遺書
與謝野晶子 (Isho) | ||
四
今日 ( けふ ) はもう書斎へは 入 ( はひ ) つて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は 其処 ( そこ ) で 過 ( すご ) して、悲しいことも嬉しいことも 其処 ( そこ ) に居る時の私が最も多く感じた 処 ( ところ ) なんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなのです。 併 ( しか ) し 階下 ( した ) へ降りるには 其処 ( そこ ) を通つて梯子口へ出なければならないと思つて、また自分は亡霊であるから梯子段などは要らないと非常に得意な気分になつて、 階下 ( した ) へすつと抜けて 入 ( はひ ) るのです。
子供の寝部屋には以前の二燭光よりは余程明るい電気灯が 点 ( つ ) けられてあるのです。子供は淋しがらせたくないあなたの心持を私は嬉しく思ふのです。 処 ( ところ ) でね、 蚊帳 ( かや ) の中には寝床が三つよりない、 光 ( ひかる ) と 茂 ( しげる ) と、それから女の子が一人より居ません。亡霊の胸は 轟 ( とヾろ ) きます。どうしても三つよりない。 然 ( しか ) も一つの寝床には確かに一人づヽより寝て居ません。寝て居る 方 ( はう ) は 瑞樹 ( みづき ) なのであらう、居なくなつたのは 花樹 ( はなき ) であらう、 花樹 ( はなき ) は 美濃 ( みの ) の妹が来て 伴 ( つ ) れて行つたのであらうと私は 直 ( す ) ぐそれだけのことを直覚で知ると云ふのです。三郎が京の 茅野 ( ちの ) さんの 処 ( ところ ) へ行つてからもう十五日になる、 花樹 ( はなき ) は 何時 ( いつ ) 行つたのであらうなどヽ考へながら私は引き離された 双生児 ( ふたご ) の 瑞樹 ( みづき ) の 枕許 ( まくらもと ) へ坐ります。大人ならば到底眠れないだけの悲痛な 音 ( おと ) がこの子の心臓に鳴つて居る 筈 ( はず ) である、どんなに 瑞樹 ( みづき ) さんは悲しいだらう、 双生児 ( ふたご ) と云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達ですね、けれどあなたの 方 ( はう ) が幾分か両親に大事がられたので、妹になつては居るのだけれど姉のやうな心持で 双生児 ( ふたご ) の一人を 庇 ( かば ) ふことを 何時 ( いつ ) も 何時 ( いつ ) も忘れませんでしたね、大抵の病気は二人が一緒にしましたね、さうさう 下向 ( したむき ) に 寝返 ( ねがへ ) りを仕初めたのも這ひ出したのも一緒の日からでしたね、牛乳を飲む時には教へられないのに瓶を持ち合つて上げましたね、あなた 方 ( がた ) はね、世間の 双生児 ( ふたご ) には 珍 ( めづ ) らしい一つの 胞衣 ( えな ) に包まれて居たのでしたよ、などとこんな話を口の中でした 瑞樹 ( みづき ) の顔を 覗 ( のぞ ) かうとするのでしたが、赤いメリンスの蒲団に引き入れた顔は上を向き 相 ( さう ) にもないのです。泣きながら寝入つたことがよく 解 ( わか ) るのです。枕の前には 硝子 ( ガラス ) の箱に 入 ( はひ ) つた新しい 玩具 ( おもちや ) が置いてあるのです。 花樹 ( はなき ) もこれと同じのをお 父様 ( とうさん ) に買つて頂いて行つたのであらうと私は思ふのです。蒲団から出して居る 瑞樹 ( みづき ) の手の 掌 ( てのひら ) には 緋縮緬 ( ひぢりめん ) のお手玉が二つ載つて居るのです。私が五つ 拵 ( こしら ) へて遣つて置いたのを、 花樹 ( はなき ) に三つ持たせて 遣 ( や ) つたのであらうと私は 点頭 ( うなづ ) くと云ふのです。大胆な 茂 ( しげる ) の顔にも少し 痩 ( やせ ) が見えて来たと哀れに思ひながら見て、私は一番端に寝た 光 ( ひかる ) の寝床へ 行 ( ゆ ) くのです。苦しい夢でも見て居るやうに、 光 ( ひかる ) の眉の間には大人のやうな皺が現はれたり消えたりするのです。私は物が言ひたいと長男の胸を抱いて悲しがるのです。
「 光 ( ひかる ) さん。」
とだけでいヽ、 唯 ( た ) だそれだけでいヽ、もう永劫にこの子等を見に来られないことになつてもいヽ、今夜の今、
「 光 ( ひかる ) さん。」
と云つて、この子を 眠 ( ねむり ) から 醒 ( さま ) させたいと遣瀬なく思ふのです。
遺書
與謝野晶子 (Isho) | ||