University of Virginia Library

四 鈴鹿より市腋

 六日、孟嘗君が五馬の客にあらざれば、函谷の

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の後、夜を明かして立つ。山中なかば過ぎてやうやう下れば、巖扉削りなせり、仁者のすみか靜かにして樂しみ、澗水掘り流す、知者のみぎり動けども豐かなり。かくて邑里に出でて田中の畔ほ通れば、左に見、右に見る、立田眇々たり。或は耕し、或は耕さず、水苗處々。しかのみならず、池溝かたかたに掘りて、水をおのがひきひきに論じ、畦畝あぜを並べて苗を我がとりどりに植ゑたり。民烟の煙は父君心體の恩火よりにぎはひ、王道の徳は子民稼稷の土器より開けたり。水龍はもとより稻穀を護りて夏の雨を降し、電光はかねてより九穗を孕みて三秋を待つ。東作の業、力を勵ます、西收の税、たのもしく見ゆ。劉寛が刑を忘れたり、蒲鞭さだめて螢となりぬらん。

苗代の水にうつりて見ゆるかな
稻葉の雲の秋のおもかげ

 日かずふるままに故郷も戀しく、たちかへり過ぎぬる跡を見れば、何れか山、何れか水、雲よりほかに見ゆるものなし。朝に出で暮に入る、東西を日の光に辨ふといへども、暮るれば泊り明くれば立つ、晝夜を露命に論ぜんことは離し。おのづから歩を拾ひて萬歩に運べば、遠近かぎりありて往還期しつべし。ただ憐れむ、遙かに都鄙の中路に出でて前後の念に勞することを。

ふるさとを山のいくへに隔てきぬ
都の空をうづむしらくも

 夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ、後に見あぐれば、峯そばだちて、山祇の髮、風にくしけづる。磐をうつ夜の浪は千光の火を出だし(入海の潮は夜水をうてば火の散る樣にひかるなり)かがなく

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むささびは孤枕の夢を破る。ここに泊りて心はひとり澄めども、明けゆけば友にひかれて打出でぬ。

松が根の岩しく磯の浪枕
ふしなれてもや袖にかからん