遺書
與謝野晶子 (Isho) | ||
六
私は阪本さんのために珍しく笑はせられながら、床の間の 玩具棚 ( おもちやだな ) を 灯 ( ひ ) の光で見ようとして 行 ( ゆ ) くのです。下の棚はがら 空 ( あき ) になつて居るのです。二段目にも隅の 方 ( はう ) に三郎のだつたがらがらが一つあるだけなのです。 花樹 ( はなき ) があの欠けた 珈琲 ( こうひー ) 道具も、壊れかかつた物干の 玩具 ( おもちや ) も持つて行つたのかなどと私は思ふと云ふのです。三段目には蒲団が敷かれて人形の二つが並んで寝て居るのです。その前には 木 ( こ ) の葉や花の御馳走が供へられてあるのです。 一人 ( ひとり ) 前だけです。 花樹 ( はなき ) さんお飲みなさいよと云つてあの茶碗の水は 注 ( つ ) がれたのであらうと私は想像をするのです。一番上の人形ばかりの段を見ますと、二つづヽあつたのが皆 対 ( つゐ ) をなくして居るのです。 瑞樹 ( みづき ) だけでなくて沢山 双生児 ( ふたご ) の 欠片 ( かけら ) が出来たと私は驚きます。
私はもう帰らうとしてまた台所の 方 ( はう ) を 一寸 ( ちよつと ) 覗 ( のぞ ) きに 行 ( ゆ ) く気になると云ふのです。
また電気灯を 点 ( とも ) すと、白つぽくなつた 壁際 ( かべぎは ) の二段の吊棚が目の前へ現はれて来るのです。私は 洋杯 ( こつぷ ) の中に 入 ( はひ ) つた三郎の使ひ残した 護謨 ( ごむ ) の 乳首 ( ちヽくび ) に 先 ( ま ) づ目が附きます。丁度二時頃の今時分に毎夜 此処 ( ここ ) へ 牛乳 ( ちヽ ) を取りに来た、自身でそれをしに来られなくなつた頃から私はもう死を 覚期 ( かくご ) したなどヽ思ひ出すのです。 埃 ( ほこり ) の溜つた棚の向うの隅には懐中鏡が立てヽあるのです。 洗粉 ( あらひこ ) のはみ出した袋なども私は 苦々 ( にが/\ ) しく思つて眺めるのです。 併 ( しか ) し私が居たからと云つても、心でくさくさと思ふだけで、表に現れる 処 ( ところ ) では有つても無くても同じ程な寛容な主婦なのであると思ふのです。女中に対する寛容は私の美徳でも何でもなかつた
のである、私は我身を惜んで、 一日 ( いちにち ) でも 二日 ( ふつか ) でも女中の居なくなつて下等な労働をさせられてはならないと思ふ心を離さなかつたからであるなどとも思ふのです。私はふと 水口 ( みづくち ) の土間に泥の附いた長靴があるのを見るのです。 誰 ( たれ ) のであらう、もとよりあなたのではない、書斎も玄関も通らなかつたけれど、これを穿いて来たやうな客の寝て居る風はなかつた、 盗賊 ( どろばう ) のではないかと思つて戸の 方 ( はう ) を見ても、 硝子 ( ガラス ) 戸もその向うの戸もきちんと 閉 ( しま ) つて居るのです。私はそのうち板の間に並んだ女中部屋から 烈 ( はげ ) しい男の寝息の 聞 ( きこ ) えて来るのに気が附くと云ふのです。二人の女中と一足の長靴と云ふことで私は 暫 ( しばら ) く 怖 ( おび ) えさせられて居ると云ふのです。阪本さんはあんなことを云ふが、この上主人が 夜泊 ( よどま ) りでもするやうになつては困つてしまふではないかなどと思つたと云ふのです。確かそれでおしまひなのでした。これは書いたのを 直 ( す ) ぐ破つてしまつたのでした。前に書いた覚書は 何処 ( どこ ) かヽら出て来ることもあるでせう。私にはまだ書かうと思つて書かないでしまつた遺書もあるのです。あの腎臓炎を 煩 ( わづら ) つた前のことだつたやうに思ひます。あの時分の私は、あなたの妹さんのお 艶 ( つや ) さんは私の代りになつて、私以上にも子供を可愛がつて教育して下さる 方 ( かた ) に違ひないと信じ切つて居ました。 何時 ( いつ ) 死んでも 好 ( い ) いと云ふ位に思つてゐましたから、どうぞ 継母 ( まヽはヽ ) に任せないで、生理的の事情から一生独身で居ると云ふことになつて居るお 艶 ( つや ) さんに私の子をすつかり育てヽ貰つて下さいとかう書かうと思つて居たのでした。
遺書
與謝野晶子 (Isho) | ||