University of Virginia Library

八 豐河より橋本

 十日、豐河を立ちて、野くれ里くれ遙々とすぐる峯野の原といふ處あり。日は野草の露より出でて若木の枝に昇らず。雲は嶺松の風に晴れて山の色、天と一つに染めたり。遠望の感、心情つなぎがたし。

山のはは露より底にうづもれて
野末の草にあくるしののめ

 やがて高志山にかかりぬ。岩角をふみて火敲坂を打過ぐれば、燒野が原に草の葉萠えいでて、梢の色、煙をあぐ。この林地を遙かに行けば、山中に境川あり。これより遠江の國にうつりぬ。

くだるさへ高しといへばいかがせん
のぼらん旅のあづまぢの山

 この山の腰を南に下りて遙かに見くだせば、青海浪々として白雲沈々たり。海上の眺望はここに勝れたり。やうやうに山脚に下れば匿空のごとくに堀り入りたる谷に道あり。身をそばめ聲を呑んで下る。上りはつれば、北は韓康獨り徃くのすみか、花の色、夏の望に貧しく、南は范蠡扁舟の泊り、浪の聲、夕べの聞きに樂しむ。鹽屋には薄き煙、靡然となびきて、中天の雲、片々たり。濱りうにはあふるる潮涓焉とたまりて、數條の畝、せき々たり。浪によるみるめは心なけれども黒白をわきまへ、白洲に立てる鷺は心あれども、毛、いさごにまどへり。優興にとどめられて暫く立てれば、この浦の景趣は、ひそかに行人の心をかどふ。

ゆきすぐる袖も鹽屋の夕煙
たつとてあまの淋しとや見め

 夕陽の景の中に橋本の宿に泊る。鼈海、南にたたへて遊興を漕ぎゆく舟に乘せ、驛路、東に通ぜり、譽號を濱名の橋に聞く。時に日車西に馳せて牛漢漸くあらはれ、月輪、嶺にめぐりて、兎景、初めて幽かなり。浦に吹く松の風は、臥しも習はぬ旅の身にしみ、巖を洗ふ波の音は、聞きも馴れぬ老の耳にたつ。初更の間は、日ごろの苦しみに七編のこものむしろに夢みるといへども、深漏は、今宵の泊の珍らしきに目さめて、數双の松の下に立てり。磯もとどろによる波は、水口かまびすしくののしれども、晴れくもりゆく月は、雲の薄衣をきて忍びやかにすぐ。釣魚の火の影は、波の底に入りて魚の肝をこがし、夜舟の棹の歌は、枕の上に音づれて客の寢ざめにともなふ。夜もすでに明けゆけば、星の光は隱れて、宿立つ人の袖は、よそなる音に呼ばはれて、しらぬ友にうちつれて出づ。暫く舊橋に立ちとどまりて、珍らしき渡りを興ずれば、橋の下にさしのぼる潮は、歸らぬ水をかへして上さまに流れ、松を拂ふ風の足は、頭を越えてとがむれども聞かず。大方、羇中の贈り物はここに儲けたり。

橋本やあかぬわたりと聞きしにも
なほ過ぎかねつ松のむらだち
浪枕よるしく宿のなごりには
のこして立ちぬ松の浦風