とては、能登守教經、僧には中納言律師忠快ばかり也。故三位殿の形見とも、此女房をこそ見給ひつるに、其さへか樣になられければ、いと心細ぞ成れける。

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[4] NKBT reads 一言の返事にもおよばず.
平家物語卷第九