University of Virginia Library

一六 逆川より鎌倉

 十七日、逆川を立ちて平山をすぐ。高倉宰相中將(範茂)急川といふ淵にて底のみくづと沈みにけり。つらつらその昔を思へば哀れにこそ覺ゆれ。日本國母の貴光をかがやかす光の末に身を照らし、天子聖皇の恩波をそそぐ波のしづくに家をうるほす。羽林の花、新たに開け、春にあへる匂ひ、天下に薫ばし。射山の風あたたかにあふぐ、時にあたる響き、をちこちにふるふ。計りきや、榮木、嵐たたきて、その花、塵となり、逝水、ながれ速かにして、その身、泡と消えんとは。連枝の契、片枝はや折れぬ。家苑の地、跡むなしく殘れり。ひもくのむつび一頬をならべず、他郷の水落ちて歸らず、一生ここにつきぬ。この川は三泉の水口たるか。いふことなかれ水こころなしとは、波の聲、鳴咽して哀傷をよす。

流れゆきて歸らぬ水のあはれとも
消えにし人の跡と見ゆらん

 このついでに相尋ぬれば、一條宰相中將(信能)美濃の國遠山といふ處にて、露の命、風、をかしてけり。それ洛中に別れを催しし日は、家を離れし恨、いよいよ惡業の媒たりしかども、旅の路に手をひらきし時は、家を出づる悦、遠き善縁の勸にあへり。掌を合せ、念を正しくして魂ひとり去りにけり。臨終の儀を論ぜば往生ともいふべし。東土には、たとひ勇士永く一期の壽木を切るとも、西刹には、聖衆さだめて九品の寶蓮に導き給ふらん。かの羽化を得て天闕に遊びにし八座の莚、家門の塵を打拂ひ、虎賁をかねて仙洞に走る累葉の花、芳枝の風にほころびき。痛ましいかな、平日の影、盛んにして未だ西天の雲に傾かざるに、壽堂の扉、永く閉ぢて

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ばうの地に埋む事を。花の床をなにか去りけん、跡にとまりて主なし。親族は悲めどもよしなし、旅に出でて獨り死にぬ。楊國忠が他界に移りし、知らず人の恨をなすことを。平章事の遠山に滅びし、思ひやりき身の悲み遠く含みけんことを。かの東平王の舊里を思ふ、墳上の風、西に靡く、まことにさこそはと哀れにこそ覺ゆれ。

思ひきや都をよそに別れ路の
遠山のへの露きえんとは

 それ人の生れたるは庭に落つる木の葉の風に動くが如し。風やみぬれば動かず。死と思ふは旅に出づる行客の宿に泊るが如し。ここに別れぬといふともかしこに生れぬ。ただ煩惱の眼のみ見ざることを悲み、愚痴の心のみ知らざることを恨むべし。早く別れを惜まん人は、再會を一佛の國に約し、恩を戀ひん人は、追福を九品の道に訪ふべし。

今さらになに嘆くらむ末の露
もとより消えんものと知らずや

 大磯の浦、小磯の浦を遙々とすぐれば、雲の橋、浪の上に浮びて、鵲の渡し守、天つ空に遊ぶ。あはれ淋しき空かな、眺め馴れてや人は行くらんな。

大磯や小磯の浦の浦風に
行くとも知らずかへる袖かな

 相模川を渡りぬれば、懷島に入りて砥上の原に出づ。南の浦を見やれば、波の綾、織りはへて白き色をあらふ。北の原を望めば、草の緑、染めなして淺黄をさらせり。中に八松とふ處あり。八千歳の蔭に立寄りて十八公の榮を感ず。

八松の千世ふるかげに思ひなれて
とがみが原に色もかはらず

 片瀬川を渡りて江尻の海汀をすぐれば、江の中に一峯の孤山あり。山に靈社あり、江尻の大明神と申す。感驗ことにあらたにして、御前をすぐる下り船は上分を奉る。法師は詣らずと聞けば、その心を尋ぬるに、むかしこのほとりの山の山寺に禪僧ありて法華經を讀誦して夜を明し日を暮らす。その時、女形出で來て夜ごとに聽聞して、明くれば忽然として失せぬればその行くへを知らず。僧これを怪しみて、絲を構へてひそかにその裾につけてけり。あくる朝に絲を見れば海上にひきて彼の山に入りぬ。巖穴に入りて龍尾につきたりけり。神龍、現形して後、僧に耻ぢてこれを入れずといへり。それ權現は利生の姿なり、化現せば何ぞ姿に憚からん。弘經は讀誦の僧なり、經を貴まば何ぞ僧を厭はんや。ふかき誓は海に滿てり、波にたるるあと、蕊體は天に知られたり、雲に響く聲。されども神慮は人知るべからず。宜禰が習はしに從ひて伏し拜みて通りぬ。

江の島やさして潮路にあとたるる
神はちかひの深きなるべし

 路の北に高き山あり。山の峯、かぶろにて高からずといへども、怪石ならびゐて興なきにあらず。歩をおさへて石を見れば、むかし浪の堀りうがちたる磐どもなり。海も久しくなれば干るやらむと見ゆ。

 腰越といふ平山のあはひを過ぐれば稻村といふ處あり。さかしき岩の重なりふせるはざまを傳ひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪、花の如くに散りかかる。

うき身をば恨みて袖をぬらすとも
さしてや波に心くだかん

 申の斜に湯井の濱に落ちつきぬ。暫く休みてこの處を見れば,數百艘の舟、ともづなをくさりて大津の浦に似たり。千萬宇の宅、軒をならべて大淀のわたりにことならず。御靈の鳥居の前に日を暮らして後、若宮大路より宿所につきぬ。月さしのぼりて、夜もなかばにふけぬれば、思ひおきたる老人、おぼつかなく覺えて、

都には日を待つ人を思ひおきて
あづまの空の月を見るかな

 鷄鳴八聲の曉、旅宿一寢の夢おどろきて立ち出でて見れば、月の光、屋上の西に傾きぬ。

思ひやる都は西にありあけの
月かたぶけばいとどかなしき