University of Virginia Library

一五 竹の下より逆川

 十六日、竹の下を立ち、林の中をすぎて遙々ゆけば、千束の橋を獨梁にさしこえて、足柄山に手をたてて登れば、君子、松いつくしくて貴人の風、過ぐる笠をとどめ、客雲、梢に重なりて故山の嶺あらたに高し。朝の間は雨降りて松の風、聲の虚名をあらはす。程なく、日兎、岡の東にのぼりて、雲早く驛路の天に晴れぬ。かの山祇の昔の歌は遊君が口に傳へ、嶺の猿の夕べの鳴きは行人の心を痛ましむ。(むかし青墓の宿の君女この山を越えける時山神翁に化して歌を教へたり。足柄といふはこれなり)時に萬仭、峯高し、木の根にかかりて腰をかがめ、千里、巖さかし、苔の鬚をかなぐりて脛をののく。山中を馬返しといふ、馬もしここにとどまりたらましかば馬鞍とぞいはまし。これより相模の國に移りぬ。

秋ならばいかに木の葉の亂れまし
あらしぞおつる足柄の山

 關下の宿をすぐれば、宅をならぶる住民は人をやどして主とし、窓にうたふ君女は客をとどめて夫とす。憐れむべし千年の契を旅宿一夜の夢に結び、生涯のたのしみを往還諸人の望にかく。翠帳紅閨、萬事の禮法ことなりといへども、草庵柴戸、一生の歡遊これ同じ。

櫻とて花めく山の谷ほこり
おのが匂ひも春はひととき

 路は順道なれども宿の逆川といふ處に泊る。(潮のさす時は上さまに水の流るればさか川といふ)北は片岡、舊りううちすさみて薄の燒け折れ青葉にまじり、南は滿海、浪わきあがりて白馬ならびわたる。しかのみならず、前汀東西、素布を長疊の波に洗ひ、後園町段、緑袂を萬莖の竹にかく。時に暮れゆく日脚は、影を遠島の松にかくし、來り宿する疎人は、契を同驛のむしろに結ぶ。かの草になつく疲馬は、胡國を忍びて北風にいばへ、野に放つ休牛は、呉地にならひて夜の月にあへぐ。棹歌數聲,舟船を明月峽のほとりによせ、松琴萬曲、琵琶を潯陽江の汀に聞く。一生の思出は今夜の泊にあり。

行きとまる磯邊の浪のよるの月
旅寢のそでにまたやどせとや