遺書
與謝野晶子 (Isho) | ||
五
そのうち 光 ( ひかる ) がのんびりした寝顔になるのを見て、私の心はだんだんその美に引き入れられながら、何と云ふ綺麗な子であらう、私はこんな美しい物を見たことがない、生きて居た日にはもとより、天上の果てから地の底までも見ようと思つて歩いている今でさへも見ることのない美しさであると思ふのです。私は渋谷の丘の上の家で、初めて自分の分身として 光 ( ひかる ) を見た時の満足にも劣らない満足さを感じるのですが、やはりあの時のやうに目を 開 ( あ ) いて居ない、 真紅 ( まつか ) な唇は柔かく 閉 ( とざ ) されて鼻の側面が 少女 ( をとめ ) のやうである、この子を 被 ( おほ ) ふのには 黄八丈 ( きはちぢやう ) の蒲団でも 縮緬 ( ちりめん ) でもまだ足るものとは思はないのに、余りに哀れな 更紗 ( さらさ ) 蒲団であるなどヽ思ふのです。白い掛襟の 綻 ( ほころ ) びの繕はれてないのも 口惜 ( くや ) しいことに思はれるのです。 光 ( ひかる ) の 枕許 ( まくらもと ) には大きいリボンを掛けた女の子を色鉛筆で 描 ( か ) いた絵葉書が作られてあるのです。
瑞樹 ( みづき ) ちやんは 昨日 ( きのふ ) も 今日 ( けふ ) も 花樹 ( はなき ) ちやんに逢ひたいとばかり云つて泣いて居ます。 花樹 ( はなき ) さんがこの絵のやうな大きいお嬢さんになる時分には、 兄 ( にい ) さんも大きくなつて居て一人で汽車に乗つて迎へに行つて上げますよ。 兄 ( にい ) さんの上げた林檎は汽車の中で食べましたか。
などヽ仮名で書いてあるのです。表の宛名はまだ書いてありません。
私はあなたの 蚊帳 ( かや ) の中へもすつと 入 ( はひ ) りました。三郎の寝床がなくなつてからのあなたの 蚊帳 ( かや ) の中の様子は海の中に 唯 ( たヾ ) 一つある島のやうであると思つて、この前と同じやうな淋しさを私が感じると云ふのです。 此処 ( ここ ) の電気灯も十燭光位が 点 ( つ ) いて居るのです。私は三度程ぐるぐるとお 床 ( とこ ) を廻つてから 恥 ( はづか ) しいものですから背中向きにあなたの 枕許 ( まくらもと ) へ坐るのです。亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。そしてまたこれが出してあると私は思ふのです。それは(実際はそんな物をお持ちになりませんけれど、)私から昔あなたへお上げした手紙の一部である五六通が 一束 ( ひとたば ) になつた物なのです。亡霊は出て来る度に、これを読んで寝ようとお思ひになつてあなたが二階から 態々 ( わざ/\ )
床 ( とこ ) の中へ持つて来ておありになるのを見附けますが、私の生前に 束 ( たば ) ねられた儘の 紙捻 ( こより ) の結び目は一度もまだ解いた跡がないのです。私の生前と云ふよりも、私があなたの 許 ( もと ) へ来る前に 束 ( つか ) ねられた儘なのです。私には 全 ( まる ) で見当の附かない名の書かれた女の手紙が二通と、私の知つた中のつまらない女の手紙が一通あるのです。私の古手紙のやうな 煙 ( けぶり ) のやうな色をしないで、それらは皆鮮かな心持のいヽ色をした封筒に入つてゐるのです。男のも一通はあるんです。その知らない女の一通の 方 ( はう ) の手紙は 今日 ( けふ ) 来たのではなく、二三日前のであつて、今までにもう五六度も読まれた物であると云ふことが私の心には 直 ( す ) ぐ解るのです。葉書も二枚あるのです。一枚は私の妹から 瑞樹 ( みづき ) の機嫌の 好 ( い ) いことを知らせて来た物です。それには涙に匂ひが附いて居るので私はまた悲しくて溜らない気になると云ふのです。一枚は悪筆で、ワイフを貰ふことなんかを考へ出してはおまへのためによくねえぞ。その外のことならどんなことでも相談に乗つてやらう。心得がある。
こんなことが書いてあるのです。
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