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平家物語卷第十二
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12. 平家物語卷第十二

大地震

平家皆滅び果てゝ西國も靜まりぬ。國は國司に隨ひ、庄は領家のまゝなり。上下安堵して覺えし程に、同七月九日の午刻許に大地おびたゞしく動て良久し。赤縣の中白河の邊、六勝寺皆破れ壞る。九重の塔も上六重を震落す。得長壽院も三十三間の御堂を十七間まで振倒す。皇居を始めて、人々の家家惣て在々所々の神社佛閣、怪しの民屋、さながら破れ壞るゝ音は雷の如く、揚る塵は烟の如し。天暗うして、日の光も見えず、老少共に魂を銷し、鳥獸悉く心を盡す。又遠國近國もかくのごとし。大地裂て水湧き出で、磐石破て谷へまろぶ。山壞て河を埋み、海漂ひて濱をひたす。汀漕ぐ船は波にゆられ、陸行く駒は足の立處を失へり。洪水みなぎり來らば、岳にのぼてもなどか助ざらん。猛火燃來らば、川を隔ても暫も去ぬべし。唯悲かりけるは大地震也。鳥にあらざれば空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にも又上がたし。白河六波羅京中に打埋れて死る者幾等といふ數をしらず。四大種の中に、水火風は常に害をなせども、大地に於ては異なる變をなさず。こは如何にしつる事ぞやとて上下遣戸障子を立て、天の鳴り地の動度毎には、唯今ぞ死ぬるとて聲々に念佛申、をめきさけぶ事おびたゞし。七八十、九十の者も、世の滅するなど云事は、さすが今日明日とはおもはずとて大に噪ぎければ、をさなき者どもも聞て、泣悲しむ事限なし。法皇はその折しも新熊野へ御幸成て、人多く打殺され觸穢出來にければ、急ぎ六波羅へ還御なる。道すがら君も臣もいかばかり御心を碎せ給ひけん。主上は鳳輦に召て、池の汀へ行幸なる。法皇は南庭にあく屋を立てぞましましける。女院宮々は、御所共皆震り倒しければ或は御輿に召し、或は御車に召て、出させ給ふ。天文の博士共馳參て、夕さりの亥子の刻には必ず大地打返すべしと申せば、怖しなども愚也。昔文徳天皇の御宇齊衡三年三月八日の大地震には、東大寺の佛の御ぐしを震落したりけるとかや。又天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去て、常寧殿の前に五丈のあく屋を立ててましましけるとぞ承る。其は上代の事なれば申におよばず。今度の事は是より後も類あるべしとも覺えず。十善帝王都を出させ給て、御身を海底に沈め、大臣公卿大路を渡して其頸を獄門に懸けらる。昔より今に至るまで怨靈は怖しき事なれば世も如何あらんずらんとて心ある人の歎き悲しまぬは無かりけり。

紺掻沙汰

同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父故左馬頭義朝のうるはしき頭とて、高雄の文覺上人頸にかけ、鎌田兵衞が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承四年の比取出して、たてまつりけるは實の左馬頭の首にはあらず。謀反をすゝめ奉らんためのはかりごとに、そぞろなるふるい頭をしろい布に包んでたてまつりけるに、謀反を起し、世を討取て、一向父の頭と信ぜられける處へ又尋出してくだりけり。是は年來義朝の不便にして召使はれける紺掻の男、年來獄門に懸られて後世弔ふ人も無りし事をかなしんで時の大理に逢ひ奉り申給はり取おろして、兵衞佐殿流人でおはすれども、末たのもしき人なり。もし世に出でて尋ねらるゝ事もこそあれとて東山圓覺寺といふ所に、深う納めて置きたりけるを、文覺聞出して、彼紺掻男共に、相具して下りけるとかや。今日既に鎌倉へ著くと聞えしかば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。其より色の姿に成て、泣々鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に立て、我身は庭に立て、父の頭を請取り給ふぞ哀なる。是を見る大名小名、皆涙を流さずと云事なし。せき巖の峻しきを伐掃て、新なる道場を造り、父の御爲と供養して、勝長壽院と號せらる。公家にもか樣の事を哀と思食て、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈らる。勅使は左大辨兼忠とぞ聞えし。頼朝卿武勇の名譽長ぜるによて、身を立て家を興すのみならず、亡父聖靈、贈官贈位に及けるこそ目出たけれ。

平大納言被流

同九月二十三日、平家の餘黨の都にあるを、國々へ遣はさるべき由鎌倉殿より公家へ申されたりければ、平大納言時忠卿能登國、子息讃岐中將時實上總國、内藏頭信基安藝國、兵部少輔正明隱岐國、二位僧都專親阿波國、法勝寺執行能圓備後國、中納言律師忠快武藏國とぞ聞えし。或西海の波の上、或東關の雲の果て、先途何くを期せず、後會其期を知らず、別の涙を押て、面々に赴かれけん心の中推量れて哀なり。其中に平大納言は、建禮門院の吉田に渡らせ給ふ處に參て「時忠こそ責重うして、今日既に配所へ趣き候へ。同じ都の内に候て、御當りの御事共承はらまほしう候つるに、終に如何なる御有樣にて渡らせ給ひ候はんずらむと、思置參せ候にこそ、行空も覺ゆまじう候へ。」と、泣々申されければ、女院、「げにも昔の名殘とては、そこばかりこそおはしつれ。今はあはれをもかけ、吊ふ人も誰かは有るべき。」とて御涙せきあへさせ給はず。

此大納言と申は、出羽前司具信が孫、兵部權大輔贈左大臣時信が子也。故建春門院の御せうとにて高倉の上皇の御外戚なり。世の覺え時のきら目出たかりき。入道相國の北方、八條の二位殿も姉にておはせしかば、兼官兼職、思の如く心の如し。されば程なくあがて正二位の大納言に至れり。檢非違使別當にも三箇度までなり給ふ。此人の廳務の時は、竊盗強盗をば召捕て、樣もなく右のかひなをば腕中より打落し/\追捨らる。されば惡別當とぞ申ける。主上三種の神器都へ返し入奉るべき由西國へ院宣を下されたりけるに院宣の御使、花形がつらに、浪形と云燒驗をせられけるも、此大納言のしわざ也。法皇も故女院の御せうとなれば、御形見に御覽ぜまほしう思召しけれども、加樣の惡行によて御憤淺からず。九郎判官も親しうなられたりしかば、いかにもして申宥めばやと思はれけれども叶はず。子息侍從時家とて、十六になられけるが流罪にも漏れて、伯父の時光卿の許におはしけり。母上帥のすけ殿の共に、大納言の袂にすがり、袖をひかへて今を限りの名殘をぞ惜みける。大納言、「終にすまじき別かは。」と心強は宣へどもさこそは悲しうも思はれけめ。年闌齡傾て後、さしも睦まじかりし妻子にも、別果て、住慣し都をも、雲井の餘所に顧みて、古へは名にのみ聞し越路の旅に趣き、遙々と下り給ふに、彼は志賀唐崎、是は眞野の入江、交田の浦と申ければ、大納言泣々詠じ給ひけり。

歸りこん事はかた田に引く網の、目にもたまらぬ我涙かな。

昨日は西海の波の上に漂ひて、怨憎會苦の恨を扁舟の内に積み、今日は北國の雪の下に埋れて、愛別離苦の悲みを故郷の雲に重ねたり。

土佐房被斬

さる程に九郎判官には鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙り給ふ由聞えしかば、心を合せて一人づつ皆下り果にけり。兄弟なる上、殊に父子の契をして去年の正月木曾義仲を追討せしより以降度々平家を攻落し、今年の春滅し果てゝ一天を靜め、四海を澄す。勸賞行はるべき所に、如何なる仔細有て、かゝる聞えあるらんと、上一人を始め奉り下萬民に至るまで、不審をなす。此事は、去春攝津國渡邊より舟汰して八島へ渡り給ひし時、逆櫓立うたてじの論をして、大きに欺かれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるに依て也。定て謀反の心もあるらん。大名共差上せば、宇治勢田の橋をも引き、京中の噪ぎと成て、中々惡かりなんとて土佐房正俊を召て「和僧上て、物詣する樣にてたばかり討て。」と宣ひければ正俊畏て承り、宿所へも歸らず、御前を立て軈て京へぞ上りける。

同九月廿九日土佐房都へついたりけれ共、次の日迄判官殿へもまゐらず。土佐房がのぼりたる由聞給ひ、武藏房辨慶を以て召されければ、やがてつれて參りたり。判官宣ひけるは、「如何に鎌倉殿より御文はなきか。」「指たる御事候はぬ間、御文はまゐらせられず候。『御詞にて申せ。』と候ひしは『當時まで都に別の仔細無く候事、さて御渡候故と覺え候。相構てよく守護せさせ給へ。と申せ。』とこそ仰せられ候つ れ。」判官、「よもさはあらじ、義經討に上る御使なり。大名ども差上せば、宇治勢 田の橋をも引き都の噪ぎとも成て、中々惡かりなん。和僧上せて物詣する樣にて、た ばかて討てとぞ仰附られたるらんな。」と宣へば、正俊大に驚て、「何に依てか、唯 今さる事の候べき。聊宿願に依て熊野参詣の爲に罷上て候。」其時判官宣ひけるは、 「景時が讒言に依て義經鎌倉へもいれられず、見參をだにし給はで追上せらるゝ事は 如何に。」正俊「其事は如何候らん、身においては全く御後ぐらう候はず。起請文を 書き進らすべき」由申せば。判官「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれ奉たらば こそ。」とて、以外氣色惡しげに成り給ふ。正俊一旦の害をのがれんがために居なが ら七枚の起請文を書て或は燒て飮み、或は社に納などして、ゆりて歸り、大番衆に觸 回して其夜やがて寄せんとす。判官は磯禪師といふ白拍子の娘しづかと云女を最愛せ られけり。しづかも傍を立去る事なし。しづか申けるは、「大路は皆武者で候ふなる。 是より催の無らんに、大番衆の者どもの是程噪ぐべき樣やさぶらふ。あはれ是は晝の起請法師のしわざと覺え候。人を遣して見せさぶらはばや。」とて、六波羅の故入道相國の召使かはれける禿を三四人使はれけるを、二人遣したりけるが、程ふるまで歸らず。中々女は苦しからじとて半者を一人見せに遣す。程なく走り歸て申けるは、「禿と覺しきものは、二人ながら土佐房の門に切伏られて候。宿所には鞍おき馬ども、ひしと引立て、大幕の内には、矢負、弓張、者共皆具足して唯今寄んと出立候ふ。少も物詣の景色とは見え候はず。」と申ければ、判官是を聞いてやがて討立給ふ。靜著背長取て投懸奉る。高紐計して、太刀取て出給へば、中門の前に馬に鞍置て引立たり、是に打乘て「門を開よ。」とて門あけさせ、今や/\と待給ふ處に、暫有て直甲四五十騎門の前に推寄せて、閧をどとぞ作ける。判官鐙蹈張り立あがり、大音聲をあげて、「夜討にも晝戰にも、義經たやすう討つべき者は、日本國にはおぼえぬものを。」とて只一騎おめいて懸け給へば、五十騎ばかりの者共中をあけてぞ通しける。さる程に、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云一人當千の兵共、やがて續いて責戰ふ。其後侍共御内に夜討入たりとて、あそこの屋形、爰の宿所より駈來る。程なく六七十騎集ければ、土佐房猛く寄たりけれども、戰に及ばず、散々に懸散されて扶かる者はすくなう、討るゝ者ぞ多かりける。正俊希有にしてそこをばのがれて鞍馬の奧ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、彼法師土佐房を搦めて、次日判官の許へ送りけり。僧正が谷と云所に隱れ居たりけるとかや。正俊を大庭に引居たり。かちの直垂にすちやう頭巾をぞしたりける。判官笑て宣ひけるは「いかに和僧、起請にはうてたるぞ。」土佐房少しも噪がず、居なほりあざ笑て申けるは。「ある事に書て候へば、うてて候ぞかし。」と申す。「主君の命を重んじて、私の命を輕んず、志の程最神妙也。和僧命惜くば、鎌倉へかへし遣さんはいかに。」土佐房、「正なうも御諚候者哉。惜しと申さば、殿は扶け給はんずるか。鎌倉殿の、法師なれども、己ぞねらはんずる者とて、仰蒙しより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかは取返奉るべき。只御恩には疾々頭を召され候へ。」と申ければ、「さらばきれ。」とて、六條河原に引出て切てげり。褒めぬ人こそ無りけれ。

判官都落

ここに足立新三郎といふ雜色は、「きやつは下臈なれども、以外さか/\しいやつで候。召使ひ給へ。」とて、判官に參せられたりけるが「内々九郎が振舞見て、我に知せよ。」とぞ宣ひける。正俊がきらるゝを見て、新三郎夜を日についではせ下り、鎌倉殿に此由申ければ、舍弟參河守範頼を、討手に上せ給ふべき由仰られけり。頻に辭申されけれども、重て仰られける間、力及ばで物具して、暇申に參られたり。「わ殿も九郎がまねし給ふなよ。」と仰られければ、此御詞に恐れて、物具脱置て京上はとどまり給ひぬ。全く不忠なき由一日に十枚づゝの起請を晝は書き、夜は御坪の内にて讀上讀あげ百日に千枚の起請を書て參らせられたりけれども、叶はずして終に討たれ給ひけり。其後北條四郎時政を大將として討手のぼると聞えしかば、判官殿鎭西の方へ落ばやと思ひ立ち給ふ處に緒方三郎維義は平家を九國の内へも入奉らず、逐出す程の威勢の者なりければ、判官「我に憑まれよ。」と宣ひける。「さ候はば、御内に候菊池次郎高直は、年來の敵で候。給はて頸を切て憑まれ參らせん。」と申。左右なくたうだりければ、六條河原に引出して切てげり。其後維義かひ/\しう領状す。

同十一月二日、九郎大夫判官院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て、奏聞しけるは「義經君の御爲に奉公の忠を致す事、事あたらしう始て申上るに及候はず。しかるを頼朝、郎等共が讒言に依て、義經をうたんと仕候間暫く鎭西の方へ罷下らばやと存候。院の廳の御下文を一通下預候ばや。」

[_]
[1]と申されけれは
、法皇「此條頼朝がかへり聞かん事いかゞあるべからん。」とて諸卿に仰合られければ、「義經都に候て關東の大勢亂入候はゞ京都の狼藉絶え候べからず。遠國へ下候なば暫く其恐あらず。」とおの/\一同に申されければ、緒方三郎をはじめて、臼杵、戸次、松浦黨、惣じて鎭西の者共義經を大將として其下知にしたがふべき由廳の御下文を給はてければ、其勢五百餘騎明る三日卯刻に京都に聊の煩も成さず、波風も立てずして下りにけり。攝津の國源氏、太田太郎頼基、「我門の前を通しながら矢一つ射懸で有るべきか。」とて、河原津と云ふ所に追著て責戰ふ。判官は五百餘騎、太田太郎は六十餘騎にて有ければ、中に取籠め「餘すな泄すな。」とて散々に攻給へば、太田太郎吾身も手負ひ、家子郎等多く討せ、馬の腹射させて引退く。判官頸共切り懸けて、軍神に祭り、「門出好し。」と悦で大物浦より船に乘て下られけるが、折節西の風烈しく吹き住吉の浦に打上られて、吉野の奧にぞ籠りける。吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。奈良法師にせめられて、又都へ歸り入、北國にかゝて終に奧へぞ下られける。都より相具したりける女房達十餘人、住吉の浦に捨置きたれば、松の下、砂の上に袴蹈しだき、袖を片敷て泣臥したりけるを、住吉の神官共あはれんで、皆京へぞ送りける。凡判官の憑まれたりける伯父信太三郎先生義教、十郎藏人行家、緒方三郎維義が船共、浦々島々に打寄せられて、互に其行末をしらず。忽に西の風吹ける事も、平家の怨靈の故とぞおぼえける。同十一月七日鎌倉の源二位頼朝卿の代官として北條四郎時政、六萬餘騎を相具して都へ入。明る八日院參して伊豫守源義經、備前守同行家、信太三郎先生同義教、追討すべき由奏聞しければやがて院宣を下されけり。去二日は、義經が申請る旨に任せて、頼朝を背べき由廳の御下文成され、同八日は、頼朝卿の申状に依て、義經追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に變ずる世間の不定こそ哀なれ。

さる程に、鎌倉殿日本國の惣追捕使を給はて、段別に兵粮米を宛行ふべき由、申されければ、「昔より朝の怨敵を亡したる者は半國を給はるといふ事、無量義經に見えたり。されども吾朝にはいまだ其例なし。是は頼朝が過分の申状なり。」と法皇仰なりけれども、公卿僉議あて、「頼朝卿の申さるる處道理半なり。」とて諸卿一同に申されければ、御許されありけるとかや。諸國に守護を置き、庄園に地頭を補せらる。一毛許も隱べき樣なかりけり。鎌倉殿か樣の事、公家にも人多しといへども吉田大納言經房卿をもて奏聞せられけり。此大納言は、うるはしい人と聞え給へり。平家に結ぼほれたりし人々も、源氏の世の強りし後は或文を下し、或使者を遣し、樣々諂ひ給ひしかども、此人はさもし給はず。されば平家の時も法皇を鳥羽殿に押籠參せて後院の別當を置かれしにも、勘解由小路中納言、此經房卿二人をぞ後院の別當には成されたりける。權右中辨光房朝臣の子也。十二の年、父の朝臣失せ給ひしかば、孤にておはせしかども、次第に昇進滯らず、三事の顯要を兼帶して、夕郎の貫首を經、參議、大辨、太宰帥正二位大納言に至れり。人をば越給へ共、人には越られ給はず。されば人の善惡は、錐嚢をとほすとて遂に隱なし。有がたかりし人なり。

[_]
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, vol. 33, 1957; hereafter cited as NKBT) reads と申ければ.

六代

北條四郎策に「平家の子孫といはん人、尋出したらん輩に於ては、所望請ふに依べし。」と披露せらる。京中の者共案内は知たり、「勸賞蒙らん。」とて、尋求るぞうたてき。かゝりければ、幾等も尋出したりけり。下臈の子なれども、色白う眉目好きをば召し出いて「是はなんの中將殿の若君、彼少將殿の君達。」と申せば、父母泣悲めども、「あれは介錯が申候、あれは乳母が申。」なんど云ふ間、無下にをさなきをば水に入、土に埋み、少し長しきをば押殺し、刺殺す。母の悲み乳母が歎き喩へん方ぞ無りける。北條も子孫さすが多ければ、是をいみじとは思はねど、世に隨ふ習なれば、力及ばず。

中にも小松三位中將殿若君、六代御前とておはす也、平家の嫡々なる上、年もおとなしうまします也。如何にもしてとり奉らんとて、手を分てもとめられけれども、求かねて下らんとせられける所に、或女房の六波羅に出て申けるは「是より西遍照寺の奧、大覺寺と申す山寺の北の方、菖蒲谷と申す所にこそ、小松三位中將殿の北方、若君、姫君おはしませ。」と申せば、時政やがて人をつけて其邊を窺はせける程に、或坊に女房達少き人餘たゆゝしく忍びたる體にて住ひけり。まがきの隙よりのぞきければ、白い狗の走出たるを取らんとて、美氣なる若君の出給へば、乳母の女房と覺しくて、「あな淺まし、人もこそ見參らすれ。」とて、いそぎ引入奉る。「是ぞ一定そにておはしますらん。」と思ひ、急ぎ走り歸てかくと申せば、次の日北條かしこに打向ひ、四方を打圍み、人をいれていはせけるは、「平家小松三位中將殿の若君六代御前、是におはしますと承はて、鎌倉殿の御代官に北條四郎時政と申者が、御迎に參て候、はや/\出し參させ給へ。」と申されければ、母上之を聞給ふに、つや/\物も覺え給はず。齋藤五、齋藤六、走り廻て見けれども、武士ども四方を打圍み、いづかたより出し奉るべしともおぼえず。乳母の女房も、御前に倒臥し、聲も惜まずをめき叫ぶ。日比は物をだにも高く云はず、忍つゝ隱れ居たりつれども、今は家の中にありとあるもの聲をとゝのへて泣悲しむ。北條も是を聞て世に心くるしげに思ひ、涙拭ひつく%\とぞ待たれける。やゝ有て、重て申されけるは、「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき事もぞ候とて御迎に參て候。別の御事は候まじ。はや/\出し參らさせ給へ。」と申されければ、若君母上に申させ給ひけるは、「終に逃るまじう候へばとく/\出させおはしませ。武士共うち入て、さがす物ならば、うたて氣なる御有樣共を見えさせ給ひなんず。たとひ罷出で候とも、暫しも候はゞ、暇乞て歸參り候はん。痛な歎かせ給ひそ。」と。慰め給ふこそいとほしけれ。

さても有るべきならねば、母上泣々御ぐし掻撫で物著せ奉り、既に出し奉らんとし給ひけるが、黒木の珠數のちいさう美しいを取出して、是にて如何にも成らんまで、念佛申て、極樂へ參れよ。」とて奉り給へば、わか君是を取て、「母御前には今日既に離れ參せなんず。今は如何にもして、父のおはしまさん所へぞ參りたき。」と宣ひけるこそ哀なれ。是を聞いて御妹の姫君の十に成り給ふが、「我も父御前の御許へまゐらん。」とて、走り出給ふを、乳母の女房とり留め奉る。六代御前、今年は僅に十二にこそ成り給へども尋常の十四五よりは長しく、みめかたち優におはしければ、「敵に弱げを見えじ。」とて、押ふる袖の隙よりも、餘て涙ぞこぼれける。さて御輿に乘り給ふ。武士共前後左右に打圍で出にけり。齋藤五、齋藤六、御輿の左右に附いてぞ參りける。北條乘替共下して、乘すれども乘らず、大覺寺より六波羅まで徒跣にてぞ走ける。母上乳母の女房、天に仰ぎ地に伏して悶え焦れ給ひけり。「此日來平家の子供取集めて、水に入るゝもあり、土に埋むもあり。押殺し、刺殺し、樣々にすと聞ゆれば、我子は、何としてか失はんずらん。少し長しければ、頸をこそ切んずらめ。人の子は乳母などの許に置きて、時々見る事も有り。それだにも恩愛の道は悲しき習ひぞかし。況や是は生落して後、一日片時も身をはなたず。人の持たぬ物を持ちたる樣に思ひて、朝夕二人の中にてそだてし者を、憑をかけし人にもあかで別し其後は、二人をうらうへにおきてこそ慰みつるに、一人はあれども一人はなし。今日より後は如何がせむ。此三年が間、夜晝肝心を消しつゝ思ひ設つる事なれども、さすが昨日今日とは思寄らず、年比長谷の觀音をこそ深う憑み奉りつるに、終にとられぬる事の悲しさよ。唯今もや失ひつらん。」と掻口説泣より外の事ぞなき。さ夜深けれども胸せきあぐる心ちして露もまどろみ給はぬが、良有て乳母の女房に宣ひけるは、「只今ちと打目睡みたりつる夢に、此子が白い馬に乘りて來つるが、『あまりに戀しう思參せ候へば暫し暇乞うて參りて候。』とて、傍につい居て、何とやらん世に恨しげに思ひてさめ%\と泣きつるが、程なく打おどろかされて若やとかたはらを探れども人もなし。夢なりとも暫しもあらで、覺ぬる事の悲しさよ。」とぞ語り給ふ。乳母の女房も泣きけり。長き夜もいとど明しかねて涙に床も浮計なり。

限あれば、人曉を唱て夜もあけぬ。齋藤六歸り參りたり。「さて如何にやいかに。」と問ひ給へば「唯今までは別の御事も候はず。御文の候。」とて、取出いて奉る。あけて御覽ずれば「如何に御心苦しう思食され候らん。唯今までは別の事も候はず。いつしかたれ%\も御戀しうこそ候へ。」とよに長しやかに書き給へり。母上是を見給ひて、とかうの事ものたまはず。御文をふどころに引入てうつぶしにぞなられける。誠に心の中さこそはおはしけめと推量られて哀なり。

かくて遙に時刻推移りければ、齋藤六、「時の程も覺束なう候に、歸參らん。」と申せば、母上泣泣御返事書いて給でけり。齋藤六暇申て罷り出づ。乳母の女房責ても心のあられずさに、走り出でて何くを指ともなくその邊を足に任せて泣きありく程に、或人の申けるは、「此奧に高雄といふ山寺あり。その聖文覺坊と申人こそ、鎌倉殿にゆゝしき大事の人に思はれ參せておはしますが、上臈の御子を御弟子にせんとて、ほしがらるなれ。」と申ければ、嬉しき事を聞きぬと思ひて母上にかくとも申さず、唯一人高雄に尋入り、聖に向ひ奉て、「ちの中よりおほしたて參せて、今年十二に成らせ給ひつる若君を、昨日武士にとられて候。御命乞請參せ給ひて、御弟子にせさせ給ひなんや。」とて、聖の前に倒伏し、聲をも惜まず泣き叫ぶ。誠にせんかたなげにぞ見えたりける。聖無慚におぼえければ、事の仔細をとひ給ふ。起あがて泣々申けるは、「平家小松三位の中將の北方の親しうまします人の御子を養ひ奉るを、若中將殿の公達とや、人の申候ひけん。昨日武士の取り參せて罷り候ひぬるなり。」と申。「さて武士をば誰といひつる。」「北條とこそ申候ひつれ。」聖、「いでさらば行向ひて尋ねん。」とて、つき出ぬ。此詞を憑むべきにはあらねども、聖のかくいへば、今少し人の心ち出來て急ぎ大覺寺へ歸り參り、母上にかくと申せば、「身を投に出ぬるやらんと思ひて、我も如何ならん淵河にも身を投んと思ひたれば。」とて、事の仔細を問給ふ。聖の申つる樣を有のまゝに語りければ、「あはれ乞請て、今一度見せよかし。」とて、手を合せてぞ泣かれける。

聖六波羅に行むかて事の仔細を問ひ給ふ。北條申されけるは、「鎌倉殿の仰には、平家の子孫京中に多く忍んでありと聞く。中にも小松三位中將の子息中御門の新大納言の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々なる上年もおとなしかんなり。如何にも尋出して、失ふべしと、仰を蒙て候ひしが、此程末々のをさなき人をば少々取奉て候つれども、此若君は在所をしり奉らず、尋かねて既に空しう罷下らんとし候つるが、思はざる外、一昨日聞出して、昨日迎へ奉て候へども、斜ならず美しうおはする間、あまりに最愛くて未ともかうもし奉らで置き參らせて候。」と申せば、聖、「いでさらば見奉らん。」とて、若君のおはしける處へ參て見參せ給へば、二重織物の直垂に、黒木の數珠手に貫入ておはします。髮のかゝり姿骨柄誠にあてに美しく此世の人とも見え給はず。今夜打とけて、寢給はぬと覺しくて、少し面痩給へるにつけていとゞ心苦しうらうたくぞ覺えける。聖を御覽じて、何とかおぼしけん。涙ぐみ給へば、聖も是を見奉てそゞろに墨染の袖をぞ絞りける。縱ひ末の世に如何なるあた敵になるとも、いかゞ是を失ひ奉るべきと悲しうおぼえければ、北條に宣ひけるは、「此若君を見奉るに、先世の事にや候らん、餘りに最愛う思ひ奉り候。廿日が命を延べて給べ。鎌倉殿へ參て申預り候はむ。聖鎌倉殿を世にあらせ奉らんとて我身も流人でありながら院宣伺ひ奉らんとて京へ上るに、案内も知らぬ富士川の尻に夜渡り懸て、既に押流されんとしたりし事、高市の山にてひはぎにあひ、手をすて命ばかり生、福原の籠の御所へ參り、前右兵衞督光能卿に付き奉て院宣申出て奉りし時の御約束には、如何なる大事をも申せ、聖が申さん事をば、頼朝が一期の間は叶へんとこそ宣ひしか。其後も度々の奉公かつは見給ひし事なれば、事新う始めて申べきにあらず、契を重うし命を輕うす。鎌倉殿に受領神つき給はずば、よも忘れ給はじ。」とて、其曉立にけり。齋藤五、齋藤六、是をきゝ聖を生身の佛の如く思ひて、手を合て涙を流す。急ぎ大覺寺へ參て、この由申ければ、是を聞き給ひける母上の心の中いかばかりかは嬉かりけん。されども鎌倉のはからひなれば、いかゞあらんずらむと覺束なけれども、當時聖の憑し氣に申て下ぬる上、廿日の命の延給に、母上乳母の女房少し心も取延て、偏に觀音の御助なればと憑しうぞ思はれける。

かくてあかし暮し給ふ程に、廿日の過るは夢なれや。聖はいまだ見えざりけり、何と成ぬる事やらんとなか/\心苦うて、今更又悶え焦れ給ひけり。北條も、「文覺房の約束の日數もすぎぬ、さのみ在京して、年を暮すべきにもあらず。今は下らん。」とてひしめきければ、齋藤五、齋藤六、手を握り肝魂を碎けども、聖も未だ見え給はず、使者をだにも上せねば、思ふばかりぞ無りける。此等大覺寺へ歸り參て、「聖も未だ上り給はず、北條も曉下向仕候。」とて、左右の袖を顏に押當て涙をはらはらと流す。是を聞き給ひける母上の心の中如何ばかりかは悲しかりけむ。「哀長しやかならん者の聖の行逢ん所まで六代を具せよと言へかし。若乞請ても上らんに先に斬りたらん悲しさをば如何せむずる。さてとく失ひげなるか。」と宣へば、「やがて此曉の程とこそ見えさせ給候へ。其故は、此程御とのゐ仕候つる北條の家子郎等ども、よに名殘惜氣に思ひ參せて或は念佛申す者も候。或は涙を流す者も候。」「さて此子は何として有ぞ。」と宣へば、「人の見まゐらせ候時は、さらぬ樣にもてないて、御數珠をくらせおはしまし候が、人の候はぬ時は、御袖を御顏に押當て、涙に咽ばせ給ひ候。」と申。「さこそあるらめ。をさなけれども、心長しやかなる者なり。今夜限りの命と思て、いかに心細かるらん。暫しもあらば、いとま乞て參らんといひしかども、廿日にあまるに、あれへも行かず、是へも見えず。今日より後又何れの日何れの時相見るべしともおぼえず。さて汝等は如何が計らふ」と宣へば、「是はいづくまでも御供仕り、むなしう成せ給ひて候はゞ御骨を取り奉り高野の御山に納奉り、出家入道して後世を弔ひまゐらせんとこそ思ひなて候へ。」と申。「さらば餘りに覺束なう覺ゆるに、とう歸れ。」と宣へば、二人の者泣々暇申て罷出づ。さる程に、同十二月十六日北條四郎若君具し奉て既に都を立にけり。齋藤五、齋藤六、涙にくれて行先も見えねども、最後の所までと思ひつゝ泣々御供に參りけり。北條、「馬に乘れ。」と云へども乘らず。「最後の供で候へば、苦しう候まじ。」とて、血の涙を流しつつ脚にまかせてぞ下ける。六代御前はさしも離れ難くおぼしける母上乳母の女房にも別果て、住馴し都をも雲井の餘所に顧みて、今日を限の東路におもむかれけん心の中、推量られて哀なり。駒を早むる武士あれば、我頸討んずるかと肝をけし、物言ひかはす人あれば、既に今やと心を盡す。四宮河原と思へ共、關山をも打越えて、大津の浦に成にけり。粟津が原かと窺へども今日もはや暮にけり。國々宿々打過々々行程に、駿河國にもつき給ひぬ。若君の露の御命、今日を限とぞ聞えける。

千本の松原に武士共皆下り居て御輿舁居させ、敷皮敷いて若君を居奉る。北條四郎若君の御前近う參て申されけるは、「是まで具し參せ候つるは別の事候はず。若道にて聖にもや行逢ひ候、と待ち過し參せ候つる也。御心ざしの程は見えまゐらせ候ぬ。山のあなたまでは、鎌倉殿の御心中をも知りがたう候へば、近江國にて失ひ參せて候由披露仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれば、よも叶はじ。」と泣々申ければ、 若君ともかうも其返事をばし給はず。齋藤五、齋藤六をちかう召て、「我如何にも成りなん後、汝等都に歸て、穴賢、道にてきられたりとは申すべからず。其故は、終には隱れあるまじけれども、正しう此有樣聞いて、餘に歎き給はゞ、草の影にても心苦しうおぼえて後世の障りともならんずるぞ。鎌倉まで送りつけて參て候と申べし。」と宣へば、二人の者共肝魂も銷果て暫しは御返事にも及ばず。稍有て齋藤五「君におくれまゐらせて後命生て安穩に都まで上りつくべしとも覺候はず。」と涙を抑てふしにけり。既に今はの時に成しかば、若君御ぐしの肩にかゝりたりけるを、よにうつくしき御手をもて前へ打越し給ひたりければ、守護の武士ども見まゐらせて「あないとほし。いまだ御心のましますよ。」とて皆袖をぞぬらしける。其後西にむかひ手を合て靜に念佛唱つゝ頸をのべてぞ待給ふ。狩野工藤三親俊切手にえらばれ、太刀を引側めて左の方より御後に立廻り、既に切り奉らんとしけるが、目も暮れ心も消果て、何くに太刀を打つくべしとも覺えず、前後不覺に成りしかば、「仕つとも覺候はず、他人に仰附られ候へ。」とて、太刀を捨て退にけり。「さらば、あれ切れ、これ切れ。」とて、切手を選ぶ處に、墨染の衣著て月毛なる馬に乘たる僧一人、鞭をあげてぞ馳たりける。「あないとほし、あの松原の中に、世にうつくしき若君を、北條殿の斬らせたまふぞや。」とて、者どもひし/\と走り集りければ、此僧「あな心う」とて、手をあがいてまねきけるが、猶おぼつかなさに、きたる笠をぬぎ、指上てぞ招ける。北條「仔細あり。」とて待處に此僧走ついて、急ぎ馬より飛おり、暫く息を休めて、「若君許されさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候。」とて取出して奉る。北條披て見給へば、誠や、

小松三位中將維盛卿子息尋出され候なる高雄の聖御房申請けんと候。疑をなさず預け奉るべし。

北條四郎殿へ    頼朝

とあそばして御判あり。二三遍推返し々々讀で後、「神妙々々」とて打置れければ、齋藤五、齋藤六はいふに及ばず、北條の家子郎等共も皆悦の涙をぞ流しける。

長谷六代

さる程に、文覺房もつと出きたり、若君乞請たりとて、氣色誠にゆゆしげなり。 「『此若君の父三位中將殿は、初度の戰の大將軍也。誰申とも叶ふまじ。』と宣ひつ れば『文覺が心を破ては、爭か冥加もおはすべき。』など惡口申つれども、猶『叶ま じ。』とて、那須野の狩に下り給し間、剩文覺も狩場の供して、漸々に申てこひ請た り。いかに遲うおぼしつらん。」と申されければ、北條「廿日と仰せられ候ひし御約 束の日數も過候ぬ。鎌倉殿の御宥れなきよと存じて、具し奉て下る程に、かしこうぞ、 爰にて誤ち仕候らんに。」とて、鞍置て引せたる馬共に齋藤五、齋藤六を乘せて上せ らる。我身も遙に打送り奉て、「暫く御供申たう候へども、鎌倉殿に指て申べき大事 共候。暇申て。」とて打別れてぞ下られける。誠に情深かりけり。

聖若君を請とり奉て、夜を日についで馳上る程に、尾張國熱田の邊にて、今年も既に暮ぬ。明る正月五日の夜に入て、都へ上り著く。二條猪熊なる所に、文覺坊の宿房ありければ、其に入奉て、暫く休奉り、夜半ばかり大覺寺へぞおはしける。門をたゝけども、人なければ音もせず。築地の壞より若君の飼ひ給ひける白い狗の走り出て、尾を振て向ひけるに、若君「母上はいづくに在ますぞ。」ととはれけるこそせめての事なれ。齋藤六、築地を越え、門を開て入奉る。近う人の住だる所とも見えず。若君「いかにもしてかひなき命をいかばやと思しも戀しき人を今一度見ばやと思ふ爲なり。こはされば何と成り給ひけるぞや。」とて夜もすがら泣悲み給ふぞ誠に理と覺えて哀なる。夜を待明して近里の者に尋給へば、「年の内は大佛參りとこそ承候ひしか。正月の程は、長谷寺に御籠と聞え候しが、其後は御宿所へ人の通ふとも見え給はず。」と申ければ、齋藤五急ぎ長谷へ參て尋あひ奉り、此由申ければ、母上、乳母の女房つや/\現とも覺え給はず、「是はされば夢かや夢か。」とぞ宣ひける。急ぎ大覺寺へ出させたまひ、若君を御覽じて嬉しさにも只先立つ物は涙なり。「疾々出家し給へ。」と仰られけれども、聖惜み奉て、出家もせさせ奉らず。やがて迎へとて高雄に置奉り、北の方の幽なる御有樣をも訪ひけるとこそ聞えし。觀音の大慈大悲は、罪有も罪無をも助給へば昔もかゝるためし多しといへども、ありがたかりし事共なり。

さる程に北條四郎六代御前具し奉て下りけるに、鎌倉殿御使鏡宿にて行合たりけるに、「如何に」と問へば、「十郎藏人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞え候。討奉れとの御氣色で候。」と申。北條「吾身は大事の召人具したれば。」とて甥の北條平六時貞が送りに下りけるを、おいその森より「疾和殿は歸て此人人おはし處聞出して討て參せよ。」とてとゞめらる。平六都に歸て尋る程に十郎藏人殿の在所知たりといふ法師出來たり。彼僧に尋れば「我はくはしうはしらず、知りたりといふ僧こそあれ。」といひければ、押寄せて彼僧を搦捕る。「是はなんの故に搦るぞ」。「十郎藏人殿の在所知たなれば搦むる也。」「さらば教へよとこそいはめ。さうなうからむる事は如何に。天王寺にとこそ聞け。」「さらばじんじよせよ。」とて、平六が聟の小笠原十郎國久、殖原九郎、桑原次郎、服部平六を先として其勢三十餘騎、天王寺へ發向す。十郎藏人の宿は二所あり。谷の學頭伶人兼春秦六秦七と云者の許也。二手に作て押寄たり。十郎藏人は兼春が許におはしけるが、物具したる者共の打入を見て後より落にけり。學頭が娘二人あり。ともに藏人のおもひものなり。是等を捕へて藏人のゆくへを尋ぬれば姉は「妹に問へ。」といふ。妹は「姉に問へ。」といふ。俄に落ぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。

藏人は熊野の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足を疾ければ、和泉國八木郷といふ處に逗留してこそ居たりけれ。彼の主の男、藏人を見知て夜もすがら京へ馳上り、北條平六につげたりければ「天王寺の手の者はいまだのぼらず、誰をか遣るべき。」とて大源次宗春といふ郎等をようで「汝が宮立たりし山僧はいまだあるか。」「さ候。」「さらば呼べ。」とて、喚ばれければ、件の法師出來たり。「十郎藏人のまします。討て鎌倉殿に參せて御恩蒙り給へ。」と云ければ、「承り候ぬ。人を給び候へ。」と申。「軈て大源次下れ、人もなきに。」とて舍人雜色人數僅に十四五人相そへてつかはす。常陸房正明と云者也。和泉國に下つき彼家に走り入て見れ共なし。板敷打破てさがし、塗ごめの内を見れ共なし。常陸房大路に立て見れば、百姓の妻とおぼしくて長敷き女の通りけるを捕へて、「此邊に恠しばうたる旅人のとどまたる處やある。いはずば切て捨ん。」と云へば、「只今さがされ候つる家にこそ夜邊まで世に尋常なる旅人の二人とどまて候つるが、今朝など出て候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ。」と云ひければ、常陸房黒革威の腹卷の袖著けたるに大太刀帶て彼家に走入てみれば、歳五十計なる男のかちの直垂に折烏帽子著て唐瓶子菓子などとりさばくり、銚子どももて酒勸めむとする處に、物具したる法師の打入を見て、かいふいて逃ければやがて續いて逐懸たり。藏人「あの僧。や、それは在ぬぞ。行家はこゝにあり。」と宣へば、走歸て見るに白い小袖に大口ばかり著て、左の手には金作りの小太刀をもち、右の手には野太刀の大なるを持たれたり。常陸房「太刀投させ給へ。」と申せば、藏人大に笑はれけり。常陸房走寄てむずと切る。丁と合せて跳り退く。又寄て切る。丁と合せてをどりのく。寄合寄逃き一時ばかりぞ戰うたる。藏人後なる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房「まさなう候。な入せ給ひ候そ。」と申せば、「行家もさこそ思へ。」とて又跳り出て戰ふ。常陸房太刀を棄てむずと組んでどうと臥す。上に成り下に成り、ころび合ふ處に、大源次つと出きたり。餘に遽てゝ帶たる太刀をば拔で、石を握て藏人の額をはたと打て打破る。藏人大に笑て「己は下臈なれば。太刀長刀でこそ敵をばうて。礫にて敵打樣やある。」常陸房「足を結へ。」とぞ下知しける。常陸房は敵が足を結へとこそ申けるに、餘に遽てて四の足をぞ結たりける。其後藏人の頸に繩を懸て搦め引起して押居たり。「水參せよ。」と宣へば干飯を洗て參せたり。水をばめして、干飯をばめさず差し置き給へば、常陸房取て食うてけり。「和僧は山法師か。」「山法師で候。」「誰といふぞ。」西塔の北谷法師常陸房正明と申者で候。」「さては行家に仕はれむといひし僧か。」「さ候。」「頼朝が使か。平六が使歟。」「鎌倉殿の御使候。誠に鎌倉殿をば討參せんと思めし候ひしか。」「是程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思ひつる。」と宣へば、「山上にて多の事に逢て候に、未だ是程手剛き事に合候はず、よき敵三人に逢たる心地こそし候つれ。」と申す。「さて正明をばいかゞ思召され候つる。」と申せば、「それはとられなん上は。」とぞ宣ひける。「其太刀取寄せよ。」とて見給へば、藏人の太刀は一所も不切常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。やがて傳馬立させ乘奉て上るほどに、其夜は江口の長者が許に泊て夜もすがら使を走らかす。明る日の午刻ばかり北條平六其勢百騎ばかり旗さゝせて下るほどに淀の赤井河原で行合たり。「都へはいれ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御氣色も其儀でこそ候へ。はや/\御頸を給はて鎌倉殿の見參にいれて御恩蒙り給へ。」といへば、さらばとて赤井河原で十郎藏人の頸を切る。

信太三郎先生義教は醍醐の山に籠たる由聞しかば、おし寄てさがせどもなし。伊賀の方へ落ぬと聞えしかば、服部平六を先として伊賀國へ發向す。千度の山寺にありと聞えし間、押寄てからめんとするに袷の小袖に大口ばかり著て金にて打くゝんだる腰の刀にて腹掻切てぞ伏たりける。頸をば服部平六とてけり。やがて持せて京へ上り、北條平六に見せたりければ「やがて持せて下り、鎌倉殿の見參に入て御恩蒙給へ。」といひければ常陸房服部各頸共持せて鎌倉へ下り見參に入たりければ、「神妙なり。」とて常陸房は笠井へ流さる。「下りはては勸賞蒙らんとこそ思ひつるに、さこそ無らめ、剩流罪に處せらるゝ條存外の次第也。かかるべしと知りたらば、何しか身命を捨けん。」と後悔すれども甲斐ぞなき。されども中二年といふに召返され「大將軍討たる者は冥加のなければ一旦戒めつるぞ。」とて但馬國に多田庄、攝津國に葉室二箇所給はて歸り上る。服部平六平家の祗候の人たりしかば沒官せられたりける服部かへし給はてけり。

六代被斬

さる程に、六代御前はやう/\、十四五にも成給へば、みめ容いよ/\うつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。母上是を御覽じて「哀れ世の世にてあらましかば、當時は近衞司にてあらんずるものを。」と、宣ひけるこそ餘りの事なれ。鎌倉殿常は覺束なげにおぼして高雄の聖の許へ便宜毎に、「さても維盛卿の子息、何と候やらむ。 昔頼朝を相し給し樣に、朝の怨敵をも滅し會稽の恥をも雪むべき仁にて候か。」と尋 ね申されければ、聖の御返事には、「是は底もなき不覺仁にて候ぞ。御心安う思しめ し候へ。」と申されけれども、鎌倉殿猶も御心ゆかずげにて「謀反をだに起さば、や がて方人せうずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か傾くべき、子孫の末ぞ知らぬ。」 と宣ひけるこそ怖しけれ、母上是を聞き給ひて、「如何にも叶まじ。はや/\出家し給へ。」と仰ければ、六代御前十六と申し文治五年の春の比、うつくしげなる髮を肩のまはりに鋏み落し柿の衣袴に笈など拵へ聖に暇乞うて修行に出でられけり。齋藤五、齋藤六も同じ樣に出立て、御供申けり。先づ高野へ參り父の善知識したりける瀧口入道に尋合ひ御出家の次第臨終の有樣、委敷う聞給ひて、且うは其御跡もゆかしとて、熊野へ參給ひけり。濱の宮の御前にて父の渡り給ひける山なりの島を見渡して、渡らまほしくおぼしけれ共、波風向うて叶はねば、力及ばで、詠めやり給ふにも我父は何くに沈み給ひけんと、沖より寄する白波にも、問まほしくぞ思はれける。汀の沙も父の御骨やらんとなつかしうおぼしければ、涙に袖はしをれつゝ鹽くむ海士の衣ならね共、乾く間なくぞ見え給ふ。渚に一夜逗留して念佛申經讀み指の先にて沙に佛の形をかき現して、明ければ貴き僧を請じて父の御爲と供養して、作善の功徳さながら聖靈に廻向して亡者に暇申つゝ泣々都へ上られけり。

小松殿の御子丹後侍從忠房は八島の軍より落て行末も知らずおはせしが、紀伊國の住人湯淺權守宗重を憑んで湯淺の城にぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨四郎兵衞以下の兵共著き奉由聞えしかば、伊賀、伊勢兩國の住人等、我も我もと馳集る。究竟の者共數百騎たてこもたる由聞えしかば、熊野別當、鎌倉殿より仰を蒙て兩三月が間、八箇度寄せて責戰ふ。城の内の兵共命を惜まず、防ぎければ毎度に御方追散され、熊野法師數をつくいて討れにけり。熊野別當、鎌倉殿へ飛脚を奉て當國湯淺の合戰の事兩三ケ月が間に八箇度寄て責戰ふ。されども城の内の兵共命を惜まず、防ぐ間毎度に味方おひ落されて、敵をしへたぐるに及ばず。近國二三ケ國をも給はて攻め落すべき由申たりければ、鎌倉殿「其條、國の費、人の煩なるべし。楯籠所の凶徒は定めて海山の盗人にてぞあらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を固めて守るべし。」とぞ宣ひける。其定にしたりければ、げにも後には人一人もなかりけり。鎌倉殿謀に「小松殿の君達の一人も二人も生殘り給ひたらんをば扶け奉るべし。其故は池の禪尼の使として頼朝を流罪に申宥られしは偏に彼内府の芳恩也。」と宣ひければ、丹後侍從六波羅へ出てなのられけり。軈て關東へ下奉る。鎌倉殿對面して「都へ御上り候へ。片ほとりに思ひ當て參らする事候。」とてすかし上せ奉り追樣に人を上せて勢多の橋の邊にて切てけり。

小松殿の君達六人の外に土佐守宗實とておはしけり。三歳より大炊御門の左大臣經宗卿の養子にて異姓他人になり、武藝の道をば打棄てて文筆をのみ嗜て今年は十八に成り給ふを鎌倉殿より尋はなかりけれども、世に憚て追出されたりければ、先途を失ひ大佛の聖俊乘房のもとにおはして「我は是小松の内府の末の子に土佐守宗實と申者にて候。三歳より大炊御門左大臣經宗養子にして異姓他人になり、武藝のみちをうち捨て、文筆をのみたしなんで生年十八歳に罷成。鎌倉殿より尋らるる事は候はねども、世におそれておひ出されて候。聖の御房御弟子にせさせ給へ。」とて髻推切給ひぬ。「それも猶怖しう思食さば鎌倉へ申て、げにも罪深かるべくは何くへも遣せ。」と宣ひければ、聖最愛思ひ奉て出家せさせ奉り、東大寺の油倉と云所に暫く置奉て關東へ此由申されけり。「何樣にも見參してこそともかうもはからはめ。先づ下し奉れ。」と宣ひければ、聖力及ばで關東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし日よりして飮食の名字を絶て湯水をも喉へいれず、足柄越て關本と云所にて遂に失給ぬ。「如何にも叶まじき道なれば。」とて思切られけるこそ怖ろしけれ。

さる程に建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して、同九日正二位大納言に成り給ふ。同十一日大納言の右大將を兼じ給へり。やがて兩職を辭て十二月四日關東へ下向。 建久三年三月十三日法皇崩御なりにけり。御歳六十六。瑜珈振鈴の響は其夜を限り、 一乘案誦の御聲は其曉に終ぬ。

同六年三月十三日大佛供養有るべしとて二月中に鎌倉殿又御上洛あり。同十二日大佛殿へ參せ給ひたりけるが、梶原を召て「手かいの門の南の方に大衆なん十人を隔てゝ怪しばうだる者の見えつる。召捕て參らせよ。」と宣ひければ、梶原承てやがて召具して參りたり。鬚をば剃て髻をば切らぬ男也。「何者ぞ。」ととひ給へば、「是程運命盡果て候ぬる上はとかう申すに及ばず。是は平家の侍薩摩中務家資と申者にて候。」「それは何と思ひてかくは成りたるぞ。」「もしやとねらひ申候つる也。」「志の程はゆゝしかりけり。」とて供養果てて都へ入せ給ひて、六條河原にて切られにけり。

平家の子孫は去文治元年冬の比一つ子二つ子をのこさず腹の内をあけて見ずと云ばかりに尋取て失ひてき。今は一人もあらじと思ひしに、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠とておはしき。平家都を落し時三歳にて棄置かれたりしを乳母の紀伊次郎兵衞爲教養ひ奉てこゝかしこに隱れありきけるが、備後國大田といふ所に忍びつゝ居たりけり。やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護恠しみける程に都へ上り法性寺の一の橋なる所に忍んでおはしけり。爰祖父入道相國自然の事のあらん時城廓にもせんとて堀を二重に堀て四方に竹を栽られたり。逆茂木引て晝は人音もせず、夜になれば尋常なる輩多く集て詩作り歌を讀み管絃などして遊びける程に何としてか漏れ聞えたりけん、其比人のおぢ怖れけるは一條の二位入道義泰といふ人也。其侍に後藤兵衞基清が子に新兵衞基綱「一の橋に違勅の者あり。」と聞出して、建久七年十月七日辰の一點に其勢百四五十騎一の橋へ馳せ向ひ、をめき叫んで攻め戰ふ。城の内にも三十餘人有ける者共大肩脱に袒いで竹の陰より差詰引詰さんざんに射れば、馬人多く射殺されて面を向ふべき樣もなし。「さる程に一の橋に違勅の者あり。」と聞傳へ在京の武士共我も我もと馳つどふ。程なく一二千騎に成りしかば、近邊の小家を壞ち寄せ堀を填めをめき叫んで攻入けり。城の内の兵共打物拔で走出で、或は討死する者もあり、或は痛手負て自害する者もあり。伊賀大夫知忠は生年十六歳に成られけるが、痛手負て自害し給ひたるを乳母の紀伊次郎兵衞入道膝の上に舁乘せ、涙をはら/\と流いて高聲に十念唱へつつ腹掻切てぞ死にける。其子の兵衞太郎、兵衞次郎共に討死してんげり。城の内に三十餘人有ける者共大略討死自害して館には火を懸けたりけるを武士共馳入て手々に討ける頸共太刀長刀の先に貫ぬき二位入道殿へ馳參る。一條の大路へ車遣出して頸共實檢せらる。紀伊次郎兵衞入道の頸をば見知たる者も少々在り。伊賀大夫の頸、人爭か見知り奉べき。此人の母上は治部卿局とて八條女院に候はれけるを迎へ寄せ奉て見せ奉り給ふ。「三歳と申し時、故中納言に具せられて西國へ下りし後は生たり共死たりとも其行へを知らず、但故中納言の思出る所々のあるはさにこそ。」とて被泣けるにこそ伊賀大夫の頸とも人知てげれ。

平家の侍越中次郎兵衞盛嗣は但馬國へ落行て氣比四郎道弘が聟に成てぞ居たりける。道弘越中次郎兵衞とは知らざりけり。されども錐嚢にたまらぬ風情にて夜になれば、しうとが馬引出いて馳引したり。海の底十四五町二十町潜などしければ、地頭守護恠しみける程に何としてか漏聞えたりけん。鎌倉殿御教書を下されけり。「但馬國の住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衞盛嗣當國に居住の由聞食す。めし進せよ。」と仰下さる。氣比四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、呼び寄せて「いかゞして搦めんずる。」と議するに、湯屋にてからむべしとて湯に入れてしたゝかなる者五六人おろし合せてからめんとするに、取つけば投倒され、起上れば蹴倒さる。互に身は濕たり、取もためず。されども衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打惱して搦捕、やがて關東へ參せたりければ、御前に引居させて事の子細を召問はる。「如何に汝は同平家の侍と云ながら故親にてあんなるに、何とてしなざりけるぞ。」「其れはあまりに平家の脆く滅て在し候間、若やとねらひ參らせ候つるなり。太刀のみの好をも征矢の尻の鐡好をも鎌倉殿の御爲とこそ拵へ持て候つれども、是程に運命盡果候ぬる上はとかう申におよび候はず。」「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんはいかに。」と仰ければ、「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては必ず御後悔候べし。只御恩には疾々頸を召され候へ。」と申ければ、「さらば切れ。」とて由井の濱に引出いて切てげり。ほめぬ者こそなかりけれ。

其比の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道は一向卿の局のまゝなりければ、人の愁歎もやまず。呉王劔客を好んじかば、天下に疵を蒙る者たえず。楚王細腰を愛せしかば、宮中に飢て死する女多かりき。上の好に下は隨ふ間世の危き事を悲んで有心人々は歎きあへり。こゝに文覺本より怖き聖にて、いろふまじき事にいろひけり。二の宮は、御學問怠らせ給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、如何にもして、此宮を位に即奉らんとはからひけれども、前右大將頼朝卿のおはせし程は叶はざりけるが、 建久十年正月十三日、頼朝卿失せ給ひしかば、やがて謀反を起さんとしける程に忽に 洩聞えて、二條猪熊の宿所に官人共つけられ召捕て八十に餘て後隱岐國へぞ流されけ る。文覺京を出るとて、「是程老の波に望て、今日明日とも知ぬ身を、縱勅勘なりと も都の片邊には置給はで隱岐國まで流さるる及丁冠者こそ安からね。終には文覺が流 さるゝ國へ迎へ申さんずるものを。」と、申けるこそ怖しけれ。此君は餘に毬杖の玉 を愛せさせ給ひければ文覺かやうに惡口申ける也。されば承久に御謀反起させ給ひて、 國こそ多けれ、隱岐國へうつされ給ひけるこそ不思議なれ。彼國にても文覺が亡靈荒て、 常は御物語申けるとぞ聞えし。

さる程に六代御前は、三位禪師とて、高雄に行ひすましておはしけるを、「さる人の子也。さる人の弟子なり。首をば剃たりとも、心をばよも剃じ。」とて、鎌倉殿より頻に申されければ、安判官資兼に仰せて召捕て、關東へぞ下されける。駿河國の住人岡邊權守泰綱に仰せて、田越河にて、切れてけり。十二の歳より三十に餘まで保ちけるは、偏に長谷の觀音の御利生とぞ聞えし。それよりしてこそ平家の子孫は永く絶にけれ。

平家物語卷第十二 慶安三年十一月廿九日  佛子有阿書