九
私は
光
(
ひかる
)
のためにあのことも書いて置きませう。これは
一昨年
(
をとヽし
)
の
歳暮
(
せいぼ
)
のことでした。ある日の午後学校から帰りました
茂
(
しげる
)
が
護謨
(
ごむ
)
鞠
(
まり
)
を
欲
(
ほ
)
しいと頼むものですから、私は
光
(
ひかる
)
に買つて来て遣ることを命じたのでした。簡単な買物として私は
光
(
ひかる
)
の経験にとも思つて出したのでした。
清
(
きよし
)
さんの
家
(
うち
)
の
譲
(
ゆづる
)
さんにも頼んで一緒に行つて貰つたのです。麹町の通りで
購
(
あがな
)
はれた
鞠
(
まり
)
は
直
(
す
)
ぐ
茂
(
しげる
)
の手へ渡されたのです。
茂
(
しげる
)
は嬉しさに
元園町
(
もとぞのちやう
)
の辺りでは
鞠
(
まり
)
を上へ放り上げながら歩いて居たのです。どうした拍子にか
鞠
(
まり
)
はあの
阪
(
さか
)
の中途にある
米何
(
こめなに
)
とか云ふ
邸
(
やしき
)
の門の中へ落ちたのださうです。
光
(
ひかる
)
自身の物であればあの
恥
(
はづか
)
しがる子がどうして知らない家へ拾ひに
入
(
はひ
)
りませう、また貧しいと云つても自分の親には十や二十の
鞠
(
まり
)
を買ふだけの力はあると信じて居ますから、もう一度帰つてから麹町の
通
(
とほり
)
まで
行
(
ゆ
)
けばいいと諦めた
丈
(
だけ
)
で帰るのだつたのです。今の今迄
悦
(
よろこ
)
んで居た弟の淋しい泣顔を見てはじつとして居られないやうな気がしたのでせう、
然
(
しか
)
もまだ二人だけであつたなら手を取り合つて帰つて来たかも知れませんが、
従弟
(
いとこ
)
の心も自分と同じやうに
茂
(
しげる
)
のために
傷
(
いた
)
められて居るのであらうと見ては、一番年上の自分が勇気を出して見なければならないと思つたのでせう、
光
(
ひかる
)
はその
米何
(
こめなに
)
の門を五六歩
入
(
はひ
)
つて行つたのださうです。それだけで十一年の間
玉
(
たま
)
のやうに私の思つて来た子は無名の富豪の
僕
(
ぼく
)
に罵られたのです。
辱
(
はづかし
)
められたのです。
光
(
ひかる
)
は多くを云ひませんし、私も尋ねないでそれで済んだのですが、私の心は長い間その事から離れませんでした。
僕
(
ぼく
)
を老人として赤ら顔の酒臭い男を思つて見たり、若くて背中の曲がつた男かと思つて見たり、
車夫
(
しやふ
)
姿をした男かと思つて見たり、我子を罵つた言葉は越後訛か、奥州訛かと考へて見たり、門内の物は塵一本でも自家の所有物であると、ねちねちと物を言ふ半商人、半書生が憎まれたりもしました。人の子を瓦の
片
(
はし
)
のやうに思つて居るそんな人間を養つて置く広い
邸
(
やしき
)
や無用な塀の多い街を私は我子を置いて死に
得
(
う
)
る
処
(
ところ
)
とはよう思ひません。ウイインの王宮の庭は平民達の通路になつて居るではありませんか。であるからヨセフ老帝は薄命だと云はれるのである、自身の居る窓の下に旅人の
煙草
(
たばこ
)
の吸殻を捨てさせるなどとは憐むべきである、
絶東
(
ぜつとう
)
の
米何
(
こめなに
)
だけの
威
(
ゐ
)
をもよう張らないのであると
米何
(
こめなに
)
は思つて居るかも知れません。私は
米何
(
こめなに
)
を無名の人と書きましたが、あの海軍の収賄問題のやかましい頃に贈賄者として検挙される
筈
(
はず
)
であるとか、家宅捜索を受けたとか、
度々
(
たび/\
)
米何
(
こめなに
)
の名は新聞に伝へられましたから、そんな意味に
於
(
おい
)
ての名はある人なのでせう。